数日後
ジュンサンは穏やかな表情で眠っていた。
ユジンはもうすでに、ジュンサンとの時間が余りないことを感じ取っていた。
ジュンサンの手をそっと握る。
暖かい命の温もりが伝わってくる。
「もう逝ってしまうのね。」
ユジンの頬に一筋の涙が伝った。
「ユジン、泣いているのかい?」
「ううん、違うわ。
…だめね、嘘を言っても。ジュンサンには何でも分かってしまうんだから。」
「ユジン、僕は今とっても安らかな気持ちだよ。」
ジュンサンの瞳の色はとても穏やかだった。
「ユジン、もうすぐお別れだね。ユソンを生んでくれてありがとう。
ユジン、僕は君のことを幸せにしたいとずっと思ってきた。
僕では幸せにできないと君から離れたこともあった。
でもそれは間違いだったね。
幸せは明日の彼方にあるわけじゃない。
未来にあるわけでもない。今“このとき”にあるんだ。
今、こうして君と一緒に病気と闘って、ユソンに会うことができた。
僕は幸せだ。ユジン。
僕の人生を人は不幸だというかもしれない。
私生児として生まれ、二度の交通事故にあい、二度も記憶を失った。
建築家として視力を失うことは重大なことだ。
君と愛し合いながらも別れなければならないことも何度もあった。
でもね、ユジン、僕は今全てのことに感謝している。
こんな気持ちになるとは思わなかったよ。
辛かったことも、苦しかったことも全てのことが僕には必要なことだったんだと思えるんだ。
僕の四十年に満たない人生が、人の八十年に劣るとは思えない。
生まれて来て良かった。
ユジン、僕と一緒に生きてくれてありがとう。
離れている間も忘れないでいてくれてありがとう。
また生まれてくるときも僕といてくれる?」
「ええ、もちろんよ。」
「僕はもう君のこと何も心配していないよ。
ユソンを立派に育ててくれると信じている。
ユソンと二人でちゃんと生きていけると信じている。
ユジン、人間は苦難を乗り越えたときに強くなるんだね。
僕たちは二人で全て乗り越えてきた。
もう一人でも大丈夫だね。」
「ええ、そうね。
ビョルがお腹の中で死んでしまった時ジュンサンは言ったわ。
ビョルは私たちのために、私たちがどんなことでも乗り越えて進むことを教えてくれているんだよって。
…この後私たちのどちらかが死んでしまっても、もう一人がそれに負けずに人生を生き続けることができるようにって。」
「ああ、そうだったね。」
「私、ビョルの心臓がもう動いていないって見せられたとき、…」
ユジンは目に涙を湛えながら
「ジュンサンと二人で待ち望んでいた赤ちゃんが、ビョルが顔を見ることもできないままいなくなってしまうなんて、悲しくて、辛くて…」
ジュンサンはそっとユジンを抱き寄せた。
「ビョルはユソンだったのかもしれないわ。
まだ生まれてくる時じゃなかったのに、私たちのために来てくれたのね。」
「ユジン、ユソンを連れてきてくれる?顔が見たいんだ。」
顔が見たい。
ユソンとユジンの顔を一目だけでもいい、ジュンサンは強く願った。
視力のことは当の昔に諦めていた。
すでに生活には何の不自由もなくなっていた。
それでも別れの前に今一度ユジンの姿を命に刻み付けておきたかった。
ユジンが部屋を出るとミヒが廊下で待っていた。
「お母様…。
お父様をお呼びしていただけますか。
私も母に連絡してきます。」
「……ええ。」
部屋に戻るとジュンサンは目を閉じてベッドに座っていた。
「ジュンサン、ユソンを連れてきたわ。抱いてみる?」
ジュンサンはユジンのほうを向きながらゆっくりと目を開いた。
すると、ジュンサンは驚いたように目を見開いてユジンを見つめた。
「どうしたの?ジュンサン。」
「ユジン…、君の顔が見える…。どうして…?」
本当に見たいと強く願ったとき、不思議にも視力が回復していた。
あるいは…消える前の炎の揺らめきだったのだろうか。
翌日 朝
窓の外には雪が舞い降りてきていた。
「母さん、少し起こしてくれますか。雪が見たいんです。」
ミヒはベットを上げてジュンサンを起こしてやった。
「初雪ですね。
ユジン、ユソンを抱かせてくれる?
ユソン、雪は美しいね。
その中に冷たい厳しさを秘めているから美しいんだ。
全てのものを純白に染めてくれる。
ユソンも美しい人生を生きるんだよ。」
ジュンサンはユソンを愛(いとお)しそうに見つめていた。
ユソンをユジンに返すとジュンサンは横になった。
「ユジン、雪がきれいだね。
今日は初雪だけど積もりそうだね。
また一緒に雪遊びをしようね。」
ユジンは静かにうなずいた。
ジュンサンはユジンをじっと見つめた。
その姿を命に刻み付けるように。
そしてゆっくりと目を閉じた。
柔らかな冬の光を浴びて雪がきらきらと舞い降りていた。
その光がジュンサンの顔をやさしく包む。
まるで微笑んでいるような穏やかな…。
一度死んだ人間に再び会えるなどと、
誰が証明できるだろうか、と人は言うだろう。
もちろん物理的な証明は不可能かもしれない。……
生死を繰り返す生命の永続性―(中略)
それを否定してしまったら、
人生は一回きりのはかないものという
貧しく皮相的な人生観から
私達は永遠に逃れることができないのだ。
〔ジャズサックス奏者 ウェイン・ショーター〕
別れの後 終わり
ジュンサンは穏やかな表情で眠っていた。
ユジンはもうすでに、ジュンサンとの時間が余りないことを感じ取っていた。
ジュンサンの手をそっと握る。
暖かい命の温もりが伝わってくる。
「もう逝ってしまうのね。」
ユジンの頬に一筋の涙が伝った。
「ユジン、泣いているのかい?」
「ううん、違うわ。
…だめね、嘘を言っても。ジュンサンには何でも分かってしまうんだから。」
「ユジン、僕は今とっても安らかな気持ちだよ。」
ジュンサンの瞳の色はとても穏やかだった。
「ユジン、もうすぐお別れだね。ユソンを生んでくれてありがとう。
ユジン、僕は君のことを幸せにしたいとずっと思ってきた。
僕では幸せにできないと君から離れたこともあった。
でもそれは間違いだったね。
幸せは明日の彼方にあるわけじゃない。
未来にあるわけでもない。今“このとき”にあるんだ。
今、こうして君と一緒に病気と闘って、ユソンに会うことができた。
僕は幸せだ。ユジン。
僕の人生を人は不幸だというかもしれない。
私生児として生まれ、二度の交通事故にあい、二度も記憶を失った。
建築家として視力を失うことは重大なことだ。
君と愛し合いながらも別れなければならないことも何度もあった。
でもね、ユジン、僕は今全てのことに感謝している。
こんな気持ちになるとは思わなかったよ。
辛かったことも、苦しかったことも全てのことが僕には必要なことだったんだと思えるんだ。
僕の四十年に満たない人生が、人の八十年に劣るとは思えない。
生まれて来て良かった。
ユジン、僕と一緒に生きてくれてありがとう。
離れている間も忘れないでいてくれてありがとう。
また生まれてくるときも僕といてくれる?」
「ええ、もちろんよ。」
「僕はもう君のこと何も心配していないよ。
ユソンを立派に育ててくれると信じている。
ユソンと二人でちゃんと生きていけると信じている。
ユジン、人間は苦難を乗り越えたときに強くなるんだね。
僕たちは二人で全て乗り越えてきた。
もう一人でも大丈夫だね。」
「ええ、そうね。
ビョルがお腹の中で死んでしまった時ジュンサンは言ったわ。
ビョルは私たちのために、私たちがどんなことでも乗り越えて進むことを教えてくれているんだよって。
…この後私たちのどちらかが死んでしまっても、もう一人がそれに負けずに人生を生き続けることができるようにって。」
「ああ、そうだったね。」
「私、ビョルの心臓がもう動いていないって見せられたとき、…」
ユジンは目に涙を湛えながら
「ジュンサンと二人で待ち望んでいた赤ちゃんが、ビョルが顔を見ることもできないままいなくなってしまうなんて、悲しくて、辛くて…」
ジュンサンはそっとユジンを抱き寄せた。
「ビョルはユソンだったのかもしれないわ。
まだ生まれてくる時じゃなかったのに、私たちのために来てくれたのね。」
「ユジン、ユソンを連れてきてくれる?顔が見たいんだ。」
顔が見たい。
ユソンとユジンの顔を一目だけでもいい、ジュンサンは強く願った。
視力のことは当の昔に諦めていた。
すでに生活には何の不自由もなくなっていた。
それでも別れの前に今一度ユジンの姿を命に刻み付けておきたかった。
ユジンが部屋を出るとミヒが廊下で待っていた。
「お母様…。
お父様をお呼びしていただけますか。
私も母に連絡してきます。」
「……ええ。」
部屋に戻るとジュンサンは目を閉じてベッドに座っていた。
「ジュンサン、ユソンを連れてきたわ。抱いてみる?」
ジュンサンはユジンのほうを向きながらゆっくりと目を開いた。
すると、ジュンサンは驚いたように目を見開いてユジンを見つめた。
「どうしたの?ジュンサン。」
「ユジン…、君の顔が見える…。どうして…?」
本当に見たいと強く願ったとき、不思議にも視力が回復していた。
あるいは…消える前の炎の揺らめきだったのだろうか。
翌日 朝
窓の外には雪が舞い降りてきていた。
「母さん、少し起こしてくれますか。雪が見たいんです。」
ミヒはベットを上げてジュンサンを起こしてやった。
「初雪ですね。
ユジン、ユソンを抱かせてくれる?
ユソン、雪は美しいね。
その中に冷たい厳しさを秘めているから美しいんだ。
全てのものを純白に染めてくれる。
ユソンも美しい人生を生きるんだよ。」
ジュンサンはユソンを愛(いとお)しそうに見つめていた。
ユソンをユジンに返すとジュンサンは横になった。
「ユジン、雪がきれいだね。
今日は初雪だけど積もりそうだね。
また一緒に雪遊びをしようね。」
ユジンは静かにうなずいた。
ジュンサンはユジンをじっと見つめた。
その姿を命に刻み付けるように。
そしてゆっくりと目を閉じた。
柔らかな冬の光を浴びて雪がきらきらと舞い降りていた。
その光がジュンサンの顔をやさしく包む。
まるで微笑んでいるような穏やかな…。
一度死んだ人間に再び会えるなどと、
誰が証明できるだろうか、と人は言うだろう。
もちろん物理的な証明は不可能かもしれない。……
生死を繰り返す生命の永続性―(中略)
それを否定してしまったら、
人生は一回きりのはかないものという
貧しく皮相的な人生観から
私達は永遠に逃れることができないのだ。
〔ジャズサックス奏者 ウェイン・ショーター〕
別れの後 終わり