山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

置わすれたるかねを尋ぬる

2009-07-20 19:02:18 | 文化・芸術
080209120

―四方のたより― 成田屋、稽古、そして‥

一昨夜、3月以来のD.マリィらの「成田屋騒動」第2弾、いや今回は「鳴動!成田屋」と謳っていたか、を観るべく新世界へ。その前に丑の日も近いとて早い夕飯を四ツ橋のうな茂さんで食していたから、交差点の植栽の縁に腰掛けて満腹気味の倦怠感に襲われながら、暮れゆくなかでの待ち時間がちょっと辛かったのだが、いざperformanceが始まると、まあ20分程の短い時間だし、結構愉しめる鑑賞となった。

地の利、時の利、信号が赤になるたび通行人が立ち止まって貯まるから、否応もなく彼らの眼に耳に飛び込んでくる。通りがかりの人々の、十人十色のリアクションを見ているだけでも愉しいものだし、刻々と夜の帳がおちゆくにつれ、街のネオンや外灯に照り映えていくperformanceの変移もまた愉しい。

昨日の稽古は、ありさと純子のみ。来週から夏の特別講習会二つに参加するため東京へと出向くありさは、3週間お休みとなるから、彼女に的を絞ってちょっぴりしごいた。

たとえばありさの即興を見れば、動きから動きへのその移り、次の動きを思いついた瞬間が、此方には手に取るようにわかる。さすれば、そのひとつひとつの動きは、つねに完璧なものを求められることになる。ひとつひとつが隙のない見事な体技でなければ、観る者を納得させられはしない。

ところが、動きの移り、その転の瞬間を不透明に、いわば故意に隠蔽させつつ転じてゆく、そういう動きかたがありうる。動きがどの瞬間に思いつかれたものかまるで判然としない、だがいつのまにか動きは移っているのだ。そういうことが自在に出来るとしたら、動きの移り-転-の強度を最大値10からはてしなく0に近い微弱なものにまで変容させつつ繰り延べていくことが可能になる筈だ。
この話、純子には概ね了解がいったようであった。ありさには‥? まだまだ少女期の彼女には難解に過ぎようものだ。

昨夜来、頼まれものの宣材のレイアウト作業に没頭していた。やはり素人は素人、とにかく効率が悪すぎるのには、我ながらほとほと滅入るばかりだが、こんな仕事でなにがしかのお足にありつけるのだから、ありがたいと思ってがんばった。
それもひと区切り、なんだか頭も身体のほうもボーッとしながら、これを書いている。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「空豆の巻」-22

  泣事のひそかに出来し浅ぢふに  

   置わすれたるかねを尋ぬる  孤屋

次男曰く、「梅が香の巻・空豆の巻」、「閉関」の心境に発した二様の句作りを、連衆は其れと知っていたに違いあるまい。そうでなければ、同想異曲の句を以てした付が片や名残7.8句目、片や名残3.4句目に符節を合せて生れる筈がない。

野坡の句は「ひらふた金で表がへする」、孤屋の句は「置わすれたるかねを尋ぬる」。いずれも籠居の情を俗へ取戻す工夫で、手立に金銭の力を借りる思付は両替商の手代ならではの生活の智慧である。重くれを破るのに、芭蕉が野坡たちに目をつけた訳が見える付だ。気分転換の手段が金は金でも「ひろうた金」「置わすれたるかね」でなければ、閑情が閑情でなくなる。死に金を活かす目付が両句共通のみそだ、と読めてくるだろう、と。


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