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大震災と岡本綺堂と永井荷風

2025-01-23 19:14:04 | 戦争
大震災と岡本綺堂と永井荷風
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」358/通算789 2025/令和7年1/23 木曜】1/18にビルの大規模営繕作業をとりあえず終えた。「第一期工事完了」という感じで、まだまだやるべきことはあるけれど、如何せん、1951年生まれ、74歳の体力では限界で、しばらく体を休めないとパソコン操作もできないようになってしまいそう。面倒な確定申告の作業もあるので、ま、「老体に無理は禁物」ということで肉体労働は控えるべし! ヒーヒーハーハーのペンキ塗りは面白かったけれど今は寒すぎるので2月いっぱいまでは基本的に冬休みにしよう。3月なれば春子も来てくれ陽気も和らぐだろう・・・閑話休題。

どういうわけかここ1年ほど、枕頭にある岡本綺堂と永井荷風の作品を読んで眠りにつくことが常態化している。綺堂は明治5年生まれ、荷風は明治12年生まれ。7歳ほどの違いはあるが、綺堂は代々の曾祖父も両親も「江戸っ子」だったようだから綺堂のマインドもまた「武士道」だったに違いない。その一方で明治12年生まれの荷風は「文明開化の日本新人類」のような気がする。新人類と言うより「時代が生んだ西洋かぶれのデリケートな個人主義・異端児」・・・自分の世界に没頭する詩人のようである。

WIKIなどによると、徳川家康が将軍となり、江戸幕府が開かれたのは1603/慶長8年だが、1867/慶応3年の「大政奉還」、1871/明治4年の「廃藩置県」あたりで徳川幕藩体制が終わって、「王政復古」の大号令の下、急速な「欧米化/近代化/富国強兵」が進められていく。「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」・・・軍事や戦争に便利な「武士道精神」以外は江戸時代の”古い”文明よサヨウナラの感じ。

出自の良い新興エリートの長男として生まれた荷風は、本来なら文明開化の一翼を担うエリートであるべきだろうが、それとは逆に母親似なのだろう「弱い生きものを殺生してはいけない、罰が当たるから優しく接しなさい」というマインドを受けついだらしい。イケイケドンドンの文明開化に押されて消え去る者/モノ/文化への慈しみ、愛着、美学、感動がユニークな荷風文学を創ったのだ。(二十歳の頃、三里塚の天浪団結小屋で、鶏を油断させて一瞬で首を切り、熱湯を注いで羽を剥ぎ、晩飯のおかずにして皆を喜ばした粗野の小生とは大違い! 日本男児には「粗にして野だが卑ではない」という武士道精神が残っているのではないか?)

災難は忘れた頃にやってくる。地震雷火事親父、1923/大正12年9月1日11時58分「関東大震災」を体験した人は今は皆鬼籍に入ったろう。我が母は大正9年生まれ、父は大正11年生まれの幼児だったから「大震災は記憶にない」と言っていた。死者・行方不明者は推定10万5000人、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害となった。神奈川県高座郡座間町の母の実家(士族の久保家)は2階建ての料亭を建てたばかりだったが、地震による「地盤液状化」で崩壊してしまったという。以後の家運は鳴かず飛ばず・・・運が悪かった。

永井荷風は1919年、麻布市兵衛町に「偏奇館」を新築し居住、幸いにも関東大震災による被害を免れたが、その一方で岡本綺堂は大震災で焼け出され、麻布宮村町(今の元麻布あたり)の借家に居住することになり、どうにか落ち着いた1年後(!)にようやく大震災を回顧している。「火に追われて」(「江戸の思い出」河出文庫)に曰く(一部を転載)
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<なんだか頭がほんとうに落ち着かないので、まとまったことは書けそうもない。地震嫌いの私がなんの予告も無しに大正12(1923)年9月1日を迎えたのであった。二百十日前後にありがちの何となく穏やかならない空模様で、驟雨がおりおりに見舞って来た。家のなかはやけに蒸し暑かった。2階の書斎には雨まじりの風が吹き込んで、硝子戸をゆする音がさわがしいので、わたしは雨戸をしめ切って下座敷の八畳に降りて、週刊朝日の原稿をかきつづけていた。庭の朝顔や糸瓜(へちま)が雨風にざわざわと乱れてそよいでいるのも暴風雨(あらし)を予報するようにも見えて、わたしの心は何だか落ちつかなかった。

やがて雨もやんで、雲は溶けるように消えて行った。茶の間で早い昼飯をくっているうちに、空は青々と高く晴れて、初秋の強い日のひかりが庭一面にさし込んで来た。どこかで蝉も鳴き出した。
わたしは箸を措いて起った。天気が直ったらば、仕事場をいつもの書斎に変えようと思って、縁先へ出てまぶしい日を仰いだ。それから書きかけの原稿紙をつかんで、玄関の二畳から二階へ通っている階子段(はしごだん)を半分以上も昇りかけると、突然に大きい鳥が羽搏(はばたき)をするような音がきこえた。わたしは大風が吹き出したのかと思った。その途端にわたしの踏んでいる階子(はしご)がみりみりと鳴って動き出した。壁も襖(ふすま)も硝子窓も皆それぞれの音を立てて揺れはじめた。
勿論、わたしはすぐに引返して階子をかけ降りた。玄関の電灯は今にも振り落されそうに揺れている。天井から降ってくるらしい一種のほこりが私の眼鼻にしみた。

「地震だ、ひどい地震だ。早く逃ろ」
妻や女中に注意をあたえながら、ありあわせた下駄を突っかけて、沓(くつ)ぬぎから硝子戸の外へ飛び出すと、碧桐(あおぎり)の枯葉がぱさぱさと落ちて来た。門の外へ出ると、妻もつづいて出て来た。女中も裏口から出て来た。震動はまだ止まない。
わたしたちは真直に立っているに堪えられないで、門柱に身をよせて取り縋(すがって)いると、向うのA氏の家からも細君や娘さんや女中たちが逃げ出して来た。わたしの家の門構えは比較的堅固に出来ている上に、門の家根が大きくて瓦の墜落を避ける便宜があるので、A氏の家族は皆わたしの門前に集まって来た。となりのM氏の家族も来た。大勢が門柱にすがって揺られているうちに、第一回の震動はようやく鎮まった。

ほっと一息ついて、わたしはともかくも内へ引返してみると、家内には何の被害もないらしかった。掛時計の針も止まらないで、十二時五分を指していた。二度のゆり返しを恐れながら、急いで二階へあがって窺(うかがう)と、棚一ぱいに飾ってある人形はみな無難であるらしかったが、ただ一つ博多人形の夜叉王(やしゃおう)がうつ向きに倒れて、その首が悼(いた)ましく砕けて落ちているのがわたしの心を寂しくさせた。

と思う間もなしに、第二回の烈震がまた起ったので、わたしは転げるように階子をかけ降りて再び門柱に取り縋った。それが止むと、少しく間を置いて更に第三第四の震動がくり返された。A氏の家根瓦がばらばらと揺れ落された。横町の角にある玉突場の高い家根から続いて震い落される瓦の黒い影が鴉(からす)の飛ぶようにみだれて見えた。

こうして震動をくり返すからは、おそらく第一回以上の烈震はあるまいという安心と、我も人もいくらか震動に馴れて来たのと、震動がだんだんに長い間隔を置いて来たのとで、近所の人たちも少しくおちついたらしく、思い思いに椅子や床几(しょうぎ)や花莚(むしろ)などを持ち出して来て、門のまえに一時の避難所を作った。わたしの家でも床几を持ち出した。その時には、赤坂の方面に黒い煙がむくむくとうずまきあがっていた。三番町の方角にも煙がみえた。取分けて下町方面の青空に大きい入道雲のようなものが真白にあがっているのが私の注意をひいた。雲か煙か、晴天にこの一種の怪物の出現を仰ぎみた時に、わたしはいい知れない恐怖を感じた。

そのうちに見舞の人たちがだんだんに駈けつけて来てくれた。その人たちの口から神田方面の焼けていることも聞いた。銀座通りの焼けていることも聞いた。警視庁が燃えあがって、その火先(ほさき)が今や帝劇を襲おうとしていることも聞いた。
「しかしここらは無難で仕合せでした。殆ど被害がないといってもいいくらいです」と、どの人もいった。まったくわたしの附近では、家根瓦をふるい落された家があるくらいのことで、著るしい損害はないらしかった。わたしの家でも眼に立つほどの被害は見出されなかった。
番町方面の煙はまだ消えなかったが、そのあいだに相当の距離があるのと、こっちが風上に位しているのとで、誰もさほどの危険を感じていなかった。それでもこの場合、個々に分れているのは心さびしいので、近所の人たちは私の門前を中心として、椅子や床几や花むしろを一つところに寄せあつめた。ある家からは茶やビスケットを持出して来た。ビールやサイダーの壜(びん)を運び出すのもあった。わたしの家からも梨を持出した。一種の路上茶話会がここに開かれて、諸家の見舞人が続々齎(もたら)してくる各種の報告に耳をかたむけていた。そのあいだにも大地の震動はいくたびか繰返された。わたしは花むしろのうえに坐って、『地震加藤(じしんかとう)』の舞台を考えたりしていた。

こうしているうちに、日はまったく暮れ切って、電灯のつかない町は暗くなった。あたりがだんだん暗くなるに連れて、一種の不安と恐怖とがめいめいの胸を強く圧して来た。各方面の夜の空が真紅にあぶられているのが鮮かにみえて、ときどきに凄まじい爆音もきこえた。南は赤坂から芝の方面、東は下町方面、北は番町方面、それからそれへとつづいてただ一面にあかく焼けていた。震動がようやく衰えてくると反対に、火の手はだんだんに燃えひろがってゆくらしく、わずかに剰(あま)すところは西口の四谷方面だけで、私たちの三方は猛火に囲まれているのである。茶話会の群のうちから若い人は一人起ち、ふたり起って、番町方面の状況を偵察に出かけた。しかしどの人の報告も火先が東にむかっているから、南の方の元園町(もとぞのちょう)方面はおそらく安全であろうということに一致していたので、どこの家でも避難の準備に取りかかろうとはしなかった。
 
(夜中の)十二時半頃になると、近所がまたさわがしくなって来て、火の手が再び熾(さかん)になったという。それでもまだまだと油断して、わたしの横町ではどこでも荷ごしらえをするらしい様子もみえなかった。午前一時頃、わたしは麹町の大通りに出てみると、電車道は押返されないような混雑で、自動車が走る、自転車が走る。荷車を押してくる、荷物をかついでくる。馬が駈ける、提灯(ちょうちん)が飛ぶ。色々のいでたちをした男や女が気ちがい眼でかけあるく。英国大使館まえの千鳥ヶ淵公園附近に逃げあつまっていた番町方面の避難者は、そこにも火の粉がふりかかって来るのにうろたえて、更に一方口の四谷方面にその逃げ路みちを求めようとするらしく、人なだれを打って押寄せてくる。

うっかりしていると、突き倒され、蹈みにじられるのは知れているので、わたしは早々に引返して、更に町内の酒屋の角に立って見わたすと、番町の火は今や五味坂上の三井邸のうしろに迫って、怒濤のように暴れ狂う焔のなかに西洋館の高い建物がはっきりと浮き出して白くみえた。
迂回してゆけば格別、さし渡しにすれば私の家から一町ちょうあまりに過ぎない。風上であるの、風向きが違うのと、今まで多寡たかをくくっていたのは油断であった。――こう思いながら私は無意識にそこにある長床几に腰をかけた。床几のまわりには酒屋の店の者や近所の人たちが大勢寄りあつまって、いずれも一心に火をながめていた。

「三井さんが焼け落ちれば、もういけない」
あの高い建物が焼け落ちれば、火の粉はここまでかぶってくるに相違ない。わたしは床几をたちあがると、その眼のまえには広い青い草原が横たわっているのを見た。それは明治十年前後の元園町の姿であった。そこには疎(まばら)に人家が立っていた。わたしが今立っている酒屋のところにはお鉄牡丹餅(ぼたもち)の店があった。そこらには茶畑もあった。草原にはところどころに小さい水が流れていた。五つ六つの男の児こが肩もかくれるような夏草をかけ分けてしきりにばったを探していた。そういう少年時代の思い出がそれからそれへと活動写真のようにわたしの眼の前にあらわれた。

「旦那。もうあぶのうございますぜ」
誰がいったのか知らないが、その声に気がついて、わたしはすぐに自分の家へ駆けて帰ると、横町の人たちももう危険の迫って来たのを覚ったらしく、路上の茶話会はいつか解散して、どこの家でも俄(にわか)に荷ごしらえを始め出した。わたしの家の暗いなかにも一本の蝋燭の火が微(かすか)にゆれて、妻と女中と手つだいの人があわただしく荷作りをしていた。どの人も黙っていた。

万一の場合には紀尾井町のK君のところへ立退くことに決めてあるので、私たちは差当りゆく先に迷うようなことはなかったが、そこへも火の手が追って来たらば、更にどこへ逃げてゆくか、そこまで考えている余裕はなかった。この際、いくら慾張ったところでどうにも仕様はないので、私たちはめいめいの両手に持ち得るだけの荷物を持ち出すことにした。わたしは『週刊朝日』の原稿をふところに捻じ込んで、バスケットに旅行用の鞄(かばん)とを引っさげて出ると、地面がまた大きく揺らいだ。

「火の粉が来るよう」
どこかの暗い家根のうえで呼ぶ声が遠くきこえた。庭の隅にはこうろぎの声がさびしくきこえた。蝋燭をふき消した私の家のなかは闇になった。わたしの横町一円が火に焼かれたのは、それから一時間の後であった>以上
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WIKIによると綺堂は1890年東京日日新聞入社。以来、中央新聞社などを経て、1913年まで24年間を新聞記者として過ごす。この間、1904~1905年の日露戦争では国外での初の従軍記者として満州にも滞在。そして1923年の「関東大震災」まで体験したのだから゛波乱万丈”の人だったと言える。小説家、劇作家としても名を成し、小生も「半七捕物帳」などを愛読したが、とても気品があった。

「江戸の血を引く武士道的な気品の人」岡本綺堂と、「西洋式文明開化の自由奔放の人」永井荷風・・・共に人気作家だから交流があったのではないかと思っていたが、明るい表舞台の人と薄暗い裏舞台の人はまったく接触がなかったようだ。

表と裏・・・加齢とともに裏が無くなり、小生は大人しい好々爺になっていくような感じがする。晩年とはそういうことか? 100年振りの大震災に襲われ右往左往する前に、何をすべきか、どう逃げるかなどを調べておいた方が良さそうだが、分かっちゃいるけどやらないのが凡夫凡婦のようで・・・頭が痛い。
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渡部亮次郎 「頂門の一針」<ryochan@polka.plala.or.jp>
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