鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

昭和63年の記録

2020年07月17日 | 鳥海山
 このころはこういう事ばかりしていたようです。

8/13 鉾立山荘泊
佐藤與一氏と飲む。
(注:佐藤さんは当時の鉾立山荘の管理人、仕事が終わってから夜鉾立山荘に向かいます。)
8/14 7:20 鉾立発
御浜より山頂へ
キャベツ2ヶ
御札一式届ける
(注:山頂へはよく届け物をしました。根菜類はずしっと重いです。大根をリュックからはみ出してせって登ると降ってくる人たちから笑われました。)
山頂2:20発
御浜5:15発
鉾立 6:10着
與一氏の勧めにより鉾立泊
新潟・千葉の団体と飲む
8/15朝 影鳥海を見て後
6:15鉾立発
7:10酒田着
(s63)

 どうも飲んでばかりいたようです。御浜から朝帰り、出勤なんてこともよくやっていましたし、自宅から東雲荘まで一日二往復なんてこともやっていました。今はとてもできないですね。


横堂 最後の頃の姿

2020年07月16日 | 鳥海山
 アルバイトに行かない日は、天気が悪ければどこへも行かず、スキャナーに取り込んでもいない古い写真を引っ張り出していたら、なんと、かつて箸王子神社のあった横堂の崩壊前の写真が出てきました。
 上に横堂と書いてあります。ご覧の通り間を通り抜けていくようになっています。記録を見ると、1979年の10月となっています。このころは横堂はすでに無人です。この時は旧鳥海山荘の先から登りました。
 以前載せた横堂の建物と同じかどうかは不明です。でも、屋根が葺き替えられていて、小窓が付け加えているくらいで同じような気もするのですが。
 この時はここから新山まで行き、大平まで降りました。新山頂上で、七高山頂上にいる人と大声で会話したのをおぼえています。周りに人っ子一人いませんでしたから。今はそんなことする人いないでしょうが。
 本当は、大平口の蔦石坂を上ったところにあった反射板の写真を探していたのですが、見つけられませんでした。二枚向かい合わせに立っていて、強い風が吹くと、ゴーンと音がするものでした。いつのまにか撤去されていましたがいつ頃撤去されたのか記憶にありません。


カフェ・イン・ボトル

2020年07月15日 | 鳥海山
 鳥海山を覆うように雲がかかっていると数時間後には必ず雨になります。そんな状態から崩れた天気が続いています。古い葉書を整理していたら思い出しました。名前を忘れていたのですが、インターネットの発達した今、見つけることが出来ました。
 (写真は"はるのブログ"さん https://ameblo.jp/halsa-n/entry-12203860096.html  より引用させていただきました。ホーネンコーポレーション も吸収合併で今は無い会社です。)

 またある記事にはつぎのような紹介があります。三十年も前の商品です。

食品ヒット大賞
シルバーメタリックのアルミ缶に濃縮コーヒーを炭酸ガスで密閉したのが「カフェ・イン・ボトル」、ノズルを押すとコーヒーがムース状に出てくる。最後の一滴までエアカット方式が利いてキャッチフレーズは“そのつど新鮮”。豊年製油がCIを導入しホーネンコーポレーションに社名変更した年の記念すべきヒットとなった。

 結局コストが高くて商品として成り立たず生産中止になったらしいのですが、一時期鳥海山へはよく持っていきました。近所のスーパーで売っていたのですが結構高かったような気がします。
 このカフェ・イン・ボトルを荷物に入れて鳥海山へ行ったある日、東雲荘へ寄ると、管理人の斎藤大さんが「今日は面白い人来っはげ会ってげ。」と言って引き合わされたのが写真家の石橋睦美さん。ちょうど、次の写真集の上梓を準備していたころでしょう。
 1992年の発行です。ご本人から出版の案内が送られてきました。はい、もちろん購入させていただきました。

 石橋さんはいつも奥さんと一緒に山に入っておられました。鳥海山中で何度も一緒になったのですが、ある日ちょうど持参のカフェ・イン・ボトル(その時はスプレー式珈琲とかってに呼んでいた。)を石橋さんご夫婦と一緒に飲みました。御浜の辺りだったでしょうか。その後再会した時、奥さんから「〇〇さん、この前のコーヒー美味しかったわよ。」と言われたのが今も記憶にあり、このカフェ・イン・ボトルは忘れられない飲み物です。今もあったら買うかなあ、難しいところです。どなたかこの珈琲記憶にある方いらっしゃいますでしょうか。

 石橋さんに写真を撮るときに何を一番気をつけなければいけないですか、と聞いた時、「被写界深度をおぼえておくといいですよ。」と言われたのが記憶に残っています。その言葉は記憶に残っているのですが、実践には至らず今はプログラムオートで適当に撮影しているだけです。

 我ながら何十年も前の話、よく続くものです。

またしても鳥海山の古い葉書

2020年07月13日 | 鳥海山
 outdoor life ならぬ indoor life と正式に言うのかどうかは知りませんが、最近はアルバイトに出かける以外あまり遠出しませんので、こういったものを楽しんでいます。
 おそらく昭和の初期ではないかと思われます。鳥海山高山植物第二輯とありますので、第一輯ヶ好評で続編をつくったのかもしれません。それにしても鳥海衾が第二輯にあるという事は、第一輯の見どころは日光黄菅だったのかもしれません。注意していただきたいのは、このころは登山記念ではなく参拝紀念とあることです。

 この袋には河原宿に於ける、とありますので蕨岡口から登ったのでしょう。もちろん、このころまだ滝の小屋直下までの道路はないですよ。杉沢からの歩きです。35mmカメラもまだないでしょうから4×5版の大きいカメラを担いで登ったのかもしれません。遊佐町高橋寫眞館製とあります。今も吹浦の大物忌神社の近くにタカハシ写真館がありますのでそこで作ったのかもしれません。今度大物忌神社に行ったとき尋ねてみましょう。
 左の写真は、現在の滝の小屋の上にある白糸の滝です。この滝の左側に直登して八丁坂の途中に出る道があるのですが、現在は立ち入り禁止です。雛桜がこの辺に咲いていたかどうかは記憶にありません。雛桜は鳥海山が基準標本の花ですね。乾いたところには咲きません。
 白山一毛はこの登山道ではどこに咲いていたでしょうか。御浜の周囲の大群落が記憶に残り、他の場所は記憶に残っていません。
 釣鐘人参とありますが、釣鐘人参の高山型が白山沙参 という事です。追分の先、八丁坂のお花畑に咲く白山沙参は見事です。息を切らしてひたすらに頂上を目指すのもいいですけれど、せっかく鳥海山に行ったならゆっくりとこういう高山植物を楽しみたいものです。そのためには花の名前を覚えるともっと楽しくなります。

 御浜の先、御田ヶ原にも少々咲きますが、やはり山頂周辺でしょう。葉書の袋に「河原宿に於ける」とはありますが河原宿に鳥海衾も岩桔梗も咲きません、薊坂より上ですね。

 それにしても毎週鳥海山に行っていたころは一体交通費、ガソリン代だけでもいくら使っていたことやら。それだけでなく、食料、フィルム、現像代、一回の鳥海行きでいくら使っていたことやら。登山靴だってその頃でたしか三万円、その後ビブラムソールの貼替も二度ばかり、リュックも二、三回買替。山も結構お金はかかります。

 雨の日に無理して登ろうとする人に一度、なぜこんな雨の中登るんですかと聞いたことがありますが、都会から数万円と貴重な休日を費やしてきて、登らないで帰るわけにはいかないというんですけどねえ。皆さんんはどう思いますか。

宮司さんと歌姫

2020年07月12日 | 鳥海山
 ひょいと思い出しプリントを引っ張り出して来たら一冊目でみつかりました。昭和61年ごろの写真です。
 白髪の立派な宮司さん。長谷川宮司です。確か明治40年のお生まれですのでこの時齢八十を過ぎていらっしゃったでしょう。宮司さん以外この袴ははくことが出来ません。禰宜、権禰宜の方々は浅黄色の袴です。それにしても矍鑠としていらっしゃいます。
 その隣の女性は酒田の歌人、白山風露さん。鳥海恋歌等の歌集を上梓 しています。以前は賀状も頂いたりしていたのですが現在はどうしていらっしゃるのでしょう。冬の新山頂上へもひょいひょい登るかたです。家業のお店もシャッターがおろされています。

 すでに新しい知己を得ることもなくなりました。ただ、昔のことを忘れてしまうのも残念ですので自分のためにこうして記録に残しておきます。