―四方のたより― 船阪義一氏の急死に‥
船阪義一氏急死の報をひょんなことから知ったのはちょうど1週間前。驚き、騒ぎ立つ心を抑えつけ、たしかな情報を待つも、杳として掴めぬままに日が過ぎてきたが‥、
ようやくにして判ってきたことは、心臓動脈瘤破裂で緊急入院したのが6月25日、その4日後の29日、儚くもそのまま帰らぬ人となってしまった、という。
なんということ! 人はこうも呆気なく此の世から去りゆくものか、といまはただ月次な言いようしか思い浮かべえない私なのだが‥。
強いて自身を離れてみれば、畢竟、舞台の照明を本業とした彼は、どこまでも影の存在としてその生涯を、音楽に演劇に舞踊にと、さまざまな舞台芸術を文字通り裏から支える業にひたすら身を賭してきたばかりでなく、
91年から始まったアルティ・ブヨウ・フェスティバルにおいては事実上のプロデューサー的存在であったように、その手腕は数多の企画を実現させる影の仕掛け人としても大いに発揮されてきたことに照らせば、
彼の存在を頼みともする知己の人々、舞台人らそのひろがりは、狭い一路をただ歩んできた私などの想像をはるかに超えるものであるにちがいない。
彼の死という報が、その衝撃が、どれほど多くの人々の心を駆けめぐり、どれほど多くの動揺と傷痕を遺していくことになるのかは考えるだに難しく、その領野を俯瞰することなどきっと生半のことではない。
その激震の強さとひろがりは、いまのところ眼には見えず表れ出ていないにせよ、否むしろ何処からも公言もされずひたすら静かに潜航し伝播しつづけていればこそ、私などには到底量り知れないものがある筈なのだ。
おそらくは、魂鎮めと魂振り、これらはまさに相補的であり、且つその量においてほぼ等しくあるものなのだ。
船阪義一、1944年生まれ、はからずも私と同年であった。
「夢の破片を胸に抱き
鬼の児よ。けふからまた、君の
三界流浪がはじまるのか。
――鬼の児の鏡みる夜のさむさかな。」
金子光晴-「鬼の児の唄」から-抜粋
<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>
「鳶の羽の巻」-28
せはしげに櫛でかしらをかきちらし
おもひ切たる死ぐるひ見よ 史邦
次男曰く、「うき人を枳殻垣よりくゞらせん」以下、二句恋-芭蕉-、恋離れ-去来-、其会釈-凡兆-と継いできて、当句も亦其人-女-の科白とすることはできぬ。輪廻になる。
といって、合戦場などでの男の大見得と読替えれば、唐突な「櫛」が納得ゆかぬ。女の形見と考えても、打物執って死狂いする男が投櫛で未練げに、「かしらをかきちらし」たりなどしては、様になるまい。折角のはこびの流れを毀してしまう。
結局この句は、前二句の狂乱の体を見込んで、「死ぐるひ」と、一段摺上げた作りには違いないが、女と男の向付としたか、それとも第三者の掛声・間-あい-の手を以て演劇的地合とし、観想の作りとしたか、いずれかだ。
後者を採る。結んで前後句いずれにも執成せる作りは連句の常道で、この句について云えば、「死ぐるひ」の読取りを男の所作に奪えるからだ。
加えてもう一つ、重要な訳がある。先に、初折二つ目の月を零した去来の振舞に立会い、自ら進んで走使の役割を買って出た史邦には、今度こそ何を措いても去来をもてなす謂れがあった。次は名残の月の定座で、巡は去来である。
「おもひ切たる死ぐるひ見よ」という傍白の本当の狙いは、「おもひ切たる-勇士の-死ぐるひ」を見せて欲しいということだ。「見よ」は観衆の期待を担った、煽りの云回しである、と。
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