震災から2ヶ月が過ぎた。
新聞によれば、避難者はなお11万7000人、被災42首長の66%が住民の生活再建の「めどが立っていない」と答えているという。
小中高校の200校以上が、全壊するなどして他校での間借り授業を続けている。
親兄弟、友人を失った子供たちは、どれほどいることだろう。
一方、我が家は、ナムリソタの学校もようやく始まり、やんちゃ娘はマイペースで勉強をしたりゲームをしたり、アルバイトにも精を出している。
なぜか、道路が込んでいるので、旦那が以前より朝早く出勤するようになったことと、スーパーが安売りをしなくなったくらいが変わっただけで、もう、すっかり日常が戻ってきている。
余震もずいぶん少なくなった。
家の隅々まで見渡せば、目立たないところに亀裂が走っていたりするけれど、床が傾いたわけでも、雨漏りがするわけでもなく、問題なく住めている。
3月11日14時46分の出来事が、夢のように遠く感じる。
でも、私の中の、何かが変わってしまった。
今日も昨日も、コーラスの練習をサボってしまった。
夕方になると、身体の芯の力が抜けてしまったように、身体がだるく重苦しくなる。
人に、会いたくない。
会えば、何気ないいつもの世間話をすることができるが、心の中は叫んでいる。
「違う、違う。そんな話をしたいんじゃない。」
今、こうしている間にも、福島の原発で、被爆をしながら原発事故と戦っている人たちがいる。自分の命を削りながら。
原発で、被爆をしながら清掃作業、点検作業をしている人たちがいる。自分の命を削りながら。
パソコンで電気を使っているくせに、食洗機を使っているくせに何を言うか。
そう、私には何もいう資格がない。
原発以外にも、粉塵作業とか、化学薬品を扱うとか、危険な仕事はたくさんあるだろう。科学に危険は付き物なのかもしれない。
でも、そういう人たちには、労働安全衛生法に定められた健康管理手帳というものが交付されて、離職後も国の責任で健康診断を受けることができることになっている。保障が、ある。
しかし、原発労働者は、それに含まれない。
仕事をすれば、必ず被爆し、健康を蝕まれ、命を縮めるというのに。
一般の人が一年間に浴びていい放射線が1ミリシーベルトなのに、なぜ原発の労働者は50ミリシーベルトなのだ?(今は、20ミリシーベルトに基準が下げられたのかもしれない。)
同じ身体じゃないか。
原発を今すぐ全部止めるわけには、いかないのかもしれない。
計画停電でさえ、経済に大きな影響を及ぼした。
だからって、人の命を縮めて発電することを続けていいんだろうか。
1万年も管理しなければならない、核のごみを生み出し続けていいんだろうか。
確かに、原発は僻地や過疎の町を救ったかもしれない。
立派な体育館や観光施設やさまざまな恩恵があっただろう。
だが、いつまでも続くわけではない。
いずれ、原発は廃炉になる。
しかも、簡単に取り壊すことができない。
発電しなくなった炉を、何十年も放射性物質を出さないように管理しなければならない。
ただお金がかかるようになった原発を抱える町に、国はお金を出し続けるのだろうか?
いや、いや、私が言っても、詮無いことだ。
わかっている。
だから、だまっているしかない。
でも、話していると、だれかれかまわずにぶちまけてしまいそうになる。
この間、とうとうこらえきれずに、旦那にぶちまけてしまった。
「そういうことは、俺に言っても無駄だよ。政治家に言わなくちゃ。」旦那は口論には乗らずに、口をつぐんだ。
そうだよね。わかってる。
東京まで行って、デモにでも参加するか。
無理無理、東京の母に会いに行く元気もないくせに・・・。
だから、こうやって、いつまでうつうつとしているんだろう。
こういうのを、原発うつって言うのかな。
そんな上等なものじゃないか。ただの、お怠けか。
昨日、福島の原子炉から煙が上がっていたという。
水を入れて冷却しているはずなのに、温度が上昇しているとも聞く。
菅さんが、浜岡原発を止めるなんてパフォーマンスで、政権の延命を図っているうちに、原子炉格納容器が爆発して、日本中が放射能で汚染されてしまったら、どうする気だろう。誰が責任を取るんだい。
言うても詮無いこと、か。
新聞によれば、避難者はなお11万7000人、被災42首長の66%が住民の生活再建の「めどが立っていない」と答えているという。
小中高校の200校以上が、全壊するなどして他校での間借り授業を続けている。
親兄弟、友人を失った子供たちは、どれほどいることだろう。
一方、我が家は、ナムリソタの学校もようやく始まり、やんちゃ娘はマイペースで勉強をしたりゲームをしたり、アルバイトにも精を出している。
なぜか、道路が込んでいるので、旦那が以前より朝早く出勤するようになったことと、スーパーが安売りをしなくなったくらいが変わっただけで、もう、すっかり日常が戻ってきている。
余震もずいぶん少なくなった。
家の隅々まで見渡せば、目立たないところに亀裂が走っていたりするけれど、床が傾いたわけでも、雨漏りがするわけでもなく、問題なく住めている。
3月11日14時46分の出来事が、夢のように遠く感じる。
でも、私の中の、何かが変わってしまった。
今日も昨日も、コーラスの練習をサボってしまった。
夕方になると、身体の芯の力が抜けてしまったように、身体がだるく重苦しくなる。
人に、会いたくない。
会えば、何気ないいつもの世間話をすることができるが、心の中は叫んでいる。
「違う、違う。そんな話をしたいんじゃない。」
今、こうしている間にも、福島の原発で、被爆をしながら原発事故と戦っている人たちがいる。自分の命を削りながら。
原発で、被爆をしながら清掃作業、点検作業をしている人たちがいる。自分の命を削りながら。
パソコンで電気を使っているくせに、食洗機を使っているくせに何を言うか。
そう、私には何もいう資格がない。
原発以外にも、粉塵作業とか、化学薬品を扱うとか、危険な仕事はたくさんあるだろう。科学に危険は付き物なのかもしれない。
でも、そういう人たちには、労働安全衛生法に定められた健康管理手帳というものが交付されて、離職後も国の責任で健康診断を受けることができることになっている。保障が、ある。
しかし、原発労働者は、それに含まれない。
仕事をすれば、必ず被爆し、健康を蝕まれ、命を縮めるというのに。
一般の人が一年間に浴びていい放射線が1ミリシーベルトなのに、なぜ原発の労働者は50ミリシーベルトなのだ?(今は、20ミリシーベルトに基準が下げられたのかもしれない。)
同じ身体じゃないか。
原発を今すぐ全部止めるわけには、いかないのかもしれない。
計画停電でさえ、経済に大きな影響を及ぼした。
だからって、人の命を縮めて発電することを続けていいんだろうか。
1万年も管理しなければならない、核のごみを生み出し続けていいんだろうか。
確かに、原発は僻地や過疎の町を救ったかもしれない。
立派な体育館や観光施設やさまざまな恩恵があっただろう。
だが、いつまでも続くわけではない。
いずれ、原発は廃炉になる。
しかも、簡単に取り壊すことができない。
発電しなくなった炉を、何十年も放射性物質を出さないように管理しなければならない。
ただお金がかかるようになった原発を抱える町に、国はお金を出し続けるのだろうか?
いや、いや、私が言っても、詮無いことだ。
わかっている。
だから、だまっているしかない。
でも、話していると、だれかれかまわずにぶちまけてしまいそうになる。
この間、とうとうこらえきれずに、旦那にぶちまけてしまった。
「そういうことは、俺に言っても無駄だよ。政治家に言わなくちゃ。」旦那は口論には乗らずに、口をつぐんだ。
そうだよね。わかってる。
東京まで行って、デモにでも参加するか。
無理無理、東京の母に会いに行く元気もないくせに・・・。
だから、こうやって、いつまでうつうつとしているんだろう。
こういうのを、原発うつって言うのかな。
そんな上等なものじゃないか。ただの、お怠けか。
昨日、福島の原子炉から煙が上がっていたという。
水を入れて冷却しているはずなのに、温度が上昇しているとも聞く。
菅さんが、浜岡原発を止めるなんてパフォーマンスで、政権の延命を図っているうちに、原子炉格納容器が爆発して、日本中が放射能で汚染されてしまったら、どうする気だろう。誰が責任を取るんだい。
言うても詮無いこと、か。