ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

造物主・神・大自然の力

2013-01-23 09:16:26 | ひとの幸福
「天」を広辞苑で調べた時に、「造物主。帝。神。また、大自然の力。」という意味も載っていた。

昨日も書いたけど、広辞苑でもなんでも辞書というものは、

この言葉はこのように使われて来て、今もこのように使われています、ということだ。

日本の辞書は今までの日本人の認識が現われている。

言葉は認識だから。

「天」という字を そういう意味合いに日本人は使って来た。

空模様や空や、そういう意味としても使い、

造物主・神・大自然の力と云う意味でも使って来たということか。

それが正しい使われ方だとか云っているんじゃないよ。

ある現象に対してそのように解釈して来た日本人なんだなぁと感心してる。

お天道様に申し訳が無い お天道様に顔向けできない・・・

この「天道」という言葉の意味は天帝の道。超自然の宇宙の道理。

こういう意味として日本人は「天道」を使って来た。

そう使って来たということはそのように認識して来たということだ。

超自然の宇宙の道理に対して、自分のこういう態度は顔向けできないことだ、

とそこら辺のおじさんやおばさんが喋っていた。

おじさんおばさんは「天道」をそういう意味だと自覚していなかったかもしれないけど、

言葉がそう言っている。

「はじめに言葉ありき 言葉は神であった」という聖書の言葉を思い出してしまうよ。

天賦の才 ②

2013-01-22 14:53:25 | ひとの幸福
天賦とは(天がわかち与える意)生まれつき。天性。

天才とは天性の才能。生まれつき備わったすぐれた才能。そういう人。

私たち全員は生まれつき持っているすぐれた性質が在る。

それは天から来たもののようだけど。

わたしたち全員は生まれついたとき、究極の在りようをしていた。

生まれたばかりの赤ちゃんを見たらわかる。

その心は無評価状態。

赤ちゃんに何をしても赤ちゃんはそれに対して評価はしない。

肯定も否定もしない。束縛心も闘争心も嫉妬心もない。

自覚はないけれど。

身体を快適に感じているとき、泣かないのは、

身体が不快状態のときに、大きな声を上げて、

周りにそれを報せる必要があることを無意識的に知っていることから来るのかと思う。

周りと共に存在していることを知っている。

無意識的に知っている。

身体は不快であってもきっと心は不快ではないと思う。

身体の苦しみを心は苦しまない状態といえるんじゃないかな・・・

そういう者だった。わたしたちは。

それを忘れているだけなんじゃないかな。

それを思い出す旅が人生。

ちょっとかっこいい言い回しだね~




天賦の才

2013-01-22 14:27:50 | ひとの幸福
昔、横綱だった大鵬関が死に、彼の言動やらなにやらが新聞に出ていた。

大鵬さんは天賦の才があると言われていたらしいが、

彼は、誰にも多かれ少なかれ天賦の才がある。それを引き出すのは努力である・・

と言っていたよう。

天賦の才とは天才ということなのかな。広辞苑によると・・・・

天賦とは(天がわかち与える意)生まれつき。天性。

天才とは天性の才能。生まれつき備わったすぐれた才能。そういう人。

天性とは天から受けた性質。うまれつきそなわっている性質。天資。

天資とは生まれつき。

・・・・こう羅列してみると、

生まれつきというのは“天”から来るものらしい。

よく広辞苑に登場してもらうけど、

広辞苑に書かれてあることが正しい、というんじゃなくて、

この言葉はこのように使われています・・ということが広辞苑に書かれてあるのかと思う。

このように通用しています・・・

このように世の中の人は解釈しています・・・

広辞苑はその集大成といえるんだろうか。

生きて動いている私たちが使っている言葉は、

私たちの当たり前の解釈を表わしている、といっていいのかな。

「天」という意味深な字はいろんな意味を皆から持たれている。

この皆とは今までに生きた日本人全て。

天が与える性質というところの「天」はまさか空や空模様の事じゃないだろう。

天には空模様という意味もあるので。

地球をとりまく空間という意味もある。けど、これも違うよね。

天地万物の主宰者(人々の上に立ち、または中心となって物事を取りはからう者)。

造物主。帝。神。また、大自然の力。

自然に定まった運命的なもの。天国。楽園。

・・そんなのを天と日本人は解釈してきたようなんだろうけど、

それでもって、生まれつきというのは“天”から来るものらしいので、

それはどこ?













ツナミちゃん ③

2013-01-22 11:12:24 | ひとの幸福
ひとが攻撃的になっているとき、

攻撃的意識がなかったツナミちゃんはそこで何を聴いたのか、見たのか。

相手の責める気持ちのその奥には必ず何かの意志がある。

それを聴く、見るんじゃないか・・・

責める、そのことがツナミちゃんの辞書には無いので、

それを見ないともう一つそこに在るのものが見えてくる。

ひとは結構こういう体験をしてるもんだ。

何かに腹を立ててものを言っている人にはそこになんらかの意志、気持ちがある。

具体的になんかないかな・・・

そうそう、私の母との経験、ここにも書いたことあるけど。

母に会うのが遅れたとき、なんでもっと早く来ないかっ!!

来られるはずじゃないかっ!と母はすごい剣幕で私に向かって怒った。

その時の私は、私には私の都合があって、それを実行するのは当然じゃないかっ!!

それを何言うのかっ!!!と、これまた凄い剣幕で怒った。

母の当然感と私の当然感が火花を散らした。

自分の中に(~するのが当然)が固く根を張っていたので、

それと母のそれが共鳴し合った現象だったよ。

えーっと脱線かな、そう、その時の母には(私と早く会いたい)という気持ちが在ったのだ。

でなければ、私がどんなに遅れようとへっちゃらのはず。

これは母が倒れてから気付いたことだったので、

もし、その時に気付いていたら、母のそういう気持ちが見えたと思う。

そうしたら、あ~、ごめんね。すぐにここへ来ればよかったね。

と自然に出たかなと思う。

すると母の怒りは消えたかと思う。

これも相互作用でそうなるということの一つだね。

あー言えばこう言うというのも一つの相互作用だし。

相手の怒りが消えるような、そういう意識状態から行為するのが年がら年中の人もいれば、

月に何度かの人もあるだろうし、

一日の半分くらいという人もあるだろうし。

山岸さんの、一時間或いは二時間メンバーもあるわけです。っていう文章が云っているのもこういうことかなと思う。

その文章の前にはこれがある・・・

誰が半メンバーとか、特定の人を云うのではなく、

自己を零にしてその活動に没頭している間の人の呼称であって・・というもの。

「自己を零にして」というのはその時の意識の在りようが、

無評価状態、無束縛(自由)状態、無嫉妬状態、キメツケが無い状態、謙虚状態等に

“なっている”ということかと思う。

そのような状態からの行為をしている間のことを、

その活動に没頭している間、と表現したものかなと思う。

自然と人為

2013-01-21 14:28:29 | ひとの幸福
「人為」とは人の力で行なうこと。人間のしわざ。

自然のままでなく、人手を加えること。人工。


「自然」という言葉の意味は、おのずからそうなっているさま。

おのずからなる生成・展開を惹起させる本具の力としての、ものの性(たち)。

本性。本質。

(本具とはなんと読むのだろう?ほんぐ、かと思って見たけどなかった。

本来具わって在るものという意味かな?)

・・そういったことが広辞苑に書かれてある。もっとあったけど。


“おのずから””なる”“生成”、“展開”、を惹起させる力」とはよくいったもんだ。


自然の存在である植物の種は自ずから発芽する。育つ。

けれども、種を乾燥したコンクリートの上に置いても発芽しない。

やはり幾つかの環境条件とうまく一致作用し合った時に発芽する。

環境との相互関連作用によって種は“自ずから”発芽する。


やはりそういう意味で昨日書いたツナミちゃんの在りようも、

環境との相互関連作用によって発芽したというか、現われたといえる。

種の本具の力としての本質がいろんな条件と作用し合って、

発芽という形に現われた。

人間の本具の力としての本質がいろんな条件と作用し合って、

その行為という形に現われた。

本具になかったら、他の条件がどんなに揃っても発芽しない。

本具になかったら、他の条件がどんなに揃ってもそういう行為にならない。

ツナミちゃんの行為は自然と人為の調和の姿といえるのかもしれない。


調和いろいろ

2013-01-21 10:34:23 | ひとの幸福
鳶が暴風雨で飛ばない現象もそれは調和の姿だ。

誰かが鳶を意識的に傷つけ、鳶が空を飛べない現象もそのときの調和の姿。

ヒットラーが多くの人を殺した現象もそのときの調和の姿だ。

アメリカの小学校での銃乱射事件現象もその時の調和した姿だ。

そうなった条件のうち、一つでも欠けたらそれは起こらなかったという意味で。

どんなに酷い現象もどんなに醜い現象も戦争も紛争も家庭内トラブルも、

いろんな条件が一致したことによって起こる。

どんな現象もそうだ。例外は無い。

人から見て、良いことも悪いことも。

それが自然の理だから。

山岸さんが云った「全員一致」という表現もそういった意味合いがあるのかもしれないと思った。

現象は常に様々な条件が一致したからこそ起こる。

けれど、そういう酷い現象なんかは自然と人為が調和していないといえる。

わたしは「不自然な調和」という言葉を使って来たけど。

同じ?温泉行き

2013-01-20 15:52:51 | 日々の暮らし・思い出
遠い所に住んでいる弟が来て、しばらく滞在しているので、

昨日はみんなで温泉に行った。

義父は、かかるお金はみんな自分で出すからと、何度か言っていた。

高速道路を使ってその温泉に行った。

ちょうど1週間前にも家族3人でそこへ行ったんだけど、

その時、義父は「ここは近くてええなぁ」と言っていた。

温泉の質も気に入っているし、

義父が近くてええなぁと言ってるしと、今回もそこへ行こうとなって行った。

だが、面白いことに、昨日その温泉からの帰り道に、

「ここは遠いなぁ、次はカンタラの傍のナンタラの湯がええなぁ」と言った。

感覚というものは本当にそのつど違うものだと感心した。

先週と同じように同じくらいに家を出て、同じ高速道を走って、

同じくらいの時間にその温泉に着いたけど、

義父の中ではまるで違った。

遠くから来た久しぶりの息子を温泉に連れて行ってやりたい、ご馳走もしたい、

・・という気持ちが強かったのかと思った。

なので、まだかまだかと温泉に着くのを待っていたんじゃないかと思った。

まだかまだかと待っているとなかなか着かないと感じるのは、

ここでも何回か書いてるけど、そんなことかなと思った。

実際義父がそう思っていたかどうかはわからないけどね。


ツナミちゃん ②

2013-01-20 15:32:35 | ひとの幸福
前にツナミちゃんというネーミングだったか、ここに書いた。

今、探して来たよ、コレ。

「防潮堤は津波からその地域の住民を守る為に設置されているものだけど、

言い方を変えれば、津波を「ここからは入らないで下さい」と

拒否、拒絶しているものと言える。

波という目に見える海水は防潮堤という目に見える物に拒否され、反発する。

人間の場合も、ひとから拒否された時、

頭に来て、八つ当たりしてしまう、ということもある。

もう一人のツナミちゃんは、

ひとが拒否の気分でツナミちゃんに接しても、

拒否と受け取らず、

「何を言っているのかな、何をしたいのかな」と受け取る。

拒否の気分でツナミちゃんに向かったひとは、

その拒否気分がしゅーっと消えてしまう。

そういうこともある。」

・・・コレなんだけど、ここで云ってる人間のツナミちゃんという現象は、

もしかして『正しい認識』釈迦の云う『見ない』ではないかな・・・


ひとが拒否の気分で・・・、とこの時は書いたけど、

それは攻撃とか、否定的意識と言ってもいいな。

それがツナミちゃんには見えない。

攻撃的意識、それが究極の在りようではないものなので。

ひとが自分を責めて(攻めて)来たときに、

(責められた)と認識するのは正しい認識だ、というのは高速思考かな。

「何を言ってるのかな、何をしたいのかな」と受け取ったツナミちゃん・・とコレに書いている。

これはなんなのか??見えないからこそ、何?という?が生まれる。

見えない、見ないということは自分の中に(責める)それが無いということを示している。

究極的な在りようからは究極的な在りようしか見えない。


「見るもの聞く声みな楽しく美しく飽くるを知らず・・」

という山岸さんの文章が云っているのも同じ内容だろうと思う。

そのような境地(究極的な在りよう)からはそのように見える。

正しい認識 ★・・・ ②

2013-01-20 10:39:12 | 本を読んで
見られる側が、これはなんだろう???という邪心のないまなざし

(釈迦の云う『見ない』)

を感じても消えない・無くならないのは、

対象物が究極的な在りようのものだろう。

例えば、ひとに100%親切な気持ちで何かしているときに、

「これはなんなんだろう???」と邪心なく見つめられても

その現象は消えないと思う。

親切な気持ちで何かしてるその人の中にも邪心が無いからじゃないか。

赤ちゃんが昼日中井の頭公園で裸でいて、

ひとからなんだろう?と観られてもその現象は消えないだろう。

あの時空での性器出し男は邪心無く見つめられて、

自分で性器をズボンの中にしまった(その現象が消えた)のは、

その男が自分に邪心が在ることをわかっていたからだろう。

そしてそれが在ることを恥ずかしく思ったのではないか・・・

だからこそ、公園で性器をズボンに入れた。


“見ない”ことをしたので、見えなくなった。


邪心が元々のひとに在る性質、究極的な在りようではないからこそ、

自発的、自動的に消えるのかと思う。

仏陀の言う、これ・・・

「正しい認識が対象物を見たなら、

それが「ある」という定義であり、

正しい認識が対象物を見出さなかったなら、

それが「ない」という定義であるとされています。」

(この「ある」「ない」は究極的にという意味で)

・・この言葉がよくわかる例かと思う。



そして、又

その邪心のないまなざしという現象は自性によって成り立ったものじゃない。

その人の外部からなんの影響も受けずに、

たった一人でそうなったわけではないから。

『共に』というなり方でそうなったもの。

そういうなり方しかないから。




正しい認識って・・・★

2013-01-20 10:09:42 | 本を読んで
・・・もうちょっと考えたい。

釈迦の『見ないことが、究極のありようを見たことである』という言葉についての解釈でこういう表現があった。

「正しい認識が対象物を見たなら、それが「ある」という定義であり、

正しい認識が対象物を見出さなかったなら、

それが「ない」という定義であるとされています。」

(この「ある」「ない」は究極的にという意味で)

“正しい認識”とはどういうことか・・・

このブログの何日か前に空の本質やら空の見解というタイトルで引用した例題で考えると、

昼日中大勢の人が居る井の頭公園の中での性器出し男という現象を、

どう認識するのが正しい認識なのか。

よくある高速思考では、「その行為はよろしくない」という認識かと思う。

なにをするのもその人の自由なのだからという理由で「その行為はよい」という認識も、

上に書いた認識と似たり寄ったり。同じ。そう思う。

(よろしくない)という否定認識が成り立つのは、

その行為・現象が究極的に存在するという認識が予めあるという前提がある。

存在するからこそ否定できる。

無いものは否定できない。

そこに花が無いのに、綺麗じゃないとは否定できない。

そこに在るからこそ否定できる。

否定も肯定も全く同じ。無い花を綺麗だと肯定も出来ない。

その性器出し男現象を存在すると認識するから、否定も肯定も出来る。

・・と考えるとやはり、“否定も肯定もない”認識を正しい認識という・・のか。

でもこれは認識というネーミングが相応しいんだろうか?


そのように認識している状態の意識の在りよう・・というふうが相応しい感じがしてしまう。

その瞬間において、そういうふうに認識している“心の状態で在る”から、

その時空での性器出し現象を「これはなんなんだろう???」と認識する。

う~ん、この方がぴったり来るなぁ。


スペースシャトル チャレンジャーの事故

2013-01-19 08:48:49 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞の天声人語みたいな欄に、

ボーイング787の事故についてが載っていた。

アメリカのナサの1986年のスペースシャトル事故について、

物理学者のファインマンがこう言ったそう。

「技術が成功するためには体面より現実が優先されなければならない。

なぜなら、自然はだましおおせないからだ。」

ロケットのある部分の部品は気温が低いと弾力を失って、

爆発の可能性があると、現場では以前から知られていたのに、

それを使ったよう。

ナサの安全意識の欠如をファインマンは批判したらしい。

“自然はだましおおせない”・・・このことが云っているのは・・

自然の在りようというのは全て相互関連作用で起こるということ。

その部品一つが“原因”で爆発したとは言えない。

気温以外にもいろいろな条件が一致した時にその部品は有効な働きをするのだろう。

その条件のうち一つでも欠けていたら、ロケットは飛ばない。

その部品も含め、すべてがそのように調和したときそのように飛ぶ。

全て相互作用がうまいこと一致した時に成功する。

自然界はそうなっている。すべて相互関連作用によって起こる。

それを自然はだましおおせない、と表現したのだろうかと思う。

「体面(顕在意識)より、現実が優先されなければならない」を読んで、

湯川博士の、「現実のほかにどこに真実があるかと問うなかれ。

真実はやがて現実になるのである。」

この文章を思い浮かべてしまった。


自転車操業

2013-01-18 10:31:35 | ひとの幸福
格差社会を生む、独り占めできるシステムになっている一番の基は、

空を空と見ない“意識の在りよう”から来ている、と思う。

今の世界を見ると本当に矛盾だらけで、

こちらを立てればあちらが立たず、

こう解決しようとしてそうすると、別の問題がまた発生する。

根本的な解決にまだ至ってない。

エントロピー増大の法則によって、どんどん世界がそうなって行くのと同時に、

細胞が次々新しいものに入れ替わる・脱皮のような・

意識の在りようが変わってる・成長している・・・

そういう自転車操業をこの世界もやっている。






自我

2013-01-18 10:01:08 | ひとの幸福
「空の智慧」の本にこんな言葉があった。

我執とは自我に実体があるという間違った考え方にとらわれている心であり、

無知、無明を意味している・・・というもの。

この場合の自我って、パーソナリティとか、自分の思考と解釈していいと思うけど、

そういうものにも実体はないということだろう。

全ての現象は空であるのだから。

自性で成り立ったものではない最たるものが自我だと思う。

人間界の現象が結果として出来ているのは、人間の思考が基なので、

目に見えない自我が実体のないものなら、当然目に見える現象も実体がないのは道理だ。

どの人のどんな思考もその人一人でそう思うようになったわけじゃない。

ブログでいろんな文章書いているけど、

私一人でこんな思考をするように“なった”わけじゃない。

なんだか、書くのが好きという性向も私が何かしたせいじゃないし、

本を読みたく“なる”といった気持ちもなんだか知らないうちにそうだった。

今までの人生で出会った人たち、本たち、たくさんの言葉、世界の在りよう、

そんなもので私の思考は作られている。

自性で成り立ったものなんか一つもない。

幸福になるのによい思考、良くない思考、みんなそうだ。


私は・・・から始まるのは割と穏やかモードだけど、

私がっ!・・・というのは何か強い、突っ張るものがある。

自分が何か思っている時、自分の神経に緊張感が走るような、

反対意見は言わせないわよっ!みたいな、

そんな思考って自我が実体のあるかのように勘違いしている状態なのかなと自分の経験で思う。

そんなふうに勘違いしてる思考もまた、

自分一人で成り立ったものじゃない。

なので、個の自分を責めたりするのは間違っている。

けど、自分を責めてしまう気持ちが起こるのも自分一人でなったわけじゃない。

こういうことが心底納得できたその瞬間は気持ちが明るくなる。

究極の在りようを納得できるとひとは明るくなる。

何故か、そうなっている。




分際

2013-01-17 15:22:54 | 本を読んで
植物や動物はニッチ、分際をかたく持って生きている。

それは全体で秩序だった世界を作れてしまうという生命の在りようが在るから。

福岡伸一ハカセの本にはそんな例がいっぱい出ている。

或る虫はナンタラ草という草しか食べない、また別の虫はカンタラ草しか食べない、

そんなふうにどの虫も何故だかそうなっているので、飢え死にする事も無く続いている。

いくつかの種類の草を食べるという虫も在るだろうし、

いろいろなんだろうとは思うけど。

共に生きる、ということを当たり前にしている。

生命はそうなっているから、当然そうなる。

人間だけが共に生きていることを忘れ、分際以上のことをして生態系を壊してしまう。


なんでそういうことになったのだろう・・・

悪意で、生態系を壊したくて壊したんじゃないと思う。

物事の究極の在りようとは共に生きている、そのこと。

そういう表現も出来る。

共に生きているという究極の在りようで在ったら、継続して生きられる、

という原則を知らぬ間に忘れた。

やってきたことの結果は自分に降りかかってくるというのも、

法則通り。

共に生きて来なかったから、生きることを継続できないような状態になりつつある。

でも、やってみて気づく人たちがこの地球上に

たくさん現れて来ているのが今の時代なのかと思う。