ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

エントロピー増大と意識 

2013-01-01 15:00:17 | ひとの幸福
毒を出すというプロセスそのものが生命体にとっては重要なのであって、

毒の中身とか種類なんかはどうだっていいんです。

生命体のレベルがあるレベルから次のレベルに脱皮するときは必ず毒が出る。

その毒はきちんと受け止めてあげないといけない。

受容する人がいないと毒は出ない。毒だから右から左へ流さないとダメ。

受け入れてそのまま出す能力が必要。

流れると出す方も気分がいいから毒を吐き切ることが出来る。

・・これは「せいめいのはなし」のなかの内田樹さんの言葉。

毒を出し(壊す)ながら、作るというのが生命の在りようということなんだと思うんだけど、

これは全く研鑽会のようだ。

出された毒をそのまま聴ける人がいることでそうなる。

そういう人がいないと研鑽会にはならない。

受け取る人が居ないと出した毒はまた自分に戻って来る。

自分ひとりで研鑽をやる場合でも、

自分の出した毒は自分が受容しないと出した状態にならない。

自分を責めたりするのはそういう自分を受容できない“状態に在る”からではないかと思う。

自分のしたこと・思ったことを批判するもう一人の自分が居ると毒を出せない。


エントロピー増大の法則と・・・

2013-01-01 14:44:26 | ひとの幸福
この法則があるということは宇宙は相対性という在りようをしているということの現われのかなと思う。

生命は恒常性を保つために常に動いていることが必要で、

止まったらエントロピー増大の法則によって壊され、色褪せ、乱雑になる。

生命はそれを防ぐのにわざと仕組みを柔らかくゆるく作った。

エントロピー増大の法則に先回りして自らをあえて壊す。

壊しながら作る。細胞なんかが最もわかりやすい。

身体はそんなふうにして恒常性を保っている。

生まれてからずっと続いている自転車操業で、今の私という身体がある。

私という一人の人間はずっと「トココ」なんだけど、

生まれた時の身体の細胞なんか一つも今のわたしには無い。全部壊して捨てた。

それでもわたしはわたしだ。

身体じゃない精神の私はどうなんだろう・・・

生まれた時のわたしの精神では勿論ない。小学生のわたしの精神でもない。

30歳のわたしの精神でもない。じゃあ、果たして1年前のわたしの精神と今の私の精神とではどうだろう。

壊しながら作っているか?

生命である意識も生命である身体と同じように止まっていたら壊れるばかり・・・か???

やはり全てが止まれば死ぬし、生きているのに止まるというのは不自然なこと。

身体では自然にしている壊しながら作るということを心でもそうする、というのはどういうことなんだろう・・・。

漠然と生きているだけでは難しい気がする。


縁起

2013-01-01 14:29:22 | ひとの幸福
 通常「縁起が悪い」なんていう表現で使うけれど、

「縁起」とは仏教の教えで、全てのものは他のものとの縁によって起こるということらしい。

広辞苑によれば、

「一切の事物は固定的な実体をもたず、さまざまな原因(因)や条件(縁)が

寄り集まって成立しているということ。

仏教の根本思想。因縁。因果。」

湯川博士は後年、東洋的思想が濃くなってあらわれた、という文章を読んだことがあるけれど、

昭和16年~18年頃書かれた、「目に見えないもの」を読むと、

そうなるのも当然の成り行きなんだろうなと思う。

量子力学と仏教は共通点が多い気がする。

仏教哲学って凄いなと思うけど、それって人間は凄いなってことだよね。

福岡伸一ハカセの本を読むと、生物学も仏教と共通するものがあると思う。

縁起とは動的平衡という生命の在りようと同じような意味とも云えるかなと思う。



固体に対して気体

2013-01-01 13:51:27 | 本を読んで
山岸さんの言葉でコレがある。

固体 に対し 気体
頑固  〃   謙虚
きめつけ 〃  きめつけなし
だ    〃 だろうか
信仰  〃   無信仰
束縛   〃  なし、自由
固定   〃  なし、融通



高圧 〃       無圧
対戦  〃      無戦
闘争  〃      無闘争
話し合いの要なし 〃 話し合い
妥協・譲り合い  〃 無妥協
・・・
・ ・・その他たくさんあるんだけど、

これは自分の中がどう“なっているか”、のことだろうか。

左が悪くて右がいいということでもないと思う。

ただどうなっているか・・それが観えればいいなと思う。

瞬間瞬間の私がどうなっているのか・・・

(だ に対し だろうか)のへんでは、

(だ)と表現してしまうことが私は多い。

その時は(だ)になっている。

(だ)と思っているのでそう言い切ってしまう。

後になって自分の中が変わって来て、

(だ)って書いた過去の文章を消したくなる。

ただ、(だ)と表現したとしても言い張るつもりなんかないことも多い。

山岸さんが(だ に対し だろうか)と云ったのは言葉ではなく、

その表現の基の“心の状態がどうなっている”のか、

ということなのではないかと思う。

(~だ)と言ったり書いた後で、誰かがいや、こういうことじゃないのかと言ったり、

自分の中でそういうものが出て来た時、

そのことを聴く耳が在る場合と無い場合とがあると思う。

そうかなと受け取ってすぐさま間違えてた、訂正します、になることも多い。

でも、少し恥ずかしく思うのはなんでだろう・・・

未熟だった、そのことが恥ずかしく思う感じなのかな。






好きなこと 

2013-01-01 13:46:20 | 日々の暮らし・思い出
書くことはやっぱり好きだ。

書いていくうちに違う展開になるのが好きだ。

思ってもないことが出てくるから好きだ。

わからないから好きだ。

この好き感覚がなんとも心地いい。

子供のときも作文を書くのが好きだった。

なんだかわからないけど好きだった。

こういうのってホント理由ないんだね。

子供のときから走るのが好きとか、ボール投げが好きとか、絵を描くのが好きとか、

何かを見てるのが好きとか、いろいろ人によってあるんだろうな。

好きなことをしてると幸せ。

だからひとがたくさん居る社会というものが豊かになるのは当然なんだろうな。

それをしたくなるからしてるなら何のストレスもないものね。

政治が好きなひと、経済が好きな人、研究するのが好きな人、

遊びを生み出すのが好きな人、縫うのが好きな人、作るのが好きな人、

走るのが好きな人、歌うのが好きな人、・・・

みんな違ってみんないい、って本当そうだなぁって思う。