あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

公刊本おさしづより  2 婦人会創設 6

2018年10月25日 05時33分01秒 | 図書室

婦人会創設に関するおさしづ 6

(6)
明治31年3月30日   (4巻2934頁)
『前日おさしづの婦人会内の事情に付一同話しの上願』
(364)さあ/\何を聞いて居るのぞ。さしづ裏返して了うたる。(365)さあ/\、詳しい聞かねば分からんで。(366)前々さしづの理にも、男女の隔て無いという理は、重々の理に諭したる。(367)それ/\も聞いて居るやろ。男より未だも治まりて居る人体を、どう取って居るぞ。(368)女でも席をさすとまで言うたる。(369)筆に落ちたのか。心に思い違いしてるのか。(370)さあ今日の日の道具、今日から今日に道具になるか。(371)悪るなったら取り換える道具でも、使え慣れるまで一寸には行こまい。(372)皆同じ道に尽して、(373)一人は遅れ居たか、(374)よう/\席を運ぶようになったやろ。(375)女でも理さえ治まりてあれば、どんな事でも出けるで/\。(376)この道、男だけで、女は世界へ出さんのか。(377)婦人会という、一日の日を以て研究さしてみよ。出けるか出けんかさしてみよ。

『増井りんの事で御座りますや』
(378)口出したら言うて聞かそ。(379)めん/\皆それ/\同じ道の者であって、すっきり言わにゃ分からん。(380)赤衣の中に皆籠りある。(381)赤衣は俺も貰うて居ると言うやろ。(382)前々危なき処、始め掛けた中の赤衣という中に籠りある。(383)違うや違うと言え。
(384)さあ/\外には沢山ある。枝先にも多分あるわい。(385)この中に何も分からん先から楽しんだ。(386)山坂を越えて、遥々運んだ存命の間に、言い交わしあろ。よう聞き分け。(387)何でも未だ分からん/\のやない。(388)心に分かりありても、人間の義理を思うから違うのや。(389)そこで、一寸刻限以て始め掛けた。(390)三名は稽古さし、三名の中その日といえば、控えとした一人があろ。(391)よう思やんしてみよ。(392)飯炊きや、掃除番と同じ理に、日々諭す理と言えるか。(393)さあ何ぼ年限経って長いといえど、(394)前々よりさしづに及んだる。(395)物によって、三尺の道具要るのに、一寸の道具では間に合うまい。(396)道具と言えば同じ一つの名なれど、(397)三尺の道具と一寸の道具と、同じ一つの用に使われるか。(398)一寸は一寸の用、三尺は三尺の用に使わにゃなろまい。(399)このやしき皆それ/\の理によりて伝わりたる。(400)このやしき、あれは何をして居るのやなあと言うても、理は潰されようまい。(401)伝える理によってだん/\日を送る。(402)一戸の内に諭しても分かるやろ。(403)水も同じ事。汲めば飲める。(404)親があって子という。子は何人あれど皆可愛もの。(405)なれど、どんならにゃならんように片付ける。(406)中に出直す者もある。(407)我が子であってまゝにならん。(408)出すにも出せん、切るにも切られん。あんな者は何処へなっとと思えど、(409)真の理は切れるか。(410)この理から取ってみよ。


【(6)大意 】

「おさしづと婦人会」p38~42

明治31年3月30日   (4巻2934頁)
『前日おさしづの婦人会内の事情に付一同話しの上願』
(364)さあさあ、お前たちは何を聞いているのか。まるで神の思いを逆に受け取ってしまっているではないか。(365)神の説くことを、(366)詳しく聞かないことには、正しく理解することはできない。前に諭した指図でも、男女の隔てはないということは、くり返し説いたところである。(367)みなもそれぞれ聞いているであろう。男よりはるかに心の治まっている者がいるが、それをお前たちはどう考えているのか。
(368)神は女でも別席の取り次ぎをさせるとまで言ってある。(369)それを書き落としたのか。それとも思い違いをしているのか。どうなのか。
(370)たとえ、今日使う道具であっても、今日から直ぐに使いよい道具になるかというと、そうはいかない。(371)悪くなれば、すぐに取りかえるような道具であっても、使いなれるまでには日がかかり、簡単にはいかない。
(372)女でも、みなと同じように、道の上に真実を尽くしていながら、(373)一人だけが遅れていたが、(374)ようよう別席の取り次ぎに出るようになったであろう。(375)たとえ、女であっても、神の理が心に治まっていたならば、どのような大切な事でもできるのである。
(376)お前たちは、この道は男だけの道で、女は世界だすけという用事には出さないというのか。(377)このたび婦人会ということを打ち出したが、この機会に、道の理を、よく研究させてみるがよい。できるか、できないか、とにかくやらせてみるがよかろう。

ーーー増井りんの事で御座りますやーーー
(378)お前たちが当人の名を口に出して言うのならば、なおも神の思いを聞かせよう。(379)各人それぞれ、みな同じように、この道を信じて通っている者ではあるが、神の思いをすべて言わないことには、真意がなかなかわからない。(380)その神の思いは、すべて赤衣の中に籠められているのである。(381)赤衣なら私も貰っているという者もあるであろう。(382)しかし、そうした赤衣ではなく、かなり前のこと、迫害や干渉のきびしい中、教祖がはじめて着たその赤衣の中にこそ、籠められているものである。(383)もし、それを違うという者があるならば、はっきりと言うがよい。
(384)さあさあ、赤衣は、ほかにも貰っている者が沢山あるであろう。国々先々の者にも多くいるであろう。(385)こうして、赤衣を貰った者の中に、赤衣に籠められている教祖の思いを聞きわけ、このさき、どうなるか何も分からない前から、この道の行く末を楽しみに通っている者もある。(386)教祖在世の時、山坂を越えて、はるばる「やしき」に運んだ者があったことは、互いに話し合ってもいるであろう。そのことをよく聞きわけなければならない。
(387)それより長い年月が経った今、教祖の教えがいまだに判明らないということはないであろう。(388)心の中では十分に判明っていても、とかく人間の義理を思うために、神の思いと喰い違ってくるのである。(389)そこで今のこの旬に婦人会を始めたのである。
(390)かつて、(明治十年には)三名の者に鳴物の稽古をさせ、三名の中でその日に都合のつかない者も出るであろうからというので、控えとして定めた一人の者があろう。(391)そのことをよく思案をしてもらいたい。(392)ところが、その者たちを飯炊きや、掃除番と同じように扱っていたのでは、日々神が諭している理に添っていると言えるのかどうか。(393)いくら信仰してきた年限が長いといっても、神が諭したことを守らなかったならば何にもならない。(394)そのことは前々から指図してきたところである。
(395)ものによっては三尺の道具が必要であるのに、そこへ一寸の道具をもってきたのでは、まったく役に立つまい。(396)道具と言えば、同じ道具という名であっても、(397)三尺の道具と一寸の道具とでは、同じ一つの仕事に使うことはできない。(398)一寸は一寸の用、三尺のものには三尺の用というように、用向きに応じて道具も使いわけなければならないであろう。
(399)このやしきにいる者は、みなそれぞれ神の思惑があって、今日まで勤めきているのである。(400)このやしきの中にも、あの人はいったい何をしているのであろうか、というような目立たぬ用事をしている者もいるが、それも神の思いからのものであって、その理をないがしろにしてしまうことはできない。
(401)この点を伝えることによって、今日まで通ってきているのである。(402)それは一軒の家の中にたとえて諭してもわかることである。(403)水も同じ事で、汲んでこそ飲むことができる。つまり、神が諭すところも、進んで求めてこそ治まってくるものであるから、よく聞きとるがよい。今話した一軒の家にたとえていうと、(404)親があるからこそ子供がある。子供というものは幾人いようが、親にとってはみな可愛いものである。(405)しかし、たとえ可愛い子供であっても、どうしようもないような子であったならば、そのような扱いをしがちである。(406)中には、親の思いに反して、出直す者もいる。(407)
このように、たとえ我が子であっても、親の思い通りにはならないものである。(408)出すにも出せない、切るにも切ることができないのが親子というものである。あんな者はどこへなりと行ってしまってくれればと思っても、(409)親子の真実の理は決して切れるものではない。(410)この理合いをもとにして、(やしき内にいる者は、たとえ、どんな者であろうと、神の思いがあって勤めているのであることを)よく思案をしてもらいたい。

 
 

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