ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

2013-01-13 16:44:42 | 日々の暮らし・思い出
海沿いの国道を通って歩いて来た。

隣の集落の外れの高台にある神社を抜けて又、集落に出て、

そこから又国道に出て、帰りはバイパスを通って。

今日は風が無いのか、とんびが羽をバタバタ(音はわからないけど)させて飛んでいる。

それともあれはカラスだったんだろうか。

風がそよとも動かなかったんだけど、家の傍まで来ると、

綿状になっているススキの枯れた穂先がすこ~し揺らいでいる。

少し風が出て来たなと思って、空を見上げたらとんびが3羽いつもの通り、

身体を傾げ、風に乗ってゆら~りゆら~りと飛んでいる。

飛んでいるというより、舞っているという感じ。

とんびがあんなふうに飛ぶという現象も風というキッカケがあって、

ゆら~りゆら~りと飛んでいるのかと思う。

風が原因でもなく、身体の造りが原因でもなく、

いろんな縁でそうなっている現象なのかと思う。

「縁起」であり、「空」なのかなぁ。

とんびが空(そら)を飛ぶのは空(クウ)。
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バイエル27番

2013-01-13 14:17:19 | 日々の暮らし・思い出
バイエルの練習して27番まで来た。

30分以上練習していると疲れてくることがある。同じところで何度も弾き間違う。

そういうとき、ちょっと休んだらいいんだな・・・って、

当たり前のことなんだろうけど、やってみて思った。

そのままで続けていると、やる気がなくなると気がついた。

そうなる前に、なりそうだな、というその気持ちを今回はつかまえられた。

で、休憩に入ることが出来た。

些細なことだけど、自分の意識を観察できたかと思った。

ピアノを弾くという作業でも意識を観察するのが半ば目的なので、こうなったのは嬉しいな。


思うように指が動かないことが続くと、楽譜通りに弾こう弾こうという

顕在意識に取りつかれるという感じになる。すると、

弾けない自分が現象化する。

量子ゼノン効果だね。

なので、ちょっと休憩するのがいい。

気持ちをそこから逸らすのがいい。

山岸さんの文章でも、わからないことをいつまでも考えてないで気分転換するのがよろしい、とかいうのがあったけど、

それも同じことをいっているのかと思う。

それで私もピアノの前からパソコンの前に来てこんなこと書いてる。

さぁ、今度は歩きに行こう。




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空の本質 ②★

2013-01-13 10:57:18 | 本を読んで
その章にはこういう文章がある・・・

「釈尊は経典の中で、『見ないことが、究極のありようを見たことである』と述べられています。」がある。

「実体がみつからない、そのことが釈尊が言う、「見ない」ということであり、

それ自体の側からの成立(実体)を何も見ることがなくなったなら、

それが究極のありようを見たことになるのです。

・・・これはダライ・ラマ14世の解釈による表現なんだけど、

もうちょっとわかりやすく言うと・・・

現象というものは相互関連作用によって起こって来るものであるのに、

一つの現象を単独な独立したものとして見てしまうことによって、

それを否定するとか肯定するとかの認識が成立することになる。

そう、一つの現象に対し善悪を判断できるという認識が成立する。

単独と見ることがなくなったら・・そのような認識は成立できない。

というのが、釈尊が言う、「見ない」ということ。

それは現象に対して否定肯定無し・一切の評価、判断の無い境地のことを言うのだろう。


昨日も書いた公園の男という具体的現象で考えるとわかりやすい。

昼間、公園で性器を出してじっと当時の私を見ていた男は、

(これは何だろう?なんのためにこうしているのだろう?それが見えないなぁ)

という私からの視線を感じ、

(その視線はその男現象に対してなんの判断もしていない意識からのもの。)

男はズボンを自ら引き上げた。

そのような視線を感じたことがキッカケで、

その男の中で何かが起こったということではなかろうかと思うので、

やはりそれもその時の男単独で起こった現象ではない。

(自性で成立したものではない)

その視線を感じた男は、否定されること無しに(他者の干渉的介入無しに)、

春の昼日中の井の頭公園という周囲と調和する姿になった=ズボンを上げた。

一つの細胞が隣や周囲の細胞の動きに調和して自ら動くように。

雨が降って来て傘を差せと指示されなくても雨なら雨でと自ら傘を差すように。


それが自性で成立することのない、人間の“究極の在りよう”なのだと私は思う。

共に在る、それが人間の究極の在りよう。

そのことが、「見ないことが、究極のありようを見たことである」という、

釈迦の言葉が云っていることなのかと思う。

釈迦の云う、『見ないこと』という表現は、

評価や善悪の判断などが無い状態の心、境地のことを云っているのかと思う。

そのような自我の無い境地からは究極の在りようが見える。

その境地からは“究極の在りよう”では『無いもの』は見えない。

“究極的な在りよう”では『無いもの』とは、周囲・全体と調和しないもの、なので。

だから、それは「見ない」ことによって、自動的に消える。


一つの分子、一つの細胞、植物、動物という部分は周囲と自発的に相互関連な動きをし、

それによって全体がひとつという秩序になってしまうもの。

それが動的平衡という状態なんだろう。

不安定状態にあり、且つ安定している状態に保とうする、という作用といってもいい。

それを調和・保ち合いという言葉で言ってもいいと思う。

山岸さんに「釈迦と気が合う」という言葉があったけれど、

そりゃそうだろうなぁと思う。

もしかしてダライ・ラマ14世さんより山岸さんの方が釈迦と気が合っているんじゃないだろうか。

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