―世間虚仮― 暑中お見舞
本ブログお訪ねの皆様へ
暑中お見舞い申し上げます。
大暑の候なれば、何にもましてご自愛のほどを。
年を経るごとに、都会の夏がいよいよ身に堪えるようになってきました。
かといって家族挙げて何処かへ遁走するわけにもゆかず、またその甲斐性もなく、
ひたすら猛暑の過ぎゆくを、動かず騒がず、じっと待つのみ。
今日明日と大阪は、名にし負う天神祭、
私の住む地域でも、末社の天満宮が繰り出す神輿でしょうか、
ときおり祭り囃子が耳に届いてくるのですが、此方の御腰?は挙がる気配なし。
<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>
「梅が香の巻」-06
宵の内はらはらとせし月の雲
藪越はなすあきのさびしき 野坡
藪越-やぶごし-は
次男曰く、隔てるものを「雲」から「藪」に取替えて、景を人情に奪い返している。
見易い付だが、打越に「上のたよりにあがる」とあれば、間接とした思付が輪廻気味に読めて気になる。なるが、打越の芭蕉句は噂の作り、こちら野坡は実の作り、とすれば、この奪い方はむしろ差合を避ける工夫と賞めるべきだ。つれて、「月の雲」という詞はもともと虚実を兼ねた遣方だ、と読取らされるから連句は面白い。
和歌はもとより連歌にも表れてこなかった表現の趣向であることがよくわかるが、先蹤は貞享元年「冬の日」の「月とり落すの巻」に、
烹る事をゆるしてはぜを放ける 杜国
声よき念仏藪をへだつる 荷兮
とある。烹-に-るのを赦したことを藪越しに聴く念仏唱名のゆるやかさに移した付もうまいが、不安不定を離れる工夫に、さびしいから藪越しに話す、と作った人なつかしさの考え方も劣らずよい。
一読、雲隠れ月のもどかしさに着目して、藪越しの話をもどかしがる体に作ったようにも読めるが、そうではない。藪は、相手の顔が向こうに見えるほどの薄い藪垣だろう。前句の人を付けたと解するにはあたらない。この実人情の取り出し様は、秋深まる、とてあらためて認識した句ぶりである、と。
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