昨日の帰り道、道端で蝉を見つけた。
雨上がりの夕暮れ。さっきまでの強い雨風にやられて木から落ちたのだろうか、その蝉は仰向けになり湿りきった歩道の隅に落ちていた。
その様子を横目に通り過ぎようとしたその瞬間、蝉の足がぴくりと動いた。
まだ生きている。
一瞬立ち止まり、考える。
拾ってどこかの木に止めてやろうか、いや、そんなことする必要もないか、蝉にも運命があるだろう、俺がどうこうすることじゃない。
そう思ってそのまま通り過ぎようとしたが、なぜかまた立ち止まってしまった。
蝉はまたぴくぴくと足を動かした。
抓み上げて目の前の木の枝にそっと置いてやると、蝉は息を吹き返したようにしっかりと葉にしがみつき動き出した。なんて力強いことだろうか、なんという生命力だろうか。
良いことをしたと思った。
人知れず死にかけていた蝉を救ってやったんだ。もしこの光景を誰かに見られていたとしたら、その誰かから「優しい人」だと思われるに違いないだろう。
そんなことを考えていたら心にちくっと針が刺さったような微かな感傷が走った。
優しい人?
一体どこの誰が優しい人だというのだろうか。

枝を這う蝉を見つめながら、ふと芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出した。
俺はまるで犍陀多(かんだた)だ。
生前に蜘蛛を踏み殺すこと止めたという理由で御釈迦様は地獄の犍陀多に救いの糸を差し伸べるのだが…いや待て、俺にはそれが腑に落ちない。
犍陀多は蜘蛛を助けた訳じゃなく蜘蛛を殺すことを止めただけだ。
生きながらえた蜘蛛は犍陀多によって助けられた訳でも生かされた訳でもない。ただ何の理由もなく犍陀多に殺されそうになっただけにすぎない。
そもそも犍陀多は人を殺したり家に火をつけたりしている大泥棒だ。それなのに御釈迦様は犍陀多に救いの糸を差し伸べる。
なぜだ?
俺には理解出来ないほどの深い慈悲がそこにあるのかも知れないが、どうだろう?
犍陀多を赦す気にもなれず御釈迦様の考えも理解出来ない俺は優しさが欠落している意地悪な人間なのだろうか。
蝉を助けて良いことをしたと思っている俺は偽善者で、自分でも気付かない心の奥底で「救われたい」と願っているのかも知れない。
やっぱり俺は犍陀多だ。
俺は優しい人じゃない。
俺の心の中はいつでも激しく荒んでいる。
だから蝉を助けた時に心がちくっと痛くなったんだ。
くだらない癇癪と優しさに憧れる矛盾。その矛盾が心の痛みの正体だ。
暫く蝉を眺めながら心の中で呟いた。
「生きろ、少しでもいいから生きろ、1秒でも永く生きろよ、生きろ」
その時、枝ににしがみついていた蝉がくるりと身を翻し、こちらを見た。確かにこちらを見ている。生まれて初めて蝉と見つめあった。
礼でも言ってくれているのだろうか?テレパシー?もしかしたら本当にこの蝉が何か喋り出すかも知れない…そう思った矢先、少し離れた場所から人の足音が聞こえた。
なぜだろう、なぜだかその足音を聞いた瞬間、反射的に蝉から目を剃らして、その場を後にしてしまった。
悪いことをしている訳でもないのに妙な後ろめたさがあった。根拠の無い負い目が心に伸し掛かる。
そうだ。いつだってこの根拠のない負い目が心の中にある。
この負い目は一体何なんだ?それが分らない。
その後、その蝉がどうなったかは知らない。
すぐに死んでしまったのかも知れないし、暫く生きながらえたのかも知れない。
やはり余計なことをしてしまったのかも知れないとも思った。
あのまま道端で命を終えるのが、あの蝉の運命だったのかも知れないのだ。
だけどそれなら通りすがりの人間に拾われて木の枝に乗せられるのも運命ということだろうか。
もしかしてあの蝉が犍陀多で俺が御釈迦様だったのか?
いや逆だ。俺が犍陀多で蝉がお釈迦様だ。
俺が蝉を助けたのでない、蝉が俺の心を救ってくれたのだ。
蝉のお陰でほんの少し優しい気分を味わえたのだ。
ただ今となってひとつ思うことがある。
「枝に乗せてやるより直接木の幹に止めてやったほうが親切だったんじゃないだろうか」
気の利かないことで申し訳ない。
雨上がりの夕暮れ。さっきまでの強い雨風にやられて木から落ちたのだろうか、その蝉は仰向けになり湿りきった歩道の隅に落ちていた。
その様子を横目に通り過ぎようとしたその瞬間、蝉の足がぴくりと動いた。
まだ生きている。
一瞬立ち止まり、考える。
拾ってどこかの木に止めてやろうか、いや、そんなことする必要もないか、蝉にも運命があるだろう、俺がどうこうすることじゃない。
そう思ってそのまま通り過ぎようとしたが、なぜかまた立ち止まってしまった。
蝉はまたぴくぴくと足を動かした。
抓み上げて目の前の木の枝にそっと置いてやると、蝉は息を吹き返したようにしっかりと葉にしがみつき動き出した。なんて力強いことだろうか、なんという生命力だろうか。
良いことをしたと思った。
人知れず死にかけていた蝉を救ってやったんだ。もしこの光景を誰かに見られていたとしたら、その誰かから「優しい人」だと思われるに違いないだろう。
そんなことを考えていたら心にちくっと針が刺さったような微かな感傷が走った。
優しい人?
一体どこの誰が優しい人だというのだろうか。

枝を這う蝉を見つめながら、ふと芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出した。
俺はまるで犍陀多(かんだた)だ。
生前に蜘蛛を踏み殺すこと止めたという理由で御釈迦様は地獄の犍陀多に救いの糸を差し伸べるのだが…いや待て、俺にはそれが腑に落ちない。
犍陀多は蜘蛛を助けた訳じゃなく蜘蛛を殺すことを止めただけだ。
生きながらえた蜘蛛は犍陀多によって助けられた訳でも生かされた訳でもない。ただ何の理由もなく犍陀多に殺されそうになっただけにすぎない。
そもそも犍陀多は人を殺したり家に火をつけたりしている大泥棒だ。それなのに御釈迦様は犍陀多に救いの糸を差し伸べる。
なぜだ?
俺には理解出来ないほどの深い慈悲がそこにあるのかも知れないが、どうだろう?
犍陀多を赦す気にもなれず御釈迦様の考えも理解出来ない俺は優しさが欠落している意地悪な人間なのだろうか。
蝉を助けて良いことをしたと思っている俺は偽善者で、自分でも気付かない心の奥底で「救われたい」と願っているのかも知れない。
やっぱり俺は犍陀多だ。
俺は優しい人じゃない。
俺の心の中はいつでも激しく荒んでいる。
だから蝉を助けた時に心がちくっと痛くなったんだ。
くだらない癇癪と優しさに憧れる矛盾。その矛盾が心の痛みの正体だ。
暫く蝉を眺めながら心の中で呟いた。
「生きろ、少しでもいいから生きろ、1秒でも永く生きろよ、生きろ」
その時、枝ににしがみついていた蝉がくるりと身を翻し、こちらを見た。確かにこちらを見ている。生まれて初めて蝉と見つめあった。
礼でも言ってくれているのだろうか?テレパシー?もしかしたら本当にこの蝉が何か喋り出すかも知れない…そう思った矢先、少し離れた場所から人の足音が聞こえた。
なぜだろう、なぜだかその足音を聞いた瞬間、反射的に蝉から目を剃らして、その場を後にしてしまった。
悪いことをしている訳でもないのに妙な後ろめたさがあった。根拠の無い負い目が心に伸し掛かる。
そうだ。いつだってこの根拠のない負い目が心の中にある。
この負い目は一体何なんだ?それが分らない。
その後、その蝉がどうなったかは知らない。
すぐに死んでしまったのかも知れないし、暫く生きながらえたのかも知れない。
やはり余計なことをしてしまったのかも知れないとも思った。
あのまま道端で命を終えるのが、あの蝉の運命だったのかも知れないのだ。
だけどそれなら通りすがりの人間に拾われて木の枝に乗せられるのも運命ということだろうか。
もしかしてあの蝉が犍陀多で俺が御釈迦様だったのか?
いや逆だ。俺が犍陀多で蝉がお釈迦様だ。
俺が蝉を助けたのでない、蝉が俺の心を救ってくれたのだ。
蝉のお陰でほんの少し優しい気分を味わえたのだ。
ただ今となってひとつ思うことがある。
「枝に乗せてやるより直接木の幹に止めてやったほうが親切だったんじゃないだろうか」
気の利かないことで申し訳ない。