田中悟の片道旅団

大阪で芝居と弾き語りをしています。

もらい煙草

2025年01月18日 | 日記
ミナミも随分と変わった。

とは言え若い頃はミナミに遊びに出ることはあまりなかった。
通勤や帰宅のルート、住んでいた場所の都合でキタに出ることのほうが多かったのだ。

大阪ミナミと言えばまず道頓堀がイメ-ジされるかも知れない。
でもその場合は御堂筋の東側、道頓堀川沿いのグリコの看板がある辺りをイメージすることが多いのではないだろうか。
道頓堀は御堂筋の西側にもまだ少しだけ続く。『道頓堀』の大きな電飾が目印だ。
その電飾をくぐり最初の角を右に曲がると橋がある。その橋のたもとに「出世地蔵さん」がおられ、その向かい側には喫茶店がある。時流に即さず店内に煙草の煙が漂っている懐かしい匂いの喫茶店だ。

煙草を吸わなくなったのは30代後半。
記憶が正しければ2回目の値上げがあった頃だ。そのタイミングで禁煙をして以来喫煙はしなくなった。
煙草を吸わなくなったからと言って喫煙者に嫌悪感を抱くことはないが、なぜか突然体質が変わったのか副流煙により唇が痙攣するようになり、時には体が痙攣するようになってしまった。そんな訳で煙草の煙を避けている。

煙草に思い入れがあるのかと言えばそれなりにはある。だけど大した思い入れではない。今ではその味や匂いもすっかり忘れてしまっている。
それでも煙草は人生やストーリーにとかく寄り添うアイテムだと思う。それがフィクションであったとしてもノンフィクションだったとしても。映画の中にも生活の中にも煙草は自然に溶け込んでいる、いや溶け込んでいた。
さて、これからの時代はどうなるのだろうか。

「何を吸っていたのか?」と問われると返答に困る。
やはり大して思い入れがないのだ。その時々の気分でころころと変わった。
喫煙をしていても愛煙家ではなかったってことだ。
煙草の銘柄がころころと変わる男は恋愛に対しても軽薄だなんてことを若い頃よく耳にした。
断じて否定したいところだが、いなめないのもまた事実だ。





もらい煙草

とっくにやめた煙草を今でも
持ち歩いているのは
せこいあいつがあたしの煙草を
いつでも欲しがるからさ

わりと良い男だと思ってた
あたしがつまり馬鹿だった
やめられない煙草とおんなじで
手の届く場所に
いつでも置いている

火をつけてくゆらせて
あとは灰になるだけ
くわえても束の間の
あいつのもらい煙草

コーヒーと煙草だけが二人を
テーブルに繋ぎ止める
昔は嫌だと言ってたくせに
平気で吸うメンソール

わりとお似合いだねと思ってた
あたしがほんと甘かった
使い捨てのライターみたいにさ
手の届く場所に
置き忘れられてる

火をつけてくゆらせて
あとは灰になるだけ
くわえても束の間の
あいつのもらい煙草

火をつけて抱きあって
二人ハイになるまで
口うつし繰り返す
あいつのしけた煙草

火をつけてくゆらせて
あとは灰になるだけ
くわえても束の間の
あいつのもらい煙草

あたしがあげた煙草
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする