―表象の森― 精神分析の臨床と日常語
その著書「甘えの構造」はつとに知られるが、日本の精神分析、その黎明期をリードし後進に多大の影響を与えた土居健郎-5日死去、89歳-を悼む斎藤環の一文が、昨日の夕刊-毎日-に載っていた。
先達土居健郎の、卓越した臨床家としての側面は、名著「方法としての面接」でその片鱗をうかがい知ることができる、として続いた言挙げが判りやすくおもしろいので書き留めておく。
「わかる」という言葉を手がかりに
自分のことが「わかられている」と感じるのが分裂病
「わかりっこない」と考える躁鬱病
「わかってほしい」と訴える神経症
といった区分がなされる。
斎藤は、臨床において日常語がいかに発見的な機能を持っているか、このくだりからだけでも十分にうかがい知れよう、と結んでいる。
<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>
「空豆の巻」-18
雪の跡吹はがしたる朧月
ふとん丸けてものおもひ居る 芭蕉
次男曰く、折端、雑。天象を人事に奪い、「雪の跡吹はがしたる」に見合うのは「ふとん丸けて」だと作っている。敷いてないのではない、展べてあるか、展べかけて思い直したか、はだれ雪にさすおぼろな月かげに蒲団を丸める興を誘われた、とまず云っている。そして、じつは「ものおもひ」のたねがあったのだ、と恋含につないである。二句、待人来らず独り寝のさまか、つれなく帰った男に対する思いか、それとも亡き人の思出か、などなど話をさぐらせるところ、芭蕉はやはり恋上手である。尤も、句の人には当世風の女の姿はあるが、かぎる必要はない。
蒲団は現代では冬の季語である。蕪村の頃には冬に扱った例がいくつもあり、元禄頃にもそう見なしたらしい発句がある。支考の「削かけの返事」-享保13年-には「発句にすれば当季となり、平句にすれば雑となる物は、夜着、ふとん、居-すゑ-風呂の類也」と云う。平句では無季に扱うのが普通だったらしい、と。
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