コロナの広がりに対して、「許さん」という言葉が思い浮かんだので探していたら、下記の話が目に留まった。
『正文遺韻抄』の262,263頁である。
これは、『正文遺韻』では、291、292頁で、板倉先生の別席傍聴漫筆として記されている。
読みやすいように、4行目から書き換えておく。
「思い事を叶えてくれたら、これだけの事をします」というのは、世界並みの悪人でも、そのくらいの誓いはする。神様のお道を聞いた者が、そんな事では、助かる事はでけん。
しかるに、おたすけをさせてもらうもの、取り次ぐものからして、「今度、誰それは、あれは、あれだけの真実を定めたから、三日の中にはおたすけ下さるやろ」などと言うて、喜んでいる。ちょうど、道を知らんもの同志が、寄って話合っているようなもの。神が働くに、働けんとおっしゃる。
「尽くしたものに食べさしたら、内のものは増えるで。尽くしもせぬものに食べさしたら、減るぞよ」と仰せられた。
「助けてもらいたいという心あって、たすけたいという心がないから、助かる事がでけん。なんぼ話を聞いても、都合の良い事は守る。心に会わん事は、理は分かりながら、心でひねりつぶしているから、
たすからん。知らん間は、許しても置くけれど、知りながら守らにゃ、どうあっても許せんで」とおっしゃる。
人を助けたいというのに、難儀、苦労をいとうて(嫌って)いるような事では、助けられようか。人を助けるというには、危ない所も、難儀なところも、苦労もいとわず、かからにゃならん。そうして、かかったところで、その心の誠を、親さん(教祖)は受け取って下さるからして、難儀して、果てそうなところも、助けて下さる。ちょうど、茨の中も、渕中も、いとわず、人を助けるなら、神様が自由用下されて、けがや過ちもないけれど、自分ばかり、楽な道を通りたい、と言うて、大道の良い道を通り、たまさか(思いがけず)、ふと小石にけつまずいて、けがをしたり、道端の花に、心を奪われて、踏みかぶったりするのも同じ事。
「人は一代、名は末代。効能残すで、名という。一人散財、大嫌い」と仰せられた。
さて、これを見て、皆さん方はどのように感じられるでしょうか。
「なんぼ話を聞いても、都合の良い事は守る。心に会わん事は、理は分かりながら、心でひねりつぶしているから、たすからん。知らん間は、許しても置くけれど、知りながら守らにゃ、どうあっても許せんで」
という意味の言葉は、おさしづによく出てきます。
またここに、「名は末代」との言葉が出てきます。
そして、「人は一代、名は末代。効能残すで、名という。一人散財、大嫌い」という言葉を見ると、この名というのは、後世までも語り継がれる、人の名のように、私は思います。自分のために散在するのではなく、人助けのために散在する事で、効能を頂ける。とも思います。
親神様のざんねんはらしは、まだまだのように思えて来ています。
どうか、大難は小難にとお守りください。