とてもあたたかい春の朝でした。
青い空はたかくたかく、目の覚めるような色をしていました。
でも、なぜでしょう。
今朝はとてもしずかです。
うさぎたちは今日も朝早くにおきて、列車に乗るため、駅へと向かいました。
そしていつもの列車に乗るのに間に合って、ほっと一息ついていたときです。
聴いたこともないような大きな音と共に列車のなかが激しく揺れ、身体が飛んでうさぎたちは椅子や壁やらにぶつかりました。
うさぎの男の子ピスエルはすこしのあいだ気を失っていましたが、ようやく目を覚ましました。
そのとき、いったいじぶんがどこにいるのか、いっしゅんわからなくなりました。
なぜなら、目のまえに広がる光景はいままで見たこともないものだったからです。
なにがどうなっているのか、よくわかりませんでした。
有機質なものと、無機質なものとが、混ざり合って何かあたらしいものを生み出しているかのように、それらはそこに蠢いてありました。
どれくらいのじかん、ピスエルはじっとそこで床に寝ていたでしょう。
ただただ、もうろうとして、何が起きているのかまだわかりませんでしたが、とりあえず立ち上がって、光の見えるほうへとすすんだのです。
するとそこに、ドアの見えないドアがあるように見えました。
それは入り口かもしれないし、出口であるようにも想えました。
でもそこだけが、ピスエルには光っているように見えたのです。
ほかは薄暗く、なにかおそろしいもののように感じました。
ピスエルはたったひとつの希望をいだいて、その光の門を通り抜け、外へ出ました。
彼は、そこになにを見たでしょうか。
その後、彼のその日のすべての記憶が封じ込められるほどのものを見たことは確かです。
その日から、三年ほど、時がたちました。
ピスエルは、目のまえが真っ暗だと感じました。
それはちょうど、愛するおとうさんの一周忌を過ぎた頃でした。
ピスエルはこの日の朝、生きていることがたえがたく、午後を過ぎたころ、ある変わったものばかりを売っているというお店に行きました。
そのお店の主人うさぎはまだ若く、年齢をたずねると三十六歳だと答えました。
名前はシマク。
べつに、しましまもようのうさぎではないけれど、ピスエルはかっこいい名前だなと想いました。
ピスエルはふつうの茶色いうさぎで、シマクはつややかな真っ黒のうさぎでした。
でもひたいには、白い半月模様があり、またシマクは右耳を根本から失っており、片耳うさぎでした。
そしてその両目は美しいブルーに濁っておりました。
ピスエルはその両目がなぜ濁っているのか知りたいと想いましたが、今日会ったばかりで、そのようなことを訊くのは失礼だと感じて自分のほしかったものを買って、帰ろうとしたそのときです。
シマクが、ピスエルを呼び止めました。
ピスエルが青い顔をして振り返ると、シマクはピスエルに向かって穏やかな低い声でこう言いました。
「おい、なにか変なこと考えてるんとちゃうやろな。」
ピスエルはどきっとしました。
さらに心臓が冷たくなり、寒気も感じました。
ああ、だめだ!とピスエルは想いました。
この人には全部見えてるんだ…!
ぼくがこれから、しようと想っていることを!
ピスエルは震える身体でシマクの濁った半ば見開かれた両目を見つめ、だまっていました。
そのとき、シマクはほんとうに優しい声で言いました。
「あのな、おれは目が見えないんだよ。でもな、あんちゃん、おれはそれ以外のものはほとんど見える。だからこんな物騒な店をやっているんだ。ってなんでおれ標準語でしゃべっとるんやねん。いやそんなことよりな、おいにいちゃん、やめとけ。悪いことはゆわんさかい。それだけは、やめとけ。なんでかちゅうと、それはな、人間存在というもののなかで、いっちゃん後悔することやからや。わかったか。これを承諾せんのやったら、それを売るわきゃあきまへんなあ。おれかて人を悲しませたくはないのよ。ほななんでこんな店やってるかって?それはな、ははは、だからゆうたやん。おれにはふつうじゃないものが見える。つまり客が、どんな人間で何をしようとしてこのおれの売る武器を買うのか。すべてわかるんだよ。で、どうするんだ、ピスエル。おまえはこれからなにをするつもりなのか。」
ピスエルは、両目の見えない、いかついのにとんでもなく優しい表情のシマクの濁った青い目を見つめながら、涙がどくどくと出てきて止まらなかった。
シマクには、絶対に嘘はつけない。そう感じたピスエルは、嗚咽をこらえながら言った。
「ぼくのせいで…ぼくのせいで…みんな死んでしまったんだ。」
シマクは小さく息をつきながら言った。
「あの事故と、あの事故のことか。」
「あの日のレイルバーニー列車の脱線事故と、親父さんの事故のことやな。」
ピスエルは無言で深く頷いた。
「気にすんな。そんなことは、おまえにわかることではない。おまえは神じゃないんだ。奢るのもええかげんにせえ。」
この店のなかに、強い西日が入ってきました。
逆光のなかで、シマクの顔は女神にも見えましたが、その顔は地獄の門番のようにも見えたことです。
ピスエルは、言葉に詰まり、何も言えませんでした。
ぎゅっと目をつむって俯き、泣いてばかりいるじぶんが情けなくてしかたありませんでした。
するとシマクが向こうに行く音が聞こえ、ガタコトと音がして戻ってくる音がしました。
シマクはピスエルに落ち着いて言いました。
「見ろ。これな、音がまったくせえへんVP9ピストルや。」
「実はな、おれは元CIAの工作員で人をたった一つのボタンで殺しまくり、そしてそのライヴ映像を毎日確認して生活しとった人間や。いや人間ゆうてもうさぎ人間で殺してたんもうさぎ人やけどな。ついじぶんのことを人間とゆうてしまうんや。まあそんなことは今どうでもええ。」
「おい、このピストルでピスエルの頭に今から穴開けたろか。」
「おれが今からおまえのどたまを殺したるんよ。それでおまえは満足か。ピスエル。」
ピスエルは涙も枯れ、目のまえに置かれた黒いちいさな拳銃をじっと見つめた。
「おまえがそんなに苦しいんならな、おれがおまえを殺したるちゅてんねんよ。耐えがたい苦しみのなかに生きていかなならん人間に向かっておれは生きろてゆうてんねんからね、おれかて苦しいんだわ。ふたりで楽になれるか、遣ってみるか。どうする。ピスエル。おれのことはどうでもいいからおまえが決めたらいい。」
それでもピスエルは、何も言わなかった。
どうやって、答えを出したらいいのかわからなかったからです。
ピスエルはそれほど、苦しんでいました。
一分でも早く、楽になりたかったのです。
シマクは今度は向こうの部屋から、バーボンを持ってきて、煽るように瓶ごと飲みました。
そしてレッド・ツェッペリンの「天国への階段」をレコードでがんがんに大音量でかけたあと、大きなため息を付いてシマクは言いました。
「気にすんな。おまえという存在も、おまえの考えていることもすべて、あまりにちっぽけなんだよ。おまえがどれほど死にかけるほど苦しんでいても、それはあまりにちっぽけで取るに足らないものなんだ。なんでかとゆうとな、おれにはおまえの未来さえ見えるからなんだ。おまえはこの先に、いまの苦しみの何千倍と想える苦しみを知る。それはおまえが、真の愛というものを知ったときだ。そのとき、おまえは死んでもだれを殺してもまったく解決できないことを知るだろう。だからそのとき、おまえは生きてゆくしかないんだ。他のすべての方法を、おまえは喪う。おまえはそのとき、ほんとうの絶望を知る。今以上の地獄が、おまえを待っているんだよ。それでもおまえが今死にたいと言うのならば、おれがおまえを殺してやる。5分以内に、返事をしろ。」
シマクは、安らかな顔で眠っているピスエルのとなりで静かに話しかけた。
「本当におまえのせいですべてが死んだ。すべてがおまえのせいで、苦しんで死んだんだ。おまえはその責任を、死んだら相殺できるとでも想っているのか。そんな戯けた考えは今すぐに棄てろ。おまえはそんなことでは何一つ彼らに返すことはできないからだ。なぜならおまえは自分のために、じぶんが楽なるために死のうと想っているからだ。おまえがおまえのためだけに遣る行為とその結果で、彼らを救うことはできない。おまえはじぶんを棄てなくちゃならないんだよ。彼らすべてはおまえのせいで地獄の苦痛を味わって死んで行ったかも知れない。ではなんでおまえが地獄の苦しみから逃げようとしているんだ。おまえはもっとこの世で味わい続けなくてはならなかったんだ。おまえがじぶんでじぶんを殺すなら、そのまえにおれがおまえを殺さなくてはならなかったんだ。真っ暗闇のなかで、おまえが何万年とたったひとりの世界で苦しむことをおれは知っていたからだ。なあピスエル、なんで過去から、おまえは殻の霊魂だけでおれの店に遣ってきたんだ。おまえは今どこにいるんだ。おれのこの目にも、見えないほど遠くにいるんだろう。どれほど深い闇なのか、おまえはわかっているのか。おまえにもわからないだろう。おれにもその闇の深さは、見ることができない。だからもう二度と、絶対に、同じことはもう繰り返すな。おれの言葉を、必ずおまえの主人に届けてくれ。ええな。」
シマクはこどものようなあどけない寝顔で眠っているピスエルを優しく揺り起こすと、ピスエルはまるで夢遊病者のように起き上がって自動人形のように目をつむりながら店をでて歩いてゆき、その深い深い、闇のおくへと消えていった。
シマクはずっと、ピスエルに向かってエールを送っていた。
がんばれ!
がんばれ!
がんばるんだピスエル!
やがて夜は皓々と、更けて行った。