「せいめいのはなし」の中の内田樹さんとの対談で、
福岡伸一ハカセがこう言っているのがある。
「一つの分子がたった一つの役割しかしていないというのは、
長年生物学が陥っていた隘路(あいろ・狭い路、支障、難点)でもあるのです。
実は分子が一つの役割だけをしている、つまり1パーツ1機能というのはある種の幻想で、
新しいチームの中に入ると、新しいパスをするようになる。
様々な状態で文脈次第で別のことをするのが私たちを構成している分子なのです。」
・・・一つの分子も人間の意識の働き方も全く同じだなと思う。
私は夫の前では妻という役割をしているし、義父の前では嫁という役割だし、
娘の前では母親という役割をしている。
けれど、そういう役割をするということだけじゃない。
それはあまりにも大雑把な説明かな。
娘も二人居るし、夫の娘たちもいる。
その娘その娘、その時その時、違う私が現れる。
母という役割?だけではない。
隣人の前では隣人という役割をしている。
とにかくそれぞれ接する人の前では
自然にそれなりの人になってしまうことを人は誰でも実に自然に巧みにしている。
ついさっきまで親しい感じの対応が相手の一言や態度で一変することなんかはテレビドラマでもよく見る。
一人の人間は周りの人とそのつどそのつどパスをし合いながら、
独特のその人になる・・んだろうな。
福岡伸一ハカセがこう言っているのがある。
「一つの分子がたった一つの役割しかしていないというのは、
長年生物学が陥っていた隘路(あいろ・狭い路、支障、難点)でもあるのです。
実は分子が一つの役割だけをしている、つまり1パーツ1機能というのはある種の幻想で、
新しいチームの中に入ると、新しいパスをするようになる。
様々な状態で文脈次第で別のことをするのが私たちを構成している分子なのです。」
・・・一つの分子も人間の意識の働き方も全く同じだなと思う。
私は夫の前では妻という役割をしているし、義父の前では嫁という役割だし、
娘の前では母親という役割をしている。
けれど、そういう役割をするということだけじゃない。
それはあまりにも大雑把な説明かな。
娘も二人居るし、夫の娘たちもいる。
その娘その娘、その時その時、違う私が現れる。
母という役割?だけではない。
隣人の前では隣人という役割をしている。
とにかくそれぞれ接する人の前では
自然にそれなりの人になってしまうことを人は誰でも実に自然に巧みにしている。
ついさっきまで親しい感じの対応が相手の一言や態度で一変することなんかはテレビドラマでもよく見る。
一人の人間は周りの人とそのつどそのつどパスをし合いながら、
独特のその人になる・・んだろうな。