惜しいというほこりは、
治めねばならぬものを惜しいと思い、かやさねばならぬものを惜しいと思い、人に貸す事を惜しいと思い、ぎりをするものを惜しいと思い、人に分配する事を惜しいと思い、難渋に施すものを惜しいと思い、人のために暇を費やすのを惜しいと思い、
すべて出すべきものを惜しいと思うはもちろん、人の助かる事、人のためになる事に費やす物事を惜しいと思う心がほこりでございます。
又、身惜しみと言う、横着な心も惜しいのほこりと聞かせて頂きます。この惜しいという心がありますから、人を助けるということもできません。返すものはだんだん延びる、返礼は薄くなる、納めねばならぬ金銭も怠る、義理を欠く、人が物を貸してくれと言えば、あるものも無いと言ったり、空いているものもふさいでいると言ったりして、うそをつくようになる。こうなれば、だんだん恩を重ねるばかりで、人には悪く言われ、けちんぼなどとそしられて、人のほこりのためにもなります。
また、出すものは出し、やるものはやりながらも、この惜しいという心のために、理を失ってしまう事がしばしばあります。例えば、人に物をやっても、もっと少しにすればよかったと思ったり、神様へお供えしてもああ惜しい、お供えしなければよかったと思ったり、物を買いましてもせんど値切って、向こうが負けると言うと、もっと値切ってやればよかったと思ったり、惜しいけれども義理で仕方がないと思って出したりする事がしばしばありましょう。
こういう心遣いでは、せっかく出しながら、心で取り返してしまう理で、何にもなりません。そこで神様は、そういう心を出すものは、人は受け取っても、天が受けとらんと聞かせられます。丁度、種をまいてすぐ掘り返しているようなもので、労して功なしでございます。そしてまた、事によっては、大層惜しいと思いますが、惜しいと思っても取り返しがつきません。そして惜しい惜しいの心が残念となり、心の悔やみとなって、ついに気が狂ったり、病が出たりする事も、しばしばあることでございます。
これは、惜しいという凡人の心のために、我がと我が身を殺すものと言わなければなりません。また、身惜しみ、骨惜しみという事も同じことで、例えば、どのような勤めをしているとしても、心で満足せず、つらい、うたてい(方言?)と思って嫌々(いやいや)した分には、天のお受け取りはございません。すなわち、労して功なしで、やはり恩を被るような理になります。そういう心遣いである者は、人のいる前では働くような振りをして、人のいない所ではなまくらをするに違いありません。そんなものが、人のためになる事が出来そうな事はありません。いささかな骨折りで人の喜ぶことや、または、物が粗末になる事があっても、だれかがするだろうと思って放っておく。ちょっと一足そこへ出て、捨てて来れば片付く事でも、不精にして、放っておいて、だれかしてくれるだろうと思っている。互いにそういう心では横着の勉強をしているようなものです。
人間というものは、心も体も動かさずにはおられないものです。働いて楽しむように出来ています。それなのに、心が不精になり、身が横着になりますと、神様のご守護も不精になり、横着になります。一時によい働きをしようと言ったとしても出来そうなはずはございません。一生「使いにくい人や、頼みにくい人や」と言われて、のらりくらりして果ててしまって、この次の世に持ち越す理は、恩をきた理ばかりでございます。横着の心というものは出易いものですから、よくよく注意をしなければなりません。
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