彼はアクセサリーのデザインをしているそうだ。
画用紙に色鉛筆で思いつく限りのアクセサリーの絵を描き続け、気づけばもう70年近くその作業に没頭していると言う。70年?ちょっと待て。彼はどう見ても70歳以上の老人には見えない。確かに多少老けてはいるが私と同年代の中年だと思われる。一体彼は今何歳なのだろうか。本人に確かめてみると30歳を過ぎたばかりかも知れないし、そろそろ40代後半に差し掛かる頃かも知れないという曖昧な答えが返って来た。自分の年齢が分らないのか?それにしても曖昧さの幅が広すぎる。もう一度問いただそうと思ったがそれより先に彼が呟いた。
「どれだけの時間を費やしても何も出来ない」
ため息をつきながら遠くを見つめる。いや遠くを見つめるというより自分のすぐ目の前を見つめているようだった。彼の目の前には何か透明の壁のような物が存在していて彼の目はその壁に焦点が合っている印象だ。悲しんでいるというより寧ろ深い納得を得て落ち着いているようにも見える。
この段階で私は何かがおかしいと気づき始めていたが、そんな彼の横顔を見ているとあれこれ詮索する気が失せてきた。
「そろそろ行かないと」
彼はそう言いながらコンビニを出ようとした。私はレジを済ます必要があったので少し待てと目配せをした。彼はそのことに気づいたようでドアの手前で振り返り立ち止まった。案外姿勢の良い奴だと気づいた。
それにしても深夜のコンビニで見知らぬ男とこんなに話し込むとは思ってもいなかった。話し込んだと言っても時間にしてどれくらいだったろうか。そもそも会話が始まったきっかけも覚えていないが、そう言えば最初に声を掛けたのはこちらの方からだったかも知れない。
「この店に色鉛筆は置いてないよ」
私の声に気づいた彼はゆっくり振り返ると(そうなの?)という表情で無言の返事を返してきた。なぜか分らないが彼を見かけた瞬間に色鉛筆を探しているように思えたのだった。彼も特に否定しないから私の勘は当っているのだと思うが、もしかすると彼は別の何かを探していたのかも知れない。だとすれば見当違いなこと言ってしまったことになる。そんなこと考えながら夜の街を歩いていると柔らかい風とともに嫌な匂いが鼻をついた。何かが腐った匂いとカビ臭さが混じったような、それでいて無機質な化学薬品のような匂いだ。何か嫌な予感がしたがどうすることも出来ない。そのタイミングで彼は饒舌に語り始めた。
「俺はアクセサリーが好きな訳じゃないんだ。そもそもデザインなんて出来ないし興味すらない。何かを思い出さなきゃならないんだけど何を思い出せば良いのかも分らない。思い出そうとしているうちに長い時間が過ぎてしまって今じゃ何の為にそれを思い出そうとしていたのかさえも分らなくなった。何か銀色の、曇った感じの銀色の何かが見えるんだけど、それが何なのか分らない」
言葉とは裏腹に彼から焦燥感が見受けられないのはなぜだろうか。あらためて観察するように彼を見た。細い。極限までに痩せている。ほぼ肉のない体には皮膚らしき物が残っているので骸骨が服を着て歩いているという訳ではないがほぼそれに等しい風貌だ。さほど興味のないアクセサリーに固執する理由は何なのだろうか。彼が思い出そうとしている物が彼にとって大切な物なのであろうと推測するのは容易いが、彼には物に対して執着している様子がない。何かもっと強いインパクトを受けた出来事があってそこに彼の気持ちが縛られてるのかも知れない。
「バスに乗りたいんだけど」
また唐突にそんなことを言う。こんな時間帯にバスが走っている訳もなく、この辺りに夜行バスの乗り場などもない。またあの嫌な匂いが立ち込めてきた。彼は立ち止まる。その目線の先には路上に停められたバイクがあった。そのバイクを見つめる彼の意識の中にもう私の存在がないことが分った。彼は極自然にバイクに跨る。バスに乗りたいと言っておきながらバイクに跨る彼の挙動を私は暫く黙って見つめることにした。しかしそこで彼の動きが止まる。ピクリとも動かない。蝋人形のようだと言いたいところだが人形のような物質としての臨場感は一切ない。まるで一時停止した映像を見ているかのようだ。この場所には何か目に見えない境界線があってその境界線が私と彼を分断している。不意に激しい眩暈がした。地面が斜めに傾く。転がりそうになったところを何とか踏み止まった。群集の激しい叫び声、喧騒、ガラスを引っかくようなノイズが耳の周りで渦巻く。脳裏に一台のバスが浮かび上がる。後部座席の窓から車内を窺うと何人かの人影が見えるが誰もが背中を向けている。その中に一人だけこちらを見ている女性がいた。黒い服を着ている。胸元にパールのアクセサリーが見えた。更に激しく地面が波打つと私は立っていることが出来なくなりその場に片膝を着いた。眩暈は激しさを増し吐き気を催した。何故だか衝動的に彼女を呼び止めなければならないと思ったが声が出ない。その時だった。バイクの爆音が私の左耳から体内を通り右耳から体の外へと走り抜けて行く感覚に襲われた。そのまま後ろに突き飛ばされるような衝撃が走ったかと思うと強い風が前方から後方に突き抜ける。体の中が燃えるように熱かったがすぐにその熱は冷めてゆき次第にあの嫌な匂いも消えていくのが分った。眩暈と吐き気はまだ多少残っているが何とか立っていられそうだった。辺りは徐々に静けさを取り戻してゆく。
どうやら彼はあっちに行ったようだ。
振り返るといつの間にか真っ昼間の喧騒の中に私は立っていた。目の前を市バスが横切った。
画用紙に色鉛筆で思いつく限りのアクセサリーの絵を描き続け、気づけばもう70年近くその作業に没頭していると言う。70年?ちょっと待て。彼はどう見ても70歳以上の老人には見えない。確かに多少老けてはいるが私と同年代の中年だと思われる。一体彼は今何歳なのだろうか。本人に確かめてみると30歳を過ぎたばかりかも知れないし、そろそろ40代後半に差し掛かる頃かも知れないという曖昧な答えが返って来た。自分の年齢が分らないのか?それにしても曖昧さの幅が広すぎる。もう一度問いただそうと思ったがそれより先に彼が呟いた。
「どれだけの時間を費やしても何も出来ない」
ため息をつきながら遠くを見つめる。いや遠くを見つめるというより自分のすぐ目の前を見つめているようだった。彼の目の前には何か透明の壁のような物が存在していて彼の目はその壁に焦点が合っている印象だ。悲しんでいるというより寧ろ深い納得を得て落ち着いているようにも見える。
この段階で私は何かがおかしいと気づき始めていたが、そんな彼の横顔を見ているとあれこれ詮索する気が失せてきた。
「そろそろ行かないと」
彼はそう言いながらコンビニを出ようとした。私はレジを済ます必要があったので少し待てと目配せをした。彼はそのことに気づいたようでドアの手前で振り返り立ち止まった。案外姿勢の良い奴だと気づいた。
それにしても深夜のコンビニで見知らぬ男とこんなに話し込むとは思ってもいなかった。話し込んだと言っても時間にしてどれくらいだったろうか。そもそも会話が始まったきっかけも覚えていないが、そう言えば最初に声を掛けたのはこちらの方からだったかも知れない。
「この店に色鉛筆は置いてないよ」
私の声に気づいた彼はゆっくり振り返ると(そうなの?)という表情で無言の返事を返してきた。なぜか分らないが彼を見かけた瞬間に色鉛筆を探しているように思えたのだった。彼も特に否定しないから私の勘は当っているのだと思うが、もしかすると彼は別の何かを探していたのかも知れない。だとすれば見当違いなこと言ってしまったことになる。そんなこと考えながら夜の街を歩いていると柔らかい風とともに嫌な匂いが鼻をついた。何かが腐った匂いとカビ臭さが混じったような、それでいて無機質な化学薬品のような匂いだ。何か嫌な予感がしたがどうすることも出来ない。そのタイミングで彼は饒舌に語り始めた。
「俺はアクセサリーが好きな訳じゃないんだ。そもそもデザインなんて出来ないし興味すらない。何かを思い出さなきゃならないんだけど何を思い出せば良いのかも分らない。思い出そうとしているうちに長い時間が過ぎてしまって今じゃ何の為にそれを思い出そうとしていたのかさえも分らなくなった。何か銀色の、曇った感じの銀色の何かが見えるんだけど、それが何なのか分らない」
言葉とは裏腹に彼から焦燥感が見受けられないのはなぜだろうか。あらためて観察するように彼を見た。細い。極限までに痩せている。ほぼ肉のない体には皮膚らしき物が残っているので骸骨が服を着て歩いているという訳ではないがほぼそれに等しい風貌だ。さほど興味のないアクセサリーに固執する理由は何なのだろうか。彼が思い出そうとしている物が彼にとって大切な物なのであろうと推測するのは容易いが、彼には物に対して執着している様子がない。何かもっと強いインパクトを受けた出来事があってそこに彼の気持ちが縛られてるのかも知れない。
「バスに乗りたいんだけど」
また唐突にそんなことを言う。こんな時間帯にバスが走っている訳もなく、この辺りに夜行バスの乗り場などもない。またあの嫌な匂いが立ち込めてきた。彼は立ち止まる。その目線の先には路上に停められたバイクがあった。そのバイクを見つめる彼の意識の中にもう私の存在がないことが分った。彼は極自然にバイクに跨る。バスに乗りたいと言っておきながらバイクに跨る彼の挙動を私は暫く黙って見つめることにした。しかしそこで彼の動きが止まる。ピクリとも動かない。蝋人形のようだと言いたいところだが人形のような物質としての臨場感は一切ない。まるで一時停止した映像を見ているかのようだ。この場所には何か目に見えない境界線があってその境界線が私と彼を分断している。不意に激しい眩暈がした。地面が斜めに傾く。転がりそうになったところを何とか踏み止まった。群集の激しい叫び声、喧騒、ガラスを引っかくようなノイズが耳の周りで渦巻く。脳裏に一台のバスが浮かび上がる。後部座席の窓から車内を窺うと何人かの人影が見えるが誰もが背中を向けている。その中に一人だけこちらを見ている女性がいた。黒い服を着ている。胸元にパールのアクセサリーが見えた。更に激しく地面が波打つと私は立っていることが出来なくなりその場に片膝を着いた。眩暈は激しさを増し吐き気を催した。何故だか衝動的に彼女を呼び止めなければならないと思ったが声が出ない。その時だった。バイクの爆音が私の左耳から体内を通り右耳から体の外へと走り抜けて行く感覚に襲われた。そのまま後ろに突き飛ばされるような衝撃が走ったかと思うと強い風が前方から後方に突き抜ける。体の中が燃えるように熱かったがすぐにその熱は冷めてゆき次第にあの嫌な匂いも消えていくのが分った。眩暈と吐き気はまだ多少残っているが何とか立っていられそうだった。辺りは徐々に静けさを取り戻してゆく。
どうやら彼はあっちに行ったようだ。
振り返るといつの間にか真っ昼間の喧騒の中に私は立っていた。目の前を市バスが横切った。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます