ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

状態を観察すること

2013-01-14 17:14:23 | 量子力学と心
さっき書いたけど、

(そうなったら記録しよう)という思いが発生する自分というものは、

(まだそうなってない状態)で在る、ということだ。

今の自分はそういう状態である、と無意識のうちに観察している。


(私は~こういう状態で在る)が、現象化する・・そう言えるんじゃないか・・・。


よくある意識だけど、(あーなったら、こうしよう)と思っているうちは、

あーならない、ということか・・・

「こうしよう、があったら、さっさとやれ」これが極意?

「しようとするな、さっさとやれ」というタイトルで何か書いたけど、

何を書いたか忘れた。けど、これじゃないよね。


(私は~こういう状態で在る)が、現象化する。

具体例を出そう、考えるにはそれが一番・・・

短気な人にこっぴどく怒られた経験があると、

まだ、その人と何も話しても居ないのに、

(何か言うと又怒るんじゃないか)というような不安が浮かぶ。

この時の自分の状態は(私は怒られる者)かな。

するとビクビクモードになる→相手の気に触る→いじめたくなる→怒る。

不安は的中することが多い。相互関連作用によるもんだね、これも。

あ~なるんじゃないか、こうなるんじゃないか、という不安はそれを呼び寄せる。

心も身体も。

パニック障害なんかも最初はそんな不安が全く無いときに発症するけれど、

それが2回あると、又なるんじゃないかという不安に取りつかれてしまうのかと思う。

そうなるのもすごくよくわかるけど。

イヤな経験は一度で終わらせたいのに、そういう望みに反して、

何度もすることになるのは、

そうなる心理的プロセスをよく観ないこともあるのかな。

そういうのも高速思考によるもんだね。

高速思考はいろいろと被害を大きくするもんだ。


排尿の回数

2013-01-14 16:49:54 | 量子力学と心
義父がトイレの回数が多くて、面倒だ・・というようなことを言っている。

そうなんだろうなぁと思う。

私も去年の冬、起きている最中に何度も何度もトイレに行き、

面倒くさく思ったことがあるからよくわかる。

娘からそれは冷えから来るものじゃないかと指摘され、そうかなと思って、

裏フリースの暖かズボンを穿き、電気ひざ掛けをして、パソコンに向かった。

効果覿面でかなりトイレ行きの回数が減った。

排尿回数が多いなと思った時、トイレにメモ用紙を張って、

その回数を記録し始めていたので、その違いがよくわかった。


この排尿回数を記録するということで、

面白い記事を健康雑誌で読んだことがある。

膀胱だか腎臓の病気があるかどうかの観察?診察?の為に、

排尿の回数を記録することがあるらしいが、

その記事でドクターがこういうことを言っていた。

回数を記録するようになると、何故かわかりませんが、回数が減ることがあります・・って。

“回数を記録することで、排尿回数が減る”・・・!?

・・・記事のこの箇所だけがとても印象に残った。

なんで回数を記録すると回数が減るのか???


ドクターからそれを記録するように言われ、

尿意が来たらトイレ行きを記録しようとする。

いわば、(そうなったら、記録しよう)が意識にあるという状態だ。

そんなこと記録しないときはその意識は登場しない。

そうなったら記録しよう・・という思いは、今現在、“尿意が無いという状態”から発している。

尿意があったら記録するのだから、記録しようという思いがあるのはまだ尿意がない、ということなので、

「私は尿意がありません」と表明しているということ。

「私は尿意がありません」が自分の状態。

それが現象化する→回数が減る・・とまぁ、こういうことかと思うんだけど。

意識と身体は直通の回路がある!?

空・動的平衡・不安手の安定・日本神道

2013-01-14 14:37:24 | ひとの幸福
4つ並べて書いてみたよ。

丁度1年前のブログからの引用・・・

・・・あらゆる存在がその個性を生かし、調和し、

永久に発展していくことが神道の原点です。

という看板が熊野神社にあった。パソコンで調べたら、

「日本人は人道に対する神道という、人道よりももっと高度な、

善悪を超えた宇宙や地球の法則のようなもの、

人類を含めた『物・事の在り方』『道(みち)』を

その精神の中心におき・・・・」という文章があり、

「物や事の在り方をその精神の中心におき・・・」

在り方 とは 存在の仕方 ということになるのかな。

物や事、自然や宇宙はこうなっていますよ、と云っているだけなんだ。

どうなっているかといえば、

あらゆる存在がその個性を生かし、調和し、永久に発展していく・・・

ということ。動いて、お互いに調和し合って存在してる。

そのこと自体、良いの悪いの、なんてない。

善悪を超えて存在している。

こんなことは教えでもなんでもない。

ただそう“なって”ますね というだけの話だ。

・・・以上なんだけど、

こういう法則通りの境地に多くの人が“なる”と、

人間界も日本神道がいうように“なる”のかなと思う。


この4つに共通するものを感じてしまうのは私だけなんだろうか・・・???

いや、広い世界にはきっといると思う。





「空の智慧、科学のこころ」 

2013-01-14 11:11:06 | 本を読んで
この本をもう一度最初からゆっくり読んだ。

現象の動的平衡という在りようが全体から見ると調和をつくれてしまうという、

そのことが仏教で云う“空の本質”かと私はそう解釈したのだけど、

そういった見解はどのページにもなかった。

正しい認識が究極のありようを見ることが出来るということも書かれてあったけれど、

その、正しい認識についてもっと踏み込んだ洞察がないように感じられた。

ただ、現象は空であるということだけがいろいろと書かれてあっただけで。

まぁ、この本は講演会の発言を書籍化したもので、

ダライ・ラマ14世の他の本にはもっと突っ込んだ見解があるのかもしれないけれど・・・

仏教哲学にもいろんな派のいろんな見解があるようで、

そのどれが真に釈迦のこころを記述しているのかは釈迦にしかわからないだろうし、

釈迦と同じレベルかそれ以上の意識でないと、わからないことなのかと思う。

大学の数学を幼稚園児にはわからないけど、

幼稚園児が成長して、それがわかるようになったらわかるのと同じように。