自分が14歳のとき、どんな感じやったかなというと、自分はまあ、クラスの男子グループに嫌がらせをされる毎日で、それが嫌になって、学校が苦痛になり、不登校になり始めた頃ですわ。
クラスの男子たちになんで嫌がらせをされ始めたかというと、最初彼らはわたしをグループデートのようなものに誘い、わたしがそのデート場所について、わがままを言ったので彼らがキレて、「なんやこいつ、大人しい感じのイメージと全然ちゃいますやんけ」みたいな感じになったんでしょうね、それから嫌がらせが始まったんですわ。
わたしも当時から強気な性格だったので、彼らを睨み返したり、わたしもキレて彼らの椅子を蹴り飛ばしたりしていたのですが、それでも相手は3,4人とかだったかな、どうしても多数に対して、人は弱気になってしまうもので、ものすごく内心ではつらかったのです。
その男子グループの男共と、他のクラスのヤンキーたちに追い掛け回され、自分は追い込まれて襲われそうになったこともありました。
今想いかえせば、可愛い奴らだったので、襲い返したったらよかったなと想います。
「おい、ちんぽ、立ってんだろ?ほら、出せよ、出せよ!この、童貞のふにゃちんが、しこって見せろよ!あほがっ」と罵倒してやりたかったですよね。
ね、女性のみなさん。
たぶん、そう言ってたら彼らはドン引きに引いて、その後嫌がらせはさっぱりとなくなったことでしょう。
わたしは今からでも遣り返してやりたいですよ、彼らにね。
「おい、パンツ脱げよ、パンツ濡らしてんだろ?てめえのふにゃふにゃちんぽをカッチンコッチンにしたろかー」と言って、彼らに恥辱を味わわせてやりたいですぜ。
彼らのチンポを一本、一本、裸足で踏み潰し・・・って、え?もういいって?そんな話はよせ?
では、彼らのタマを、一つずつ蹴り上げ、蹴り飛ばしましてぇ・・・ってもうええか(笑)
こんな朝の6時半に俺は何を書いとるんだ。
こんなことを書き始めたのも、映画「リリィ・シュシュのすべて」と「リリア 4-ever」という鬱になる映画と巷で話題の映画を二作続けて観てしまったせいです。
あなたもよかったら是非、この二作を続けて観てみて、「おまえのチンポを蹴り上げたりましょうか~」という気持ちになるのかどうか、試してみてください。
なんでかというと、男たちの性欲があの場になければ、彼女たちは全く違う人生を歩んでいたという映画でもあるからです。
この「リリィ・シュシュのすべて」と「リリア 4-ever」二作品には、両方とも少女に対する売春(人身売買)、レイプ、自○というものが描かれています。
「リリィ・シュシュのすべて」岩井俊二監督(2001)
観たのはもう何度目かも憶えていませんが、今回はそれほど観終わっても、落ち込まず、むしろスカッとしたような気さえしました。
岩井俊二監督の最高傑作と言って良いでしょう。
監督がこの映画を撮ったのが36,7歳の頃だと知って、自分くらいの年でこの映画を撮ったのかぁと想うと、なんと若々しい感性なのかと唸らされました。
彼が遺作にしたいと言った納得させられる傑作です。
36年生きてるとね、14歳やそこらの子供たちに対して、罪だの醜いだの汚いだのと議論をすること自体が可笑しいと想えてくるもんです。
これは馬鹿にしているんではなく、むしろ尊敬に値する天使のような純真な存在たちであるのだとわたしは想うようになってきましたね。
彼らが何を大人の真似をした口を利き、誰を虐め、誰に危害を与えようとも、彼らは罪なき存在たちなんです。
少年犯罪、いじめ、なんで起こるのかはすべて、大人の責任なんです。
全部、彼らを育てる大人が原因にあるということです。
夜回り先生の水谷修氏は彼らは25歳まで少年であるから少年法で護られるべきだと断言しましたが、いやいや、30歳を過ぎるまで、全員が子供ですよ。
純粋で仕方ない存在です。
彼らは皆、少年です。成人と同等に罰されるべきではない。
もし少年を罰するというのならば、その周りの関わってきた大人も罰さないでは理不尽な話なんですよ。
映画の話に戻りますけれどもぉ、この映画は別にリアルだから傑作なわけではないんです。
この映画って、少年らが何をやらかそうが野放しなんですよ、ほぼ。
ほったらかされているんです、彼らは皆。
だれひとり、どれほど罪悪の念を感じようが、彼らは刑罰を与えられはしていないんです。
それはなんでかとゆうと、彼らはまだ子供だからです。
これが大人なら、ほんとうにどん底を映さなければ傑作にすることができないはずなんです。
彼らが何をやっているか、彼らは盗みを働き、暴力を奮い、レイプし、果ては○○してしまうわけなんです。
何故この映画が鬱映画、観なければ良かった映画、救いが皆無の映画と言われながらも同時にあまりにも美しい傑作だと評価されているのか。
それは彼らが、少年たちだから、ただそれだけだからなんです。
これが30歳を過ぎた男女たちが繰り広げていたなら、もう、どれほどドヴュッシーのピアノ曲をガンガンにかけて、足利市の美しい風景をバックにしたところで、どんろどんろの泥溜めみたいな映画になるはずですよ。
何が言いたいのかと言いますと、彼らは何をやっても、赦されてしまう世界をこの映画は描き、その世界を監督は創りあげたかったのではないか~?と今の今想ったということなんです。
全部、即興で、自動書記状態でレビューをほぼ書いてますからね。今の今、わたしはそう想ったんです。
何事も赦されてしまう世界、そう、その世界はまるで、楽園と言える地獄、地獄と言える楽園と言えるのではないだろうか。
沖縄のシーンも、楽園みたいな地獄で、地獄みたいな楽園じゃないですか。
あのダツっていう魚、夜の海に光を向けると飛んでくるってもっと早くゆうてくれよって話じゃないですか。
あんな魚飛んできたらどんなパラダイスも一瞬にしてゲヘナみたいな場所と化すじゃないですか。
監督はきっと、そういう世界を撮りたかったのではないだろうか。
そういうことだので、もう朝の8時か、次はお待ちさせまして、「リリア 4-ever」のレビューのほうに参りましょうか。
『リリア 4-ever』(リリア フォーエバー、原題:Lilja 4-ever)2002年公開のスウェーデン映画です。
「Lilya 4 Ever」ルーカス・ムーディソン監督
この映画は非常に残念なのですが、日本の劇場未公開作品であり、日本語字幕のDVD化もされておりません。
ですのでわたしは動画をネットで探して、英語の字幕を自動翻訳して観ました。
この映画の色合いと美術的なものや子供の着ている服など、わたしはちょうど最近Lise Sarfati (リーズ・サルファティ)という写真家を知って、何枚か好きな写真をPinterestに載せたのです。
このリーズ・サルファティの写真とよく似ているように想い、わぁ、あの世界が映画で観れる?!と想って、しかも重い映画と評価されていたので重く苦しいものがほんとうに好きなわたしはとても期待して観ました。
これがリーズ・サルファティの写真です。映画は舞台が旧ソ連、この写真は1992,1993年辺りのモスクワとなっています。
結構似ていると想われませんか?
良かったらyoutubeにも検索すれば映画がありますので、序盤の当時14歳かそこらのオクサナ・アキンシナが演じる母との別れのシーンだけでも、大変素晴らしいので観て頂きたいものです。
始まり方が面白くて、ニンフォマニアックの始まり方みたいなうるさい音楽(笑)で始まるのですが、ここら辺が何か東欧映画(勝手なイメージ・・・)っぽい味を出しているなぁと想って好きです。
この少女リリアは設定は16歳ですが、演じているオクサナは14歳とかなので、どうしても14歳の少女として観てしまいます。
人身売買というものが、当時だけではなく、現在でも行なわれ続けているロシアの町(途中からスウェーデンに移りますが)、それは先ほど載せたリーズ・サルファティの写真を観ても窺い知れるものではないでしょうか。
子供たちがきっと凍えるような寒さのなか、トンネルの中のような場所で眠っています。
貧しさの隣には何があるかというと、そこには大人だけでなく子供たちの売春があり、また臓器売買などの取引きも行なわれているであろうことは容易に感じ取れます。
貧しさのなかで、力も知恵も大人のようにない子供たちは商品とされてゆくのです。
それは女性という存在もそうです。男性に対して、女性は力が弱く、彼女たちは弱者です。
わたしはレイプと呼んでもいいのかもしれない経験はしたことがあります。
当時22歳だったわたしは父を亡くしたばかりで、すべてに自棄になり危険も顧みず、サイトで知り合った男性の家に一緒に行って、処女だったわたしは、あまりの痛さに必死に拒んだのですが、相手は力任せに行なおうとして最後にはキレてわたしの脚を叩きました。
まだ処女膜も破れていないわたしは涙を流しながら開いた股がぷるぷる震えたまま閉じることさえできませんでした。
それがわたしの、初めての男性の経験です。
その男性は27歳で若くイケメンでしたし(笑)、繊細な感受性の持ち主だったので、まだ心の傷は癒えるのが早かったかもしれません。
もし、レイプの相手がこの映画のなかに何度か登場する何人もの野蛮な野豚みたいな中年男性だった場合、その傷は癒えるのは、かなり遅かったのかもしれません。
でもどんなに若くてタイプな男性だったとしても、レイプをされたり、暴力を奮われたら、女性の傷口というものはそうは閉じるものではないですよ。
それは力の差より、女性は男性に対して、多くが優しさを求めているからです。
わたしも昔から男性からの暴力的なものは普通に経験してきたので、男性からの暴力に対して、酷く恐怖している面を持っています。
わたしの人生に男性からの暴力がなかったなら、わたしは今働いているのかもしれません。
強要される売春がなかったなら、彼女たちはいま普通に生活をしているのかもしれない。
でもわたしは、今のこの生活を本当にありがたく想っています。
彼らの暴力がなければ、手に入らなかった、この自由な生活を。
男性たちに、最早なにも望みません。
わたしたちはあの日を境に、男性に対する幻想はすべて滅び尽くしたからです。
わたしたち女が望むもの、それは、キリスト・イエス、その愛、それのみです。
クラスの男子たちになんで嫌がらせをされ始めたかというと、最初彼らはわたしをグループデートのようなものに誘い、わたしがそのデート場所について、わがままを言ったので彼らがキレて、「なんやこいつ、大人しい感じのイメージと全然ちゃいますやんけ」みたいな感じになったんでしょうね、それから嫌がらせが始まったんですわ。
わたしも当時から強気な性格だったので、彼らを睨み返したり、わたしもキレて彼らの椅子を蹴り飛ばしたりしていたのですが、それでも相手は3,4人とかだったかな、どうしても多数に対して、人は弱気になってしまうもので、ものすごく内心ではつらかったのです。
その男子グループの男共と、他のクラスのヤンキーたちに追い掛け回され、自分は追い込まれて襲われそうになったこともありました。
今想いかえせば、可愛い奴らだったので、襲い返したったらよかったなと想います。
「おい、ちんぽ、立ってんだろ?ほら、出せよ、出せよ!この、童貞のふにゃちんが、しこって見せろよ!あほがっ」と罵倒してやりたかったですよね。
ね、女性のみなさん。
たぶん、そう言ってたら彼らはドン引きに引いて、その後嫌がらせはさっぱりとなくなったことでしょう。
わたしは今からでも遣り返してやりたいですよ、彼らにね。
「おい、パンツ脱げよ、パンツ濡らしてんだろ?てめえのふにゃふにゃちんぽをカッチンコッチンにしたろかー」と言って、彼らに恥辱を味わわせてやりたいですぜ。
彼らのチンポを一本、一本、裸足で踏み潰し・・・って、え?もういいって?そんな話はよせ?
では、彼らのタマを、一つずつ蹴り上げ、蹴り飛ばしましてぇ・・・ってもうええか(笑)
こんな朝の6時半に俺は何を書いとるんだ。
こんなことを書き始めたのも、映画「リリィ・シュシュのすべて」と「リリア 4-ever」という鬱になる映画と巷で話題の映画を二作続けて観てしまったせいです。
あなたもよかったら是非、この二作を続けて観てみて、「おまえのチンポを蹴り上げたりましょうか~」という気持ちになるのかどうか、試してみてください。
なんでかというと、男たちの性欲があの場になければ、彼女たちは全く違う人生を歩んでいたという映画でもあるからです。
この「リリィ・シュシュのすべて」と「リリア 4-ever」二作品には、両方とも少女に対する売春(人身売買)、レイプ、自○というものが描かれています。
「リリィ・シュシュのすべて」岩井俊二監督(2001)
観たのはもう何度目かも憶えていませんが、今回はそれほど観終わっても、落ち込まず、むしろスカッとしたような気さえしました。
岩井俊二監督の最高傑作と言って良いでしょう。
監督がこの映画を撮ったのが36,7歳の頃だと知って、自分くらいの年でこの映画を撮ったのかぁと想うと、なんと若々しい感性なのかと唸らされました。
彼が遺作にしたいと言った納得させられる傑作です。
36年生きてるとね、14歳やそこらの子供たちに対して、罪だの醜いだの汚いだのと議論をすること自体が可笑しいと想えてくるもんです。
これは馬鹿にしているんではなく、むしろ尊敬に値する天使のような純真な存在たちであるのだとわたしは想うようになってきましたね。
彼らが何を大人の真似をした口を利き、誰を虐め、誰に危害を与えようとも、彼らは罪なき存在たちなんです。
少年犯罪、いじめ、なんで起こるのかはすべて、大人の責任なんです。
全部、彼らを育てる大人が原因にあるということです。
夜回り先生の水谷修氏は彼らは25歳まで少年であるから少年法で護られるべきだと断言しましたが、いやいや、30歳を過ぎるまで、全員が子供ですよ。
純粋で仕方ない存在です。
彼らは皆、少年です。成人と同等に罰されるべきではない。
もし少年を罰するというのならば、その周りの関わってきた大人も罰さないでは理不尽な話なんですよ。
映画の話に戻りますけれどもぉ、この映画は別にリアルだから傑作なわけではないんです。
この映画って、少年らが何をやらかそうが野放しなんですよ、ほぼ。
ほったらかされているんです、彼らは皆。
だれひとり、どれほど罪悪の念を感じようが、彼らは刑罰を与えられはしていないんです。
それはなんでかとゆうと、彼らはまだ子供だからです。
これが大人なら、ほんとうにどん底を映さなければ傑作にすることができないはずなんです。
彼らが何をやっているか、彼らは盗みを働き、暴力を奮い、レイプし、果ては○○してしまうわけなんです。
何故この映画が鬱映画、観なければ良かった映画、救いが皆無の映画と言われながらも同時にあまりにも美しい傑作だと評価されているのか。
それは彼らが、少年たちだから、ただそれだけだからなんです。
これが30歳を過ぎた男女たちが繰り広げていたなら、もう、どれほどドヴュッシーのピアノ曲をガンガンにかけて、足利市の美しい風景をバックにしたところで、どんろどんろの泥溜めみたいな映画になるはずですよ。
何が言いたいのかと言いますと、彼らは何をやっても、赦されてしまう世界をこの映画は描き、その世界を監督は創りあげたかったのではないか~?と今の今想ったということなんです。
全部、即興で、自動書記状態でレビューをほぼ書いてますからね。今の今、わたしはそう想ったんです。
何事も赦されてしまう世界、そう、その世界はまるで、楽園と言える地獄、地獄と言える楽園と言えるのではないだろうか。
沖縄のシーンも、楽園みたいな地獄で、地獄みたいな楽園じゃないですか。
あのダツっていう魚、夜の海に光を向けると飛んでくるってもっと早くゆうてくれよって話じゃないですか。
あんな魚飛んできたらどんなパラダイスも一瞬にしてゲヘナみたいな場所と化すじゃないですか。
監督はきっと、そういう世界を撮りたかったのではないだろうか。
そういうことだので、もう朝の8時か、次はお待ちさせまして、「リリア 4-ever」のレビューのほうに参りましょうか。
『リリア 4-ever』(リリア フォーエバー、原題:Lilja 4-ever)2002年公開のスウェーデン映画です。
「Lilya 4 Ever」ルーカス・ムーディソン監督
この映画は非常に残念なのですが、日本の劇場未公開作品であり、日本語字幕のDVD化もされておりません。
ですのでわたしは動画をネットで探して、英語の字幕を自動翻訳して観ました。
この映画の色合いと美術的なものや子供の着ている服など、わたしはちょうど最近Lise Sarfati (リーズ・サルファティ)という写真家を知って、何枚か好きな写真をPinterestに載せたのです。
このリーズ・サルファティの写真とよく似ているように想い、わぁ、あの世界が映画で観れる?!と想って、しかも重い映画と評価されていたので重く苦しいものがほんとうに好きなわたしはとても期待して観ました。
これがリーズ・サルファティの写真です。映画は舞台が旧ソ連、この写真は1992,1993年辺りのモスクワとなっています。
結構似ていると想われませんか?
良かったらyoutubeにも検索すれば映画がありますので、序盤の当時14歳かそこらのオクサナ・アキンシナが演じる母との別れのシーンだけでも、大変素晴らしいので観て頂きたいものです。
始まり方が面白くて、ニンフォマニアックの始まり方みたいなうるさい音楽(笑)で始まるのですが、ここら辺が何か東欧映画(勝手なイメージ・・・)っぽい味を出しているなぁと想って好きです。
この少女リリアは設定は16歳ですが、演じているオクサナは14歳とかなので、どうしても14歳の少女として観てしまいます。
人身売買というものが、当時だけではなく、現在でも行なわれ続けているロシアの町(途中からスウェーデンに移りますが)、それは先ほど載せたリーズ・サルファティの写真を観ても窺い知れるものではないでしょうか。
子供たちがきっと凍えるような寒さのなか、トンネルの中のような場所で眠っています。
貧しさの隣には何があるかというと、そこには大人だけでなく子供たちの売春があり、また臓器売買などの取引きも行なわれているであろうことは容易に感じ取れます。
貧しさのなかで、力も知恵も大人のようにない子供たちは商品とされてゆくのです。
それは女性という存在もそうです。男性に対して、女性は力が弱く、彼女たちは弱者です。
わたしはレイプと呼んでもいいのかもしれない経験はしたことがあります。
当時22歳だったわたしは父を亡くしたばかりで、すべてに自棄になり危険も顧みず、サイトで知り合った男性の家に一緒に行って、処女だったわたしは、あまりの痛さに必死に拒んだのですが、相手は力任せに行なおうとして最後にはキレてわたしの脚を叩きました。
まだ処女膜も破れていないわたしは涙を流しながら開いた股がぷるぷる震えたまま閉じることさえできませんでした。
それがわたしの、初めての男性の経験です。
その男性は27歳で若くイケメンでしたし(笑)、繊細な感受性の持ち主だったので、まだ心の傷は癒えるのが早かったかもしれません。
もし、レイプの相手がこの映画のなかに何度か登場する何人もの野蛮な野豚みたいな中年男性だった場合、その傷は癒えるのは、かなり遅かったのかもしれません。
でもどんなに若くてタイプな男性だったとしても、レイプをされたり、暴力を奮われたら、女性の傷口というものはそうは閉じるものではないですよ。
それは力の差より、女性は男性に対して、多くが優しさを求めているからです。
わたしも昔から男性からの暴力的なものは普通に経験してきたので、男性からの暴力に対して、酷く恐怖している面を持っています。
わたしの人生に男性からの暴力がなかったなら、わたしは今働いているのかもしれません。
強要される売春がなかったなら、彼女たちはいま普通に生活をしているのかもしれない。
でもわたしは、今のこの生活を本当にありがたく想っています。
彼らの暴力がなければ、手に入らなかった、この自由な生活を。
男性たちに、最早なにも望みません。
わたしたちはあの日を境に、男性に対する幻想はすべて滅び尽くしたからです。
わたしたち女が望むもの、それは、キリスト・イエス、その愛、それのみです。
わたしは別に玉蹴りとか遣ったことはないですよ(笑)恐れ多いですよね、やっぱり男というものは。
でもカッとなってヤクザ的な行動に出ることはわたしもあります。
タイの女性は強いのか、衝動的な行動に走る女性が多いのか、何が原因かわかりませんがタイの性転換手術が多いことは気になりますよね。
何故、トラウマがフェチになってしまうのか、これは実は誰にでもあることなんですよ。
例えばグロ画像がトラウマになっている人が、このトラウマを克服するにはグロ画像を好きになるのが一番手っ取り早い方法ですよね。
克服の為には嫌悪を快楽に変えてしまうことが人間はできる、それも無意識で遣ってるんです。
だからレイプされた過去のある女性は自ら性風俗の道を歩む人が多いんですよ。
トラウマがいつの間にやら願望となってしまうんですね。
無意識に克服しようとしているんだとわたしは想います。
苦しい目に合わされた過去というのは、それがいつまでも”愛情ではないもの”として自分を深く傷つけ続けますよね。
それが苦しく逃れたい為に、「いや、実はあれこそが本物の愛であったのだ」と自分に言い聞かせるように、自分の観念を潜在意識で塗り替えてしまうというわけなんです。
虐待を受けた人間が、弱者に虐待を行い、「これは愛情なんだよ」と言うのも、これは言い訳ではなくて、それが愛情でないなら、その人は生きていけないからなんだと想うんですね。
先日の某バラエティ番組でタイ人の男性が「タイの女性は強いから、男と喧嘩すると男の大事な所を潰す」みたいなことを言っていました。
タイは性転換手術が盛んなことでも有名ですが、何か因果関係があるのかもしれません。
中3の頃を振り返ると、女子グループから嫌がらせを受けていたことを思い出します。
当時はトラウマっぽくなりましたが、いつのまにかフェチと紙一重になっていました。
感受性は十人十色ということでしょうか。