あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

天理教教典 第7章 かしもの・かりもの

2021年12月17日 11時21分16秒 | 天理教教典

裁定文・目次

第七章 かしもの・かりもの

  たいないゑやどしこむのも月日なり
  むまれだすのも月日せわどり          六 131

 人体のこの精巧な構造、微妙な機能は、両親の工夫で造られたものでもなければ、銘々の力で動かせるものでもない。すべては、親神の妙なる思わくにより、又、その守護による。

  にんけんハみな/\神のかしものや
  なんとをもふてつこているやら         三 41
  にんけんハみな/\神のかしものや
  神のぢうよふこれをしらんか          三 126

 この世に生れさせて頂き、日々結構に生活しているのも、天地抱き合せの、親神の温かい懐で、絶えず育まれているからである。即ち、銘々が、日々何の不自由もなく、身上をつかわせて頂けるのも、親神が、温み・水気をはじめ、総てに亙つて、篤い守護を下さればこそで、いかに己が力や智慧を頼んでいても、一旦、身上のさわりとなれば、発熱に苦しみ、悪寒に悩み、又、畳一枚が己が住む世界となつて、手足一つさえ自由かなわぬようにもなる。ここをよく思案すれば、身上は親神のかしものである、という理が、自と胸に治る。

  めへ/\のみのうちよりのかりものを
  しらずにいてハなにもわからん         三 137

 銘々の身上は、親神からのかりものであるから、親神の思召に隨うて、つかわせて頂くのが肝腎である。この理をわきまえず、我が身思案を先に立てて、勝手にこれをつかおうとするから、守護をうける理を曇らして、やがては、われと我が身に苦悩を招くようになる。これを、

  人間というは、身の内神のかしもの・かりもの、心一つ我が理。     (明治二二・六・一)

と教えられている。

  人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る。どんな理も受け取る中に、自由自在という理を聞き分け。    (明治二二・二・一四)

  自由自在は、何処にあると思うな。めん/\の心、常々に誠あるのが、 自由自在という。       (明治二一・一二・七)

 即ち、身の内の自由がかなうのも、難儀不自由をかこつのも、銘々の心遣い一つによつて定まる。それを、心一つが我の理と教えられる。
 しかるに、人は、容易にこの理が治らないままに、あさはかな人間心から、何事も自分の勝手になるものと思い、とかく、己一人の苦楽や利害にとらわれて、一れつの和楽を望まれる親心に、もとる心を遣いがちである。親神は、かかる心遣いを、埃にたとえて、戒められている。
 元来、埃は、吹けば飛ぶほど些細なものである。早めに掃除さえすれば、たやすく綺麗に払えるが、ともすれば積りやすくて、油断をすれば、いつしか、うずだかく積りかさなり、遂には、掃いても拭いても、取り除きにくくなるものである。

  よろづよにせかいのところみハたせど
  あしきのものハさらにないぞや         一 52
  一れつにあしきとゆうてないけれど
  一寸のほこりがついたゆへなり         一 53

 心遣いも、銘々に、我の理として許されてはいるが、親神の心に添わぬ時は、埃のように積りかさなり、知らず識らずのうちに、心は曇つて、本来の明るさを失い、遂には手もつけられぬようになる。かかる心遣いをほこりと教えられ、一人のほこりは、累を他に及ぼして、世の中の平和を紊すことにもなるから、常によく反省して、絶えずほこりを払うようにと諭されている。
 このほこりの心遣いを反省するよすがとしては、をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまんの八種を挙げ、又、「うそとついしよこれきらい」と戒められている。
 親神は、これらの心遣いをあわれと思召され、身上や事情の上に、しるしを見せて、心のほこりを払う節となし、人々を陽気ぐらしへと導かれる。

  せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ
  神がほふけやしかとみでいよ          三 52
  めへ/\にハがみしやんハいらんもの
  神がそれ/\みわけするぞや          五  4
  めへ/\の心みのうちどのよふな
  事でもしかとみなあらわすで         一二 171
  これみたらどんなものでもしんぢつに
  むねのそふちがひとりてけるで        一二 172

 即ち、いかなる身上のさわりも事情のもつれも、親神がほおきとなつて、銘々の胸を掃除される篤い親心のあらわれと悟り、すべて、現れて来る理、成つて来る理をよく思案するならば、自と、心のほこりを払うようになる。かくして、ほこりさえ綺麗に掃除するならば、あとは珍しいたすけに浴して、身上は、病まず弱らず、常に元気に、守護頂ける。

  ほこりさいすきやかはろた事ならば
  あとハめづらしたすけするぞや         三 98

 しかるに、人は、心の成人の未熟さから、多くは定命までに身上を返すようになる。身上を返すことを、出直と仰せられる。それは、古い着物を脱いで、新しい着物と着かえるようなもので、次には、又、我の理と教えられる心一つに、新しい身上を借りて、この世に帰つて来る。

  きゝたくバたつねくるならゆてきかそ
  よろづいさいのもとのいんねん         一  6

 人間には、陽気ぐらしをさせたいという親神の思いが込められている。これが、人間の元のいんねんである。
 しかるに、人間は、心一つは我の理と許されて生活すうちに、善き種子もまけば、悪しき種子もまいて来た。善き事をすれば善き理が添うて現れ、悪しき事をすれば悪しき理が添うて現れる。
  世界にもどんないんねんもある。善きいんねんもあれば、悪いいんねんもある。   (明治二八・七・二二)

 およそ、いかなる種子も、まいてすぐ芽生えるものではない。いんねんも、一代の通り来りの理を見せられることもあれば、過去幾代の心の理を見せられることもある。己一代の通り来りによるいんねんならば、静かに思い返せば、思案もつく。前生いんねんは、先ず自分の過去を眺め、更には先祖を振り返り、心にあたるところを尋ねて行くならば、自分のいんねんを悟ることが出来る。これがいんねんの自覚である。
 親神が、種々といんねんを見せられるのは、それによつて人々の心を入れ替えさせ、或は勇ませて、陽気ぐらしをさせたい、との篤い親心からであつて、好ましからぬいんねんを見せられる場合でさえ、決して、苦しめよう困らせようとの思召からではない。いかなる中も、善きに導かれる親心にもたれ、心を治めて通るならば、すべては、陽気ぐらしの元のいんねんに復元されて、限りない親神の恵は身に遍く、心は益々明るく勇んで来る。
 人の幸福は、その境遇に在るのではなく、人生の苦楽は、外見によつて定るのではない。すべては、銘々の心の持ち方によつて決まる。心の持ち方を正して、日々喜び勇んで生活すのが、信心の道である。
 即ち、身上かしもの・かりものの理をよく思案し、心一つが我の理であることを自覚して、日々常々、胸のほこりの掃除を怠らず、いかなる場合にも、教祖ひながたを慕い、すべて親神にもたれて、人をたすける心で通るのが、道の子の心がけである。そこには、自他の心を曇らす何物もなく、ただ、親神の思召のままに生活させて頂き、連れ通り頂いている喜びがあるばかりである。

  このよふハ一れつハみな月日なり
  にんけんハみな月日かしもの          六 120

 

裁定文・目次

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天理教教典 第6章 てびき

2021年12月17日 11時19分25秒 | 天理教教典

裁定文・目次

第六章 てびき

 人は皆、苦しみを厭い、楽しみを求め、悩みを避け、喜びを望む。親神が、陽気ぐらしをさせたいとの思召で、人間世界を造られたからである。
 しかるに、世には、病苦にさいなまれ、災厄におそわれ、家庭の不和をかこち、逆境にもだえるなど、その身の不幸をなげいている人が多い。それは、親神を知らず、その深い親心を知らないからである。
 親神は、一れつ人間の親におわす。しかるに、人は、この真実を知らず、従つて、互にひとしく親神を親と仰ぐ兄弟姉妹であることも知らずに、銘々が勝手に生きているように思いあやまり、われさえよくばの我が身思案や、気ままな行をして、他の人々の心を傷つけ曇らし、世の親和を害ない紊しているばかりでなく、それがために、己れ自らの心をも傷つけ曇らせていることを気附かずにいる。

  月日にハたん/\みへるみちすぢに
  こわきあふなきみちがあるので         七  7
  月日よりそのみちはやくしらそふと
  をもてしんバいしているとこそ         七  8

 親神は、知らず識らずのうちに危い道にさまよいゆく子供たちを、いじらしと思召され、これに、真実の親を教え、陽気ぐらしの思召を伝えて、人間思案の心得違いを改めさせようと、身上や事情の上に、しるしを見せられる。

  なにゝてもやまいいたみハさらになし
  神のせきこみてびきなるそや          二  7
  せかいぢうとこがあしきやいたみしよ
  神のみちをせてびきしらすに          二 22

 即ち、いかなる病気も、不時災難も、事情のもつれも、皆、銘々の反省を促される篤い親心のあらわれであり、真の陽気ぐらしへ導かれる慈愛のてびきに外ならぬ。
 しかるに、親神の深い心を知らぬ人々は、ただ眼前の苦しみや悩みに心を奪われて、ややもすれば、あさはかな人間思案から、人を怨み、天を呪い、世をはかなみ、或は理想を彼岸に求めたりする。

  にんけんもこ共かわいであろをがな
  それをふもをてしやんしてくれ        一四 34
  にち/\にをやのしやんとゆうものわ
  たすけるもよふばかりをもてる        一四 35
  一れつのこどもハかわいばかりなり
  とこにへたてわさらになけれど        一五 69
  しかときけ心ちがゑばせひがない
  そこでだん/\ていりするのや        一五 70

 親神は、これらの人々に、隔てない切々の親心を明かし、人間の我が子を慈しむ親心に照して、よく思案をするがよいと、いとも懇に教えられている。
 およそ、人の親にして、我が子を愛しないものはない。子の行末を思えばこそ、時には、やむなく厳しい意見もする。この切ない親心がわかれば、厳しいうちにも慈しみ深い親神の心尽しの程がくみとられて、有難さが身にしみる。
 ここに、かたくなな心は開かれ、親神の温かい光を浴びて、心はよみがえる。そして、ひたすら、篤い親心に添いきる心が定る。かくて、真実に心が定れば、親神は、すぐとその心を受け取り、どんな自由自在の理も見せられる。親神は、それを待ちわびておられる。

  しんぢつに心さだめてねがうなら
  ちうよぢざいにいまのまあにも         七 43
  いまゝでハとんな心でいたるとも
  いちやのまにも心いれかゑ          一七 14
  しんぢつに心すきやかいれかゑば
  それも月日がすぐにうけとる         一七 15

 しかし、人間心のはかなさは、折角、てびきを頂いて、心を定めても、時がたてば、一旦定めた心もいつのまにか動いて、形ばかりの信心におち、知らず識らずのうちに、又もや、親心に反する心を遣うたり、行をしたりして、しかも、気附かずにいる場合が多い。

  神の自由して見せても、その時だけは覚えて居る。なれど、一日経つ、 十日経つ、三十日経てば、ころつと忘れて了う。
         (明治三一・五・九)

と示されている所以である。故に、

  日が経てば、その場の心が弛んで来るから、何度の理に知らさにゃならん。
           (明治二三・七・七)

と仰せられ、ともすれば弛みがちな心をはげまして、なおも心の成人を促される上から、信心するうちにも、幾度となく、身上や事情の上に、しるしを見せ、心を入れ替える節を与えられる。この篤い親心を悟つて、益々心を引きしめて通つてこそ、生涯変らぬ陽気づくめの理を見せて頂ける。
 かくて、教の理が胸に治り、心が次第に成人するにつれて、大難は小難に、小難は無難に導かれる親心が、しみじみと感じられて、今まで喜べなかつたことも、心から喜べるようになり、今まで楽しめなかつたことも、心から楽しめるようになる。
 陽気づくめの境地への力強い足どりが、こうして進められてゆく。

  しやんして心さためてついてこい
  すゑハたのもしみちがあるぞや         五 24

 

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天理教教典 第5章 ひながた

2021年12月17日 10時48分55秒 | 天理教教典

裁定文・目次

第五章 ひながた

 教祖は、口や筆で親神の教を説き明かされると共に、身を以てこれを示された。この道すがらこそ、万人のひながたである。
 教祖は、寛政十年四月十八日、前川半七正信の長女として生れ、名をみきと申される。
 幼少の頃から、慈悲と同情の心に篤く、又、深く道を求め、世塵を脱けて、生涯を信仰に捧げたい、と熱願されたが、奇しきいんねんの理によつて、大和国山辺郡庄屋敷なる、中山氏という元のやしきに迎えられ、善兵衞の妻となられた。
 以来、益々信心の道に心を磨かれると共に、人の妻として、忠実やかに夫に従い、両親に仕え、家人をいたわり、篤く隣人に交り、又、家業に精を出された。かくて、慈悲と同情の天禀は、愈々深められ、高められて、よく怠者を感化し、盗人を教化されたばかりでなく、自分を無きものにしようとした者に対してすら、その罪を責めることなく、我が身の不徳のいたすところとして、自然のうちにこれを徳化せられた。又、 預つた乳児が病んだ時には、我が子、我が身の命を捧げ、真心をこめ、命乞をして、瀕死の児を救われた。
 天保九年十月二十六日、齢四十一歳を以て、月日のやしろと召されてからは、貧に落ち切れ、との思召のままに、貧しい者への施しにその家財を傾けて、赤貧のどん底へ落ち切る道を急がれた。
 この行は、家人や親戚知人に、理解され難く、厳しい忠告や激しい反対のうちに、十数年の歳月を重ねられた。かかるうちに、夫は出直し、一家は愈々どん底へと向つたが、この大節のさなかに、一身一家の都合を越えて、同年、末女こかんを大阪に遣し、天理王命の神名を流された。
 このように、常人の及ばぬ信念は、却つて人々の冷笑を呼び、離反を招いて、遂には、訪ねる者もなく、親子三人で食べるに米のない日々を過された。父なき後、一家の戸主となつた秀司は、青物や柴の商によつて、日々の生計をはかつた。しかも、教祖は、かかる中にも、人の難儀を見ては、やつと手にした米を、何の惜気もなく施された。
 或る年の秋祭の日に、村の娘たちが、今日を晴れと着飾つて、嬉々としているのに、娘盛のこかんは、晴着はおろか着更さえもなくて、半分壊れた土塀のかげから、道行く渡御を眺めていたこともある。又、夏になつても吊るに蚊帳なく、冬は冬とて吹きさらしのあばら屋に、あちらの枝を折りくべ、こちらの枯葉をかき寄せては、辛うじて暖をとり、点す油にこと欠く夜は、月の明りを頼りに、糸つむぎなどして過されたこともある。
 十年に亙る長い年月の間、かかる窮迫の中にも、教祖は、常に明るい希望と喜びとをもつて、陽気ぐらしへの道を説かれた。そして、時には、水と漬物ばかりで過されながら、「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんというて、苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」と、子達を励まされた。
 月日のやしろとなられてから、このようにして二十余年を過されたが、やがて、をびや許しによつて示された珍しいたすけが、道あけとなり、教祖を生神様として慕い寄る者が、近郷一帯にあらわれた。教祖は、これらの人々に、病の元は心からと教え、不思議なたすけを示されたことは数知れぬほどで、不治といわれた難病も、教祖の前には決して不治ではなかつた。盲人もその場で眼を開き、気の狂うた人も、すきやかに正気に復した。
 かくて、輝かしい道の黎明は訪れたが、それは又同時に、新な苦難への門出でもあつた。嫉妬、猜疑、無理解から起る弁難攻撃、或は又、白刃を抜いての乱暴狼藉などが、それであつた。かかる煩わしい生活に明け暮れされたが、教祖は、益々心勇み、陽気なかぐらづとめを教え、てをどりの手をつけられた。まことに、そこには、過去三十年に亙つてなめられた苦難の陰影はなく、又、白刃の下をくぐられた酷しい日々の片影さえも窺えない。ただ、一れつの子に、親神の胸のうちを知らせよう、との親心あるばかりである。
 更に、筆をとつて、たすけづとめのしんである人間宿し込みのぢばと、かんろだいの理を明かし、つとめの人衆について教え、なお、証拠まもりや、いき・てをどりのさづけを渡すなど、たすけ一条の道を示された。
 かかる中にも、厳寒酷暑を問わず、十数度に余る獄舎への御苦労が続いたが、聊かもこれを意にかけず、ひたすら、疑い深く理解の鈍い人心を教化しようと、日夜、手を尽し心を砕き、或は温かく或は鋭く、折にふれ、人に応じて導かれた。
 かように行き届いた導きによつて、教は、大和はもとより、五畿内から関東、東海に伸び、山陽、四国に及んだ。かくて、教祖を慕う白熱の信仰は、人々の足をぢばへぢばへと運ばせたが、なおも、教祖は、親神の思召のまにまに、終始、かぐらづとめを急き込まれた。
 しかし、迫害は歳を追うて激しさを加え、つとめすることは、直に、教祖の獄舎への御苦労となつたが、教祖は、何処においでになつても、平常と少しも変られないばかりか、これを、却つて、表に出るとか、働きに行くとか仰せられて、迎えの役人を、やさしく労われた。
 かかる態度によつて仕込みを受けた人々は、このひながたを慕うて、たすけ一条の上には、我が身どうなつてもと、勇み立つたが、高齢の教祖に、これ以上の御苦労をかけるには忍びなかつた。
 かくて過ぎゆくうちに、明治十九年陰暦十二月八日、教祖の身に異状がうかがわれた。この時、「これは世界の動くしるしや」と仰せになつたが、人々は、どうした親神の思召であろうかと、憂慮のうちに種々と協議を重ね、心の練合いに日を過した。そして、一同の協議に上つた問題で、思案に余る困難な事情を悉く披瀝して、十数度に亙り、繰り返し繰り返し、押しての願を以て理を伺つた。これに対して示された思召は、常に一貫して、たすけづとめの急き込みで、

  さあ今と言う、今と言うたら今、抜き差しならぬで。承知か。

と、厳しい言葉で、のつぴきならぬ重大時機の迫つている事を暗示された。そして又、

  心定めの人衆定め。事情無ければ心が定まらん。胸次第心次第。

と、己が身上を台として、一同の決心を促し、

  さあ/\実があれば実があるで。実と言えば知ろまい。真実というは火、水、風。
  さあ/\実を買うのやで。価を以て実を買うのやで。

とて、胸のおき処を諭された。
 かくも明確に思召を承りながら、直につとめにとりかかれなかつたのは、徹し切れない人間心のはかなさとはいえ、教祖の身にふりかかる御苦労を、気遣うたからである。
 その年も暮れ、明けて明治二十年陰暦正月二十五日にいたつて、気分甚く勝れられず、どうしたことかと思召を伺えば、

  さあ/\すっきりろくぢに踏み均らすで。さあ/\扉を開いて/\、 一列ろくぢ。さあろくぢに踏み出す。さあ/\扉を開いて地を均らそうか、扉を閉まりて地を均らそうか/\。

との仰せであつた。真意を解しかねた一同が、扉を開く方が陽気でよかろうとの思いから、扉を開いてろくぢにならし下されたいと申上げると、

  一列に扉を開く/\/\/\。ころりと変わるで。

と仰せられた。
 明くれば二十六日、教を開かれた元一日の縁の日であり、しかも、つとめを急き込まれることが、極めて急であるので、今は、最早や躊躇している場合でないと、一同深く心に決して、万一に備える準備を整え、常になく鳴物までもいれて、つとめにかかつた。
 教祖は、休息所にやすまれながら、この陽気なかぐらづとめの音を聞かれ、いとも満足げに見うけられたが、北枕で西向のまま、静かに眠りにはいられた。齢、正に九十歳。
 教祖は、現身の寿命を二十五年縮めて、姿をかくされたが、魂は永久に元のやしきに留り、存命のまま、一れつ子供の成人を守護されている。

  にんけんをはじめたをやがも一にん
  どこにあるならたつねいてみよ         八 75

 

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天理教教典 第4章 天理王命

2021年12月17日 10時41分24秒 | 天理教教典

裁定文・目次

第四章 天理王命  

 親神を、天理王命とたたえて祈念し奉る。
 紋型ないところから、人間世界を造り、永遠にかわることなく、万物に生命を授け、その時と所とを与えられる元の神・実の神にています。
  このよふのにんけんはじめもとの神
  たれもしりたるものハあるまい       三 15
  どろうみのなかよりしゆごふをしへかけ
  それがたん/\さかんなるぞや       三 16
 親神は、人間世界の根本にていまし、この世を創められたばかりでなく、この世の有りとあらゆるもの、悉く、その守護によらぬものとてはない。しかも、その自由の守護の程は、眼に、身に、心に、ありありと、 感じることが出来る。まことに、元の神・実の神にています。
 即ち、天では月日と現れ、さやけくも温かい光をもつて、余すくまなく、一れつにこの世を照らされる。
  このよふのぢいと天とハぢつのをや
  それよりでけたにんけんである       一〇 54
 人は、天地の間に生を享け、至妙な自然の調和の中に生存している。遍く月日の光を身に頂いているように、隔てなく天地の恵に浴している。天地は月日の理で、人は、天地抱き合せの、親神の懐に抱かれて、限りない慈しみのまにまに生活している。
  このよふのしんぢつのをや月日なり
  なにかよろづのしゆこするぞや       六 102
 親神は、元初りに当り、親しく、道具、雛型に入り込み、十全の守護をもつて、この世人間を造り、恆にかわることなく、身の内一切を貸して、その自由を守護し、又、生活の資料として、立毛をはじめとし、万一切を恵まれている。
 その守護の理は、これに、神名を配して、説きわけられている。

  くにとこたちのみこと 人間身の内の眼うるおい、世界では水の守護の理。
  をもたりのみこと 人間身の内のぬくみ、世界では火の守護の理。
  くにさづちのみこと 人間身の内の女一の道具、皮つなぎ、世界では万つなぎの守護の理。
 月よみのみこと 人間身の内の男一の道具、骨つっぱり、世界では万つっぱりの守護の理。
 くもよみのみこと 人間身の内の飲み食い出入り、世界では水気上げ下げの守護の理。
 かしこねのみこと 人間身の内の息吹き分け、世界では風の守護の理。
 たいしよく天のみこと 出産の時、親と子の胎縁を切り、出直の時、息を引きとる世話、世界では切ること一切の守護の理。
 をふとのべのみこと 出産の時、親の胎内から子を引き出す世話、 世界では引き出し一切の守護の理。
 いざなぎのみこと 男雛型・種の理。
 いざなみのみこと 女雛型・苗代の理。

 即ち、親神天理王命の、この十全の守護によつて、人間をはじめとし、万物は、皆、その生成を遂げている。
  たん/\となに事にてもこのよふわ
  神のからだやしやんしてみよ          三 40・ 135
 この世は、親神の身体であつて、世界は、その隅々にいたるまで、親神の恵に充ちている。そして、その恵は、或は、これを火・水・風に現して、目のあたりに示し、又、眼にこそ見えぬが、厳然たる天理として、この世を守護されている。即ち、有りとあらゆるものの生命の源であり、一切現象の元である。
 実に、この世は、理ぜめの世界であつて、一分のすきもなく、いささかの遺漏もない。天地自然の間に行われる法則といわず、人間社会における秩序といわず、悉く、奇しくも妙なる親神の守護ならぬはない。
  このせかい一れつみゑる月日なら
  とこの事でもしらぬ事なし         八 51
  月日よりみなそれ/\とみさだめて
  善とあくとをみハけするぞや        八 52
 親神は、人の心はもとより、総てを見ぬき見透し、善悪共に見分けて、思召のままに守護されている。
  にんけんのわが子をもうもをなぢ事
  こわきあふなきみちをあんぢる       七  9
  それしらすみな一れハめへ/\に
  みなうゝかりとくらしいるなり       七 10
  このせかいなにかよろづを一れつに
  月日しはいをするとをもゑよ        七 11
 しかも、親神は、どこまでも、一れつ子供を愛撫される親にています。しかるに、この親心を悟らず、天地を無視し、己が力を過信して、我ままな心を遣い、得手勝手な行をしているのは、万一切を支配し、総てを見ぬき見透されている親神の眼から見れば、あたかも独り歩きする幼児のようで、これほど危いことはない。
  どのよふなくどきはなしをするのもな
  たすけたいとの一ぢよばかりで        七 26
  一れつのむねのうちよりしんぢつに
  はやくわかりた事であるなら         七 27
  それからハ月日よろづのしはいする
  なにかよろづのたすけするぞや        七 28
 親神は、これをあわれと思召し、種々言葉を尽して、一れつたすけの限りない親心を明かし、よろづいさいの真実を教えて、自由自在の珍しい守護を見せられる。
  月日にハせかいぢううハみなわが子
  かハいいゝばいこれが一ちよ        一七 16
 親神は、人間の実の親にています。親神は、ただ一すじに、一れつの子供に陽気ぐらしをさせたいと望ませられ、教祖をやしろとして表に現れ、元初りのいんねんあるぢばにおいて、たすけ一条の道を啓かれた。
 ぢばは、天理王命の神名を授けられたところ、その理を以て、教祖は、存命のまま、永久にここに留り、一れつを守護されている。
  どのよふなたすけするのもしんちつの
  をやがいるからみなひきうける        七 101
 実に、天理王命、教祖、ぢばは、その理一つであつて、陽気ぐらしへのたすけ一条の道は、この理をうけて、初めて成就される。
  あしきをはらうてたすけたまへ
  てんりわうのみこと

裁定文・目次

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天理教教典 第3章 元の理

2021年12月17日 10時33分31秒 | 天理教教典

裁定文・目次

第三章 元の理

 親神は、陽気ぐらしを急き込まれる上から、教祖をやしろとして、この世の表に現れた、奇しきいんねんと、よふきづとめの理を、人々によく了解させようとて、元初りの真実を明かされた。

 この世の元初りは、どろ海であつた。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。
 そこで、どろ海中を見澄されると、沢山のどぢよの中に、うをとが混つている。夫婦の雛型にしようと、先ずこれを引き寄せ、その一すじ心なるを見澄ました上、最初に産みおろす子数の年限が経つたなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた。
 続いて、乾の方からしやちを、巽の方からかめを呼び寄せ、これ又、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試し、その性を見定めて、これ等を男一の道具、及び、骨つっぱりの道具、又、女一の道具、及び、皮つなぎの道具とし、夫々をうをとに仕込み、男、女の雛型と定められた。いざなぎのみこと いざなみのみこととは、この男雛型・種、女雛型・苗代の理に授けられた神名であり、月よみのみこと くにさづちのみこととは、夫々、この道具の理に授けられた神名である。
 更に、東の方からうなぎを、坤の方からかれいを、西の方からくろぐつなを、艮の方からふぐを、次々と引き寄せ、これにも又、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試された。そして夫々、飲み食い出入り、息吹き分け、引き出し、切る道具と定め、その理に、くもよみのみこと かしこねのみこと をふとのべのみこと たいしよく天のみこととの神名を授けられた。
 かくて、雛型と道具が定り、いよいよここに、人間を創造されることとなつた。そこで先ず、親神は、どろ海中のどぢよを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされた。そして、月様は、いざなぎのみことの体内に、日様は、いざなみのみことの体内に入り込んで、人間創造の守護を教え、三日三夜の間に、九億九万九千九百九十九人の子数を、いざなみのみことの胎内に宿し込まれた。それから、いざなみのみことは、その場所に三年三月留り、やがて、七十五日かかつて、子数のすべてを産みおろされた。
 最初に産みおろされたものは、一様に五分であつたが、五分五分と成人して、九十九年経つて三寸になつた時、皆出直してしまい、父親なるいざなぎのみことも、身を隠された。しかし、一度教えられた守護により、いざなみのみことは、更に元の子数を宿し込み、十月経つて、これを産みおろされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて三寸五分まで成人して、皆出直した。そこで又、三度目の宿し込みをなされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて四寸まで成人した。その時、母親なるいざなみのみことは、「これまでに成人すれば、いずれ五尺の人間になるであろう」と仰せられ、につこり笑うて身を隠された。そして、子等も、その後を慕うて残らず出直してしもうた。
 その後、人間は、虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、又もや皆出直し、最後に、めざるが一匹だけ残つた。この胎に、男五人女五人の十人ずつの人間が宿り、五分から生れ、五分五分と成人して八寸になつた時、親神の守護によつて、どろ海の中に高低が出来かけ、一尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も、漸く区別出来るように、かたまりかけてきた。そして、人間は、一尺八寸から三尺になるまでは、一胎に男一人女一人の二人ずつ生れ、三尺に成人した時、ものを言い始め、一胎に一人ずつ生れるようになつた。次いで、五尺になつた時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになつた。
 この間、九億九万年は水中の住居、六千年は智慧の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みと仰せられる。

    月日よりたん/\心つくしきり
    そのゆへなるのにんけんである     六 88

 

  このよふのしんぢつの神月日なり
  あとなるわみなどふくなるそや       六 50
  にんけんをはぢめよふとてたん/\と
  よせてつこふたこれに神なを        六 51

 この世の元の神・実の神は、月日親神であつて、月様を、くにとこたちのみこと 日様を、をもたりのみことと称える。あとなるは皆、雛型であり、道具である。更に申せば、親神は、深い思召の上から、その十全の守護を解りやすく詳しく示し、その夫々に神名をつけられたのである。

  しかときけこのもとなるとゆうのハな
  くにとこたちにをもたりさまや      一六 12

 思えば、親神は、この世人間を造られたばかりでなく、長の歳月、限りない親心をもつて、その成人を守護し、時に応じて旬々の仕込みをなされた。人類の成人とその文化の発達とは、悉く親神の篤い守護による。

  月日にわせかいぢううをみハたせど
  もとはじまりをしりたものなし      一三 30
  このもとをどふぞせかいへをしえたさ
  そこで月日があらわれてゞた       一三 31

 親神は、この真実を明かし、一れつ人間に陽気ぐらしへの道を教えようとて、教祖をやしろとして表に現れられた。即ち、最初産みおろしの子数の年限が経つた暁は、元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようとの、元初りの約束に基く。

  にんけんをはじめだしたるやしきなり
  そのいんねんであまくたりたで       四 55
  このよふをはぢめだしたるやしきなり
  にんけんはじめもとのをやなり       六 55
  月日よりそれをみすましあまくだり
  なにかよろづをしらしたいから       六 56

 親神は、この約束により、人間創造の母胎としての魂のいんねんある教祖を、予めこの世に現し、宿し込みのいんねんある元のやしきに引き寄せて、天保九年十月二十六日、年限の到来と共に、月日のやしろに貰い受けられた。この人と所と時とに関するいんねんを、教祖魂のいんねんやしきのいんねん旬刻限の理という。

  この月日もとなるぢばや元なるの
  いんねんあるでちうよぢさいを       八 47
  このはなしなんでこのよにくどいなら
  たすけ一ぢようけやうのもと        八 48

 かくて、親神は、教祖の口を通して、親しく、よろづいさいの真実を明かされた。それは、長年の間、一れつ人間の成人に応じて、修理肥として旬々に仕込まれた教の点睛である。即ち、ここにいよいよ、親神直直のだめの教が垂示された。けだし、十のものなら九つまで教え、なお、明かされなかつた最後の一点、元の親を知らして、人類に、親神の子供たるの自覚を与え、一れつ兄弟姉妹としての親和を促し、親子団欒の陽気ぐらしの世と立て替えようとの思召からである。これを、

  このよふを初た神の事ならば
  せかい一れつみなわがこなり        四 62
  せかいぢう神のたあにハみなわがこ
  一れつハみなをやとをもゑよ        四 79
  せかいぢういちれつわみなきよたいや
  たにんというわさらにないぞや      一三 43

と教え、更に又、

  月日にわにんけんはじめかけたのわ
  よふきゆさんがみたいゆへから      一四 25
  せかいにハこのしんぢつをしらんから
  みなどこまでもいつむはかりで      一四 26
  このさきハせかへぢううハどこまでも
  よふきづくめにみなしてかゝる      一〇 103

と仰せられている。陽気ぐらしこそ、人間生活の目標であり、理想である。これを実現しようと、よふきづとめを教えて、たすけ一条の道をつけられた。よふきづとめの理は、実に、この元初りの真実による。

  ちよとはなしかみのいふこときいてくれ
  あしきのことはいはんでな
  このよのぢいとてんとをかたどりて
  ふうふをこしらへきたるでな
  これハこのよのはじめだし

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天理教教典 第2章 たすけ一条の道

2021年12月17日 10時31分27秒 | 天理教教典

裁定文・目次

第二章 たすけ一条の道

  月日にハせかいぢうゝハみなわが子
  たすけたいとの心ばかりで           八  4

 親神は、一れつの人間に、陽気ぐらしをさせたいとの親心から、教祖をやしろとして表に現れ、よろづいさいの真実を明かして、珍しいたすけ一条の道を教えられた。

  つとめてもほかの事とわをもうなよ
  たすけたいのが一ちよばかりで        一六 65

 この親心から、よろづたすけの道として教えられたのが、つとめ一条である。

  このよふをはじめかけたもをなぢ事
  めづらし事をしてみせるでな          六  7

  このよふをはじめてからにないつとめ
  またはじめかけたしかをさめる         六  8

 このつとめは、親神が、紋型ないところから、人間世界を創めた元初りの珍しい働きを、この度は、たすけ一条の上に現そうとて、教えられたつとめである。即ち、これによつて、この世は、思召そのままの陽気な世界に立て替つてくる。

  つとめでもどふゆうつとめするならば
  かんろふだいのつとめいちゞよ        一〇 21


 このつとめは、かんろだいをしんとして行う。

  にんけんをはじめかけたるしよこふに
  かんろふたいをすゑてをくぞや        一七  9

 かんろだいとは、人間宿し込みの元なるぢばに、その証拠としてすえる台で、人間の創造と、その成人の理とを現して形造り、人間世界の本元と、その窮りない発展とを意味する。

  しんぢつのつとめの人ぢう十人の
  心を神がうけとりたなら            六 18

  それからハどのよな事もたん/\と
  神のをもわくみなときゝかす          六 19

  にち/\に神の心わせゑたとて
  人ぢう十人そろいなけねば           六 20

 このつとめは、又、かぐらづとめとも教えられ、親神の創造の理をかたどり、選ばれた十人のつとめ人衆が、夫々、面をつけ、歌に調子を合せて、奏でる九つの鳴物の調べに心を揃え、親神の守護の理を手振にあらわしてつとめる。実に、かぐらづとめは、人間創造の元を慕うて、その喜びを今に復えし、親神の豊かな恵をたたえ、心を一つに合せて、その守護を祈念するつとめである。

  みなそろてはやくつとめをするならバ
  そばがいさめバ神もいさむる          一 11

 つとめ人衆が、親神にもたれ、呼吸を合せてつとめる時、その心は、自と溶け合うて陽気になり、親神の心と一つとなる。この一手一つに勇む心を受け取つて、親神もまた勇まれ、神人和楽の陽気がここに漲る。

  またさきのよふきづとめをまちかねる
  なんの事ならかぐらつとめや          四 29

 かぐらづとめは、又、よふきづとめとも仰せられる。まことに、よふきづとめは、親神の思召さながらの陽気をたたえて、その成就を祈願するつとめである。

  どのよふなたすけするのもみなつとめ
  月日ゆうよにたしかするなら          七 83

  しんぢつの心あるなら月日にも
  しかとうけやいたすけするぞや         七 84

 つとめ人衆が、思召通りに陽気につとめる時、親神は、その真心を受け取つて、自由自在の守護を現される。

  このつとめせかいぢううのたすけみち
  をしでもものをゆハす事なり          四 91

  にち/\にはやくつとめをせきこめよ
  いかなるなんもみなのがれるで        一〇 19

  とのよふなむつかしくなるやまいでも
  つとめ一ぢよてみなたすかるで        一〇 20

 されば、よふきづとめは、又、たすけづとめとも教えられ、いかなる願もかなえられるつとめである。

  たすけでもあしきなをするまてやない
  めづらしたすけをもているから        一七 52

  このたすけどふゆう事にをもうかな
  やますしなすによハりなきよに        一七 53

 たすけづとめは、ただ、身上のさわりや、災難や、苦悩をたすけるつとめであるばかりでなく、進んでは、病まず、死なず、弱らない、珍しい守護をなされるつとめである。

  しんぢつの心しだいのこのたすけ
  やますしなずによハりなきよふ         三 99

  このたすけ百十五才ぢよみよと
  さだめつけたい神の一ぢよ           三 100

  そのゝちハやまずしなすによハらすに
  心したいにいつまでもいよ           四 37

  またさきハねんけんたちた事ならば
  としをよるめハさらにないぞや         四 38

 人々の心が澄みきつて、真実の心となつた暁には、たすけづとめによつて、甘露を授けられる。これを頂けば、人は、よく百十五歳の定命を保ち、なお、心次第によつては、いつまでも生きさせてやろうと教えられる。

  このつとめなにの事やとをもている
  せかいをさめてたすけばかりを         四 93

  はや/\と心そろをてしいかりと
  つとめするならせかいをさまる        一四 92

 このつとめは、人間個々の身上や事情に限らず、更に、豊かな稔りや平和の栄えなど、広く世界の上に、親神の恵を及ぼすつとめである。
 ここに、恵は遍く一れつに及び、人類は、ひとしく親神の子として、兄弟姉妹であることに目覚め、互に立て合い扶け合うて、世界は、一つ心の陽気ぐらしの世と立て替る。
 親神は、更に又、いき・てをどりのさづけによつて、身上たすけの道を教えられた。

  このさきハなんほむつかしやまいても
  いきとてをどりみなたすけるで        一二 50

  どのよふなむつかしくなるやまいでも
  これなをらんとゆうでないぞや        一二 51

 即ち、さづけは、親神が一名一人の心の真実を見定めて、たすけ一条のために渡される、こうのうの理である。人々が、授かつたその日の心を生涯の理に治めて、陽気普請のよふぼくとなり、天の理を取り次がせて頂くところ、親神は、願う心の誠真実を受け取り、自由自在の守護をもつて、いかなる難病をもたすけられる。さづけの理は、たすけ一条を誓う一日の日の真心に授けられる、生涯末代の宝であつて、この理をうけて、親神のよふぼくの馳せ巡るところ、広い世界に不思議なたすけは相ついで現れる。
 まことに、つとめとさづけとは、親神が、世界一れつに、陽気ぐらしをさせてやりたい、との切なる親心によつて教えられた、たすけ一条の道である。これによつて、病の根は切れ、あしきは祓われて、世界は陽気によみがえる。
 かくて、世界人類は、親神の篤き守護をたたえて、心ますます勇み、親神は、又、これを受けて、恵は、いよいよ深く、ここに、神人は共に和楽して、陽気溢れる世界が、この地上に実現される。

  あしきをはらうてたすけせきこむ
  いちれつすましてかんろだい

 

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天理教教典 第1章 おやさま

2021年12月17日 10時22分17秒 | 天理教教典

裁定文・目次

   第一章 おやさま

「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降つた。みきを神のやしろに貰い受けたい。」
とは、親神天理王命が、教祖中山みきの口を通して仰せになつた最初の言葉である。
 家人は、この思いがけぬ啓示にうち驚き、再三言葉を尽して辞退したが、親神は厳として退かれぬにより、遂に、あらゆる人間思案を断ち、一家の都合を捨てて、仰せのままに順う旨を対えた。
 時に、天保九年十月二十六日、天理教は、ここに始まる。

  よろつよのせかい一れつみはらせど
  むねのハかりたものハないから           一  1
  そのはづやといてきかした事ハない
  なにもしらんがむりでないそや           一  2
  このたびハ神がをもていあらハれて
  なにかいさいをといてきかする           一  3

 世界中の人間は、我が身思案に頼つて、心の闇路にさまようている。それは、元なる親を知らず、その心に触れぬからである。親神は、これをあわれに思召され、この度、教祖をやしろとして表に現れ、その胸のうちを、いさい説き聴かされる。

  いまなるの月日のをもう事なるわ
  くちわにんけん心月日や             一二 67
  しかときけくちハ月日がみなかりて
  心ハ月日みなかしている             一二 68

 教祖の姿は、世の常の人々と異るところはないが、その心は、親神の心である。しかし、常に、真近にその姿に接し、その声を聞く人々は、日頃の心安さになれて、その話に耳をかそうとしないばかりか、或は憑きものと笑い、或は気の違つた人と罵つた。
 かかる人々に、親神の教を納得させるのは、並大抵なことでなかつたとはいえ、教祖が月日のやしろにおわす真実を納得させずしては、いつまでも、たすけ一条の道は啓かれず、陽気ぐらしへの立て替えは望めない。されば、教祖は、頑是ない子供をはぐくみ育てるように、世の人々の身にもなつて、説き聴かせ、或は筆に誌し、又は、親神の自由自在の働きを目のあたり知らせ、身を以て行に示すなど、うまずたゆまず導かれた。
 教祖は、世界の子供をたすけたい一心から、貧のどん底に落ち切り、しかも勇んで通り、身を以て陽気ぐらしのひながたを示された。更に、親神が教祖をやしろとして、じきじき表に現れている証拠として、よろづたすけの道あけであるをびや許しをはじめとし、親神の守護を、数々、目のあたりに示して、疑い深い人々の心を啓かれた。
 更に、教祖は、

  このよふハりいでせめたるせかいなり
  なにかよろづを歌のりでせめ            一 21
  せめるとててざしするでハないほどに
  くちでもゆハんふでさきのせめ           一 22
  なにもかもちがハん事ハよけれども
  ちがいあるなら歌でしらする            一 23

とて、親神の思召を伝えられ、

  だん/\とふてにしらしてあるほどに
  はやく心にさとりとるよふ             四 72

と、後々繰り返し繰り返し思案させるよう、心を配られた。この事は、後日、

  これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた。         (明治三七・八・二三)

と仰せになつたように、おふでさきは、耳に聴くだけでは、とかく忘れがちになり易い人々の上を思い、筆に誌して知らされた親神の教である。そして、何人にも親しみ易く、覚え易いようにと、歌によせてものされたばかりでなく、屡々、譬喩を用いて理を説かれたのも、深い親神の思召を うなずき易く、理解し易いように、との親心からである。即ち、

  このさきハみちにたとへてはなしする
  どこの事ともさらにゆハんで           一 46
  やまさかやいばらぐろふもがけみちも
  つるぎのなかもとふりぬけたら          一 47
  まだみへるひのなかもありふちなかも
  それをこしたらほそいみちあり          一 48

と、神一条の道を進む者の道すがらを、山坂や、茨の畔などにたとえて、この道は、一時はいかに難渋なものであろうとも、一すじに親神にもたれて通り切るならば、段々、道は開けて、細道となり、遂には、たのもしい往還道に出られると、希望と楽しみとを与えて、励まされた。そして、自ら真先にかかる中を勇んで通り、陽気ぐらしのひながたを示された。
 又、人の心を水にたとえ、親神の思召をくみとれないのは、濁水のように心が濁つているからで、心を治めて、我が身思案をなくすれば、心は、清水の如く澄んで、いかなる理もみな映ると教えられた。そして、我が身勝手の心遣いを、埃にたとえては、親神をほおきとして、心得違いのほこりを、絶えず掃除するようにと諭された。
 更に又、陽気ぐらしの世界の建設を普請にたとえては、これに与る人達を、しんばしら、とうりやう、よふぼくなどと称んで、その持場々々の役割を示すなど、人々が容易に理解して、早く心の成人をするようにと心を尽された。
 このように、子供可愛い一条の親心から、譬喩を用いて分り易く教えると共に、いかにもして、親神の理を得心させたいとの思召から、初め、親神を神といい、次に月日と称え、更にをやと仰せられるなど、成人に応じ、言葉をかえて仕込まれた。
 即ち、神というては、この世を創めた神、元こしらえた神、真実の神などと、言葉をそえて親神の理を明かし、或は、 

  たすけでもをかみきとふでいくてなし
  うかがいたてゝいくでなけれど           三 45

と仰せられ、神というも、これまでありきたりの拝み祈祷の神でなく、この世人間を造り、古も今も変ることなく、人間の身上や生活を守護している真実の神であると教えられた。
 次いで、親神を月日と称え、目のあたり天に仰ぐあの月日こそ、親神の天にての姿であると眼に示して教え、世界を隈なく照し、温みと潤いとを以て、夜となく昼となく、万物を育てる守護を説き聴かせて、一層の親しみと恵とを感じさせるよう導かれた。それと共に、

  いまゝでも月日のやしろしいかりと
  もろてあれどもいづみいたなり           六 59
  このあかいきものをなんとをもている
  なかに月日がこもりいるそや            六 63

とて、赤衣を召されたのも、教祖が月日のやしろにおわす真実を、眼に示して納得させようとの思召からである。ここに、月日親神に対する信仰と、月日のやしろたる教祖への敬慕の心とが、次第に一つとなり、教祖の言葉こそ親神の声である、との信念を堅めるようになされた。
 更に又、

  いまゝでハ月日とゆうてといたれど
  もふけふからハなまいかゑるで           一四 29

とて、それから後は、をやという言葉で、親神を表し、

  にち/\にをやのしやんとゆうものわ
  たすけるもよふばかりをもてる           一四 35

と仰せられた。人間の我が子を慈しみ育てる親心によせて、親神は、ただに、神と尊び月日と仰ぐばかりでなく、喜びも悲しみもそのままに打ち明け、すがることの出来る親身の親であると教えられた。そして、一層切実に、親神への親しみの情を与えると共に、月日のやしろたる教祖こそ、まことに一れつ人間の親である、との信頼と喜悦の心を、たかめるように導かれた。
 このように、明かに、鮮かに、親神を信じることが出来るよう導かれたのであるが、なお、胸のわからぬ人々の心ない反対や、世間からのとめ立てが絶えず、それ故に、ふりかかる教祖の御苦労を思うては、時としてはためらい、時としてはまどう者もあつた。教祖は、これをもどかしく思い、ざんねん、りつぷくなどの言葉で厳しく急き込む半面、

  こらほどにさねんつもりてあるけれど
  心しだいにみなたすけるで              一五 16
  いかほどにさねんつもりてあるとても
  ふんばりきりてはたらきをする            一五 17

などと、温かい親心を宣べて、常に、子供達の心の成人の上に、心を配られた。
 かくて、教祖は、口に、筆に、又、ひながたによつて、種々と手を尽し、心を配つて教え導き、陽気ぐらしへのたすけ一条の道をはじめられた。更に、深い思わくから、親神天理王命の神名を、末代かわらぬ親里ぢばに名附け、又、一れつのたすけを急き込む上から、姿をかくして、存命のまま、恆に、元のやしきに留り、扉を開いて、日夜をわかたず守護され、一れつ子供の上に、尽きぬ親心をそそがれている。
 まことに、人は、ただ教祖によつて、初めて親神を拝し、親神の思召を知る。教祖こそ、地上の月日におわし、我等の親にてあらせられる。

  にんけんをはじめたしたるこのをやハ
  そんめゑでいるこれがまことや            八 37

 

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押せるのは、ひっぱる働きのお陰。。「おうとのべのみこと」

2021年12月15日 20時56分26秒 | おかきさげ

数日前からずっとこの事が頭の中で巡っている。

以前から思っていたのだが、確証となるものが見当たらなかったので、保留にしていたのだが、今日それがまとまった。

まず、親神様(天理王命)の守護には、引っ張る働きがある。

姿は「くろぐつな(黒蛇)」、神名は「おうとのべのみこと」、方角は「西」、天では「宵の明星・明けの明星(金星)」

そして、人間生まれる時には「子供を引き出す働き」、農作物・虫から動物に至るまで背が伸びる・成長するのもこの「引き出しの働き」と言われています。

引っ張る働きの反対は、押し出すと思ったのですが、その押し出すという働きが、十柱の神様には無くてずっと不思議でした。

私の周辺では押す事の方が、引くよりも多く目にしており、押すことが主のように思えていたのです。

 

ところが、先日パワーショベルを見ていて、油圧を思いました。

油圧は、油を押すことによって大きな力を出します。

 

けれども、この油圧、圧力をかける元はと考えると、引っ張っているのです。

シリンダーのピストンにロープをかけて引っ張ると、それによって中に圧力がかかるのです。

その圧力を油を介して他のピストンへ伝えて、強い押す力を出しているのです。

元は引っ張る力だとその時思いました。

 

人間の身体を見ても、筋肉は引っ張り合って、縮むことで動きます。

だから、動く元は引っ張る力が元だと思ったのです。

お産も、子どもが出ることを思うと、押し出されてくるように思えますが、今言った筋肉の収縮で押し出される事を思えば、引き出しのお働きなのです。

 

けれども、今一つ得心がいきませんでした。

それは、木や骨などの硬いものが立っていう場合はどうかと思っていたのです。

 

それが、今日、得心した事でした。

これは、地球が引っ張ってくれているから押し合えると思えたのです。

地球に引力がある事は、今では周知の事実です。

この引力によって引っ張られているから、ものが立ち、それが斜めになれば倒れ、それを支えるものがあれば、それらは押し合うのです。

この地面と物とが引き合わなければ、物はずれて支え合う事も出来ないのです。

 

もう一つ細かい所へ目を向けると、全ての物は分子で出来ているという事も、これも周知の事実です。

この分子、そして原子と電子。

これらを模型で見ると、丸いものの間に棒があって、押し合っているように見えますが、反対に引きあって一つのものになっています。

地球と月・太陽・金星・木星等などすべては、引き合って一つの惑星・銀河系・宇宙全体が作られているのです。

この引き合うバランスが安定しているかどうかで、さまざまな事が起きてくるのです。

 

地球上での硬いものに話しを戻すと、

引き合う分子が細胞となり、その細胞が引き延ばされて、増えて、固く安定したので、固い木や骨になったと言えるでしょう。

それが一つの支えとなり、引く力を押す力へと変換する道具となったと言えるのです。

 

そしてもう一つ、引力も引く力ですが、それに逆らって植物は育ちます。

これがまた、目に見えない引く力・働きです。

引力を超える引く力が、植物が育つ上には働いているという事です。

だから「おうとのべのみこと」は、農業の神様としても言われると思うのです。

 

また、これも、先ほど言った地球という土台となる、大きな引く力があればこその話なのです。

こう考えると、すべての力の元は、引く力。

「おうとのべのみこと」の働きです。

 

ところで、もう一つ、これは沢山おたすけをされた人の助け話に出てくることですが、

この「おうとのべのみこと」の嫌いなほこりの心遣いは、「こうまん」であるとの事です。

 

どうして、そのような悟りになるか、考えて見るのも良いかと思います。

 

今日はここまでにします。

何かの参考になれば幸いです。

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無事に納めの月次祭を終えました。

2021年12月13日 10時44分13秒 | 思った事

2021年12月12日

立教184年の納めの月次祭を無事に終えることが出来た。

おつとめは8人で勤めさせて頂く事が出来、おつとめ前に4人、そしておつとめ中に1人の方が参拝に来られてお帰りになった。合計で13人での月次祭だった。

この時しか会えない方もあり、皆無事に元気にいて下さる事をありがたく思った。

そして、干し柿をお供えした。

 

さらには、いつもは夜に来られる方が、朝に来られたので、おつとめ後の時間が空いた。

いつもならば、お下がりのお神酒を頂いてその方を待つのだが、何気にFacebookを開くと気になる書き込みがあった。

これはと思い、急遽連絡を取って見舞いに出かけた。

何とか御守護を頂いて頂きたいと思う。

 

来年は、熱田分教会の創立130周年を迎える年である。

うちのお許しいただいた日は、明治25年6月9日である。

そしてまた、来年、12日が日曜日になるのが、6月12日のみである。

そこで、相談をして、6月12日の月次祭を、記念祭としてつとめる事とした。

世の中がどのような状況になっているか分からないが、楽しみにしていきたいと思う。

 

今日は、月次祭の御礼とお下がり配りである。

今日も一日、出来る事を楽しんで生きたいと思う。

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これからおぢばへ行きますが。。誠ということ。

2021年12月07日 17時40分02秒 | 正文遺韻抄

支部例会が終わり、これからおぢばへ出かける。

その前に、今日の『復元』11号最後のページをアップしたら、「誠という事」というお話だった。

昔、書き換えをしたものがあったので、それと共にアップしておく。

参考になれば幸いです。

・・・・・・

誠ということ (『正文遺韻抄』p222現代文に書換)

 誠というは、口と心と手と、この三つが揃って、真の誠という。それ、いかほど口で、誠の話をするとしても、真の誠が治まれば、行いもそれに添って、それすること、なすこと、日々常に、いかなる事も、みな誠のようになるであろう。けれども、心に誠が治まらないと、それどうもならん。
 日々のすることなすことが、口で話した事と違うから、世界から「それ、あの人は口先ばかりうまい人や、言うことだけは、誠のようだけれども」などと言って、それ話の理を用いてくれないようになる。
 そこで、口と心と手と揃って、人々より「ああ成程の方やなあ。どうも感心な人やなぁ。頼もしい人やなぁ。」と言われるだろう。真の誠で、通ろうと思えば、そこで、一つたんのうという理を心に治めて、「我はどうでも、人さえよければ、わしはもう、これで結構や。たとえ、この上どのようになろうとも、人さえ助かってくれれば、それでよい。何でも、人に助かってもらわねばならん。」という心を定めねばならん。

・・・・・

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