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雀庵の「諜報活動/インテリジェンスと日本(1」

2021-03-29 05:39:58 | 日記
雀庵の「諜報活動/インテリジェンスと日本(1」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/276(2021/3/29/月】我が家の前で少し「くの字」に曲がる東西通りは車1台が通るのがやっとだが、このところ事故が多い。26日の午前10時頃にはチャリのオバサンがこけた。「あっ、人が倒れてる!」とカミサンが叫んだので下の道路を見たら、右側頭部から出血、気絶しているオバサンと、その頭を支えている青年の周りに数人のヂヂババが心配そうに佇んでいる。


「行ってケアしてやったら」と言うとカミサンは「何で私が」、「看護婦なんだから応急手当したらいいじゃん」。それでも彼女は動かなかった・・・なぜか。そこには重大な秘密があったのだ。パジャマかつスッピンだから前線に押っ取り刀で駆けつけるわけにはいかないのである。支度に20分近くはかかる。


鴎外の「渋江抽斎」には、抽斎が侵入強盗2人に刀で威嚇されていると、それを察知した奥方は風呂場から腰巻ひとつ、口に短刀、手に熱湯の桶ふたつをもって参戦し、強盗を叩き出したとある。武士道の妻、さすがである。奥方は武道の心得もあったが、周囲がその武勇を讃えるといつも恥じらっていたという。


どうだ、同志諸君、これが女ぞ、大和撫子ぞ。そう言えば東京外大インドネシア語科出身の撫子は凄かった。旦那は売れない芸術家だったが、「あんた一人ぐらい私が面倒見るから、どんどんやりなさい」と奮起を促し、その勢いで小生も「これ、すぐに400万になるから」と折伏されて、ふくよかなイタリア女のオブジェを120万で買ったものだ。今は玄関に置いているが、美術商が見に来たことはない・・・22世紀あたりには結構な値段になるか?


ケガしたオバサンはやがて救急車に乗って去ったが、介護していた青年と見守っていたヂヂババが、救急車を待っている際にもにこやかに会話し、救急車が去ってからは記念写真を撮っているのを見て、小生は「そういう場面じゃないだろうに・・・」と変な感じを覚えたが、後でカミサンが言うには、


「あの若者ね、プロボクシングのチャンピオンなんだって。○○の奥さんはチャンピオンベルトを付けてもらって一緒に写真撮ったのよ!」


隣町のボクシングジム出身だという。調べたらスポニチ新聞2021/3/19にこうあった。「プロボクシングの日本スーパーバンタム級王者・古橋岳也(33=川崎新田)が19日、川崎市の福田紀彦市長(48)を表敬訪問した。古橋は今年1月、久我勇作(ワタナベ)に9回TKO勝ちしてプロ36戦目で王座を獲得。川崎生まれ、川崎育ち、川崎市内のジム所属選手で初の日本王者となった」


ふーん、我が街の「あしたのジョー」、小生の中学校の後輩でもある。中共包囲殲滅戦に夢中になって灯台下暗し・・・彼にとって今が一番輝いている秋なのだろうなあ、初防衛戦は8月2日、後楽園ホール。カミサンに連れて行ってもらうか。


「きのうのジョー」の小生は介助者がいないと遠出できないが、小生のシマの桜の名所(二か領用水沿い、上流の新川沿い、緑が丘霊園)は早朝のチャリ散歩でたっぷり楽しめた。見納めになってもいいようにじっくり、しつこく、舐めるように、いささか偏執狂的に愛で、もう思い残すことはないだろう。「サクラ、俺は旅に出る・・・」


ところがそうはいかないことがある。ライフワークのような「共産主義撲滅&日本再生への道」の研究は、学べば学ぶほど奥が深くて、まだまだ中学生レベル。知らないことがどんどん増えてきてトンネルの出口がいつ見えるのか、全然分からない。トンネルを抜けるとまたトンネルだった、まるで京浜急行。


一歩一歩、シコシコ、先人の研究を勉強し、「こういうことなのだ」と自分なりに納得したい、せめて第2次大戦勃発から今日までの戦史を知り、それを糧に明日のための方向性を打ち出したい、と願っているのだが・・・


まあ、学べば学ぶほど奥行きが深くなる、頂上が高くなるから「学問に成就なし」ということだ。とりあえず連載「ヴェノナ 我らの内なるスパイ網」を前回で終わりにして、今回からは外交=戦争に不可欠な「諜報活動/インテリジェンス」をテーマに考えていく。


以下は落合道夫・東京近代史研究所代表の「なぜ日本はあのとき『真珠湾攻撃』を決断したのか」から抜粋。


<独ソ戦を控えたソ連のスターリンの戦略は、日本の軍事力を北上させないことであり、その第一弾が支那事変工作、第二弾が米国の太平洋政策を利用した日米戦争工作であったのである。


(支那事変以降)ルーズベルトは日本を追い詰めてゆく。1939年には長年の日米通商航海条約を一方的に破棄し、1941年には米陸軍航空部隊を蒋介石の義勇軍(フライングタイガー)に偽装して投入する。明らかな宣戦布告なき軍事攻撃である。しかし日本は日米交渉による平和解決を求めて隠忍自重した。


さらに米国は日本を追い詰めてゆく。1941年6月に独ソ戦が始まるとソ連支援のため中立法の解除が必要となり、自衛名目を作るために対日挑発行為を加速した。いわゆる裏口からの参戦である。7月には米国は支那事変に苦しむ日本の在米資産を凍結し、8月には戦争遂行に不可欠な石油、鉄クズ輸出を禁止した。


それでも日本は野村吉三郎を特使として送り必死に日米和解を求め近衛首相は首脳会談まで提案した。しかし米国は頑なに拒否し、その総仕上げが11月27日の支那満州からの全面撤退を要求する「ハルノート」となったのである。


ちなみにこのハルノートはスターリンが原案を作りNKVD工作員パブロフがワシントンに持参してソ連スパイの財務省次官のハリー・ホワイトに伝え、それが財務長官、大統領経由でハル長官から発出されたものという。ソ連は日米戦が始まれば日本の軍事力は確実に南に向かうので、安心して対独西部戦線に専念できる。


発出されたハルノートを見て、スターリンはおおむね満足したという。こうして日本はソ連と米国の謀略により対米戦以外避けることのできない絶体絶命の罠に陥ちていったのである。


日米戦の開戦理由の研究は今でも両国に東京裁判のしばりが残っているようだ。「真珠湾」の著者、歴史家モーゲンスタインは米国では日米開戦前の経緯を調べることは喜ばれないと述べている。


しかし、「米国の鏡日本」を著したヘレン・ミアーズ女史は戦前の外交記録を調べれば米国が日本を圧迫し日本が必死に戦争を回避しようとしたことは明らか、と記している。米国の歴史専門家は真珠湾攻撃が日本の自衛反撃であることを知っているのだ。


その後米国は原爆まで落として1945年に日本を滅ぼしたが、米ソは対立し、1949年には支那満洲が共産化し、米国は営々と築いてきた支那の全拠点から追い出されてしまう。まさに米国の極東構想は「捕らぬ狸の皮算用」に終わったのである。


そこで1951年にマッカーサーは米議会で、支那の喪失と共産化は米国太平洋政策百年の最大の失敗と総括した。その後米国は日本防衛の国防費を節減すべく、日本の再独立と再軍備に向けて対日政策を180度転換して行くのである>


まったく激動の時代だった。そこには激しい諜報戦があり、日本は世界最高の暗号システム「パープル」を開発したものの英国チャーチルに突破され、敗戦後にそれを知ったが後の祭り・・・諜報戦の生の現場を山崎啓明(NHKディレクター)著「インテリジェンス 1941 ― 日米開戦への道 知られざる国際情報戦」を引用しながら学んでいきたい、コケて大怪我をしないために・・・
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646


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