鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

蟲穴・稲倉嶽

2021年10月30日 | 鳥海山

 御本社の参拝が済んだら破方口から七高山に向かいそこから伏拝に歩いていくと蟲穴があります。そういえば、七高山の所で橋本賢助の鳥海登山案内で

【七高山】(しちかうさん)當山第二の高站點で、陸軍一等測量台の置かれた所である。此の先にも矢島口の拜所があるが、行って見ると、當山で見られない河原の石が澤山落ちて居る、 そして中には戒名の賛いたのが多い、何でも之は矢島方面の習慣で、わざ〲河原の石を持ち上げて供養をするのだそうな、今に神佛混淆の事が殘つてゐるのである。

 と書いていますがこれは仮名北ピーク、破方口山の事ですね。これに就いてはこちらの記事をご参照ください。


蟲穴むしあなさながらはちの如き巨岩きよがんにして一種の羽蟲ぱむし小孔こあな出入でいり農民のうみん蝗蟲いなむしがいけんと慾し此いはかみ小孔こあなふさぎて祝祷いのるす是羽蟲を禁搏きんはくするのこゝろなる稻倉嶽いなくらたけ稻倉嶽いなくらたけ本山ほんざんの西北にくらゐぞく之を稻村嶽いなむらだけと云ふ卽ち大物忌神社の御祭神倉稻魂命うかのみたまのみことふか由緖よしあるする所にして古は瑞鳥ずいてう此處に棲息すみし形鳳凰の如く時々ときゞとりうみの湖畔についばめりと傳へらる今かるゞしく由緖よし說明かたるするはかへつ神祕しんぴもらすのおそれあればみだりに細說とかずせさるべし而して稻倉嶽鳥の海鍋ヶ森なべがもり御苗代おなわしろ等にゆくでんと慾するものは宜しく山上に一泊するを便なりとす


 蟲穴岩ではありません。蟲穴です。わかりやすいから虫穴で良いという人もいますが何度でも繰り返して言いますが由緒ある名前ですから変えて呼ぶのは冒涜です。さてこの蟲穴について以前にも紹介しましたが、鈴木正崇氏は三田哲學會出発表した「山岳信仰の展開と変容 : 鳥海山の歴史民俗学的考察」という論文の中で

「外輪山を北に向かうと巨大な溶岩の塊で無数の穴が開いている 虫穴 があり これらの穴からは作物を食い荒らす田畑の害虫 (ハフムシ 、蝗虫いなごむし浮虚子うむかむし) が出てくるとされる 穴をふさげば出てこないので豊作になるとして紙を沢山詰めた 道者は中に棲む小虫を虫穴大明神 (五穀神) として崇めた。 農耕守護の神への切実な願いが込められたのである。」

 と紹介しています。ハフムシ、浮虚子は鳥海山登山案内記では出てきません。橋本賢助の鳥海登山案内はどう書いてあるかと開いてみると

「仙者谷を左手に見て荒神ケ嶽の中腹を斜めに下ると、谷の底にある雪田上に達し、更に雪田を下れば、左方に七五三掛と稱する所がある。此處は外輪山の終點で愈々新火山と別れを告げる所である。 まもなく御苗代と云ふ所に着く。」

 とあるので帰りは外輪コースを取っていません。姉崎岩蔵「鳥海山史」では次のように記しています。

「外輪山を通つて七高山に行く途中、虫穴と稱する所がある。可なり大きな熔岩塊で、一面穴か澤山あいている。之は大方軽石のように噴出の當時、瓦斯体の飛び出したものであろうが、叉風化作用も与つて力あつたととだろうと思われる。之を虫穴と稱え、一つの拝所にしてあるのは、此穴か出る虫が田畑の害虫になるのだと云う傳えを持つているからである。それ故此処の小穴を塞いで行くと豊作を得るとのことで、穴を塞いだ紙がー寸異様に感ぜられる程澤山ある。」

 登っても興味も持たない人ばかりでしょうけど行く機会がありましたら虫穴をじっくりと見てください。

 さて蕨岡口から登った登拝者は通常吹浦口へ降るとものの本に読み、聞いたような気もするのですがこの太田宣賢の鳥海山登山案内記では、


蕨岡口より登りて吹浦(ふくうら)口矢島(やしま)口小瀧(こたき)口等に降るものありと雖ども極めて少數にして多くは學術がくもん硏究若くは觀光隊ゆさんの一部にぎず


 となっています。やはり同じ道を降った方が多かったのでしょうか。今となってはこの書のほかに確認すべきものはありません。でもこの一行、信仰のための鳥海登山に対して学者の研究登山、観光に”ゆさん”とルビ振るあたり一段低く見ているような気がしないでもないです。

 また登拝道についてはこの頃蕨岡共栄社で改修を進めていたことがわかります。


附記 鳥海山道路は從來に於ては其峻坂嶮路寔に上述の如しと雖も本編脫稿後蕨岡共榮社主として道路の改修を企て村稅郡費等より多大の資金を投じ大に改良を加えへつゝあり既に其竣工したる部分の如きは全く平夷にして從來の面目を一洗したるものにして其未だ竣工せざる一部の如きも目下著々進行中にあるを以て明年を待たずして完成すべし左れば登山者は極めて容易に登ることを得べく特に女子團の登山には著しき便宜ならん

(明治四十五年七月)


 現在蕨岡口旧登拝道の湯ノ台道と合わせるところまでは荒廃していますし、何とか復旧させたいものです。多くの登山者で賑わうと山が荒れてしまうのは困りますけど。自然はやはりもとに還ろうとするんですね。中島台林道も今は一部崩壊して通行止めのようですし奥山林道も山形側から通り抜け不能、橋も撤去されているようです。鳥海高原ラインも車道終点近くは補修はしてありますがいつ崩れても不思議はないようです。


御本社から七高山

2021年10月28日 | 鳥海山

 御本社を出立し七高山に向かいます。此処にも出てきます破方口。大物忌神社に問い合わせても、蕨岡の古老に問い合わせても、鳥海山専門に登っている方に聞いてもわからなかった破方口、当時は普通に言われていたようです。戸口大神、猪山大神などは「史跡鳥海山」でも触れられていません。姉崎岩蔵の「鳥海山史」橋本賢助の「鳥海登山案内」まではいろいろな学者先生の研究論文や資料で言及されますがこの太田宣賢の「鳥海山登山案内記」について記されたものはありません。特に橋本賢助の「鳥海登山案内」では「尚一部は太田氏著『島海山登山案內記』に倣つた所も少くない。」と記しているのですから。国会図書館にあるのですからね。ただの素人の疑問です。


御本社の附近には〇戶口とぐちの大神〇猪山ゐやま大神〇新山しんさんの大神〇秋葉あきはの大神〇天照大御神あまてらすおほみかみ胎内たいないの大神(おほかみ)〇切通きりとほしの大神等の諸社碁布ごふす〇切通きりとほし巨巖きよがん左右に兩斷ふたつにわれ其間鳥道ほそみちとほらし高さ十數丈斷裂われ奇態ふしぎのさま造化至妙かみのふしぎ神工はたらきにあらずんばいづくんく斯の如くなることを得んや通るものしんおそ足震あしふる片言雙辭いちごんはんく諧謔おどけもらすものなし〇胎内たいない奇洞ほらあな通過とほりぬけし少しく下り更に破方口はほうぐちに登れば七高山しちかうさん蟲穴むしあな御嶽みたけ等の諸社彎形ゆみなりして點在てんざいし〇七高山しちかうさん陸軍りくぐん參謀さんばう本部ほんぶ陸地りくち測量部そくりやうぶ大三角點だいさんかくてんの在る處にして西飛島とびしま三角點さんかくてん旭日嶽あさひだけの三角點を望む


 七高山の三角点櫓。国土地理院のHPによれば(三角点の)「選点が終わると、観測地点が相手から見えるように、観測がしやすいように「やぐら(一時標識)」を作ります(造標)」とありますのでこの葉書は丁度七高山に三角点を設置したときのものでしょう。YamaRecoによれば「三角点櫓を入れた写真は数枚のみ」ということですので大変珍しい写真だと思います。三角測量に用いる経緯儀は箱を入れると60㎏にもなるそうで、それを人力で運んだということです。もちろん櫓の資材もこの当時は人力で運んだでしょうから三角点設置は大変な作業だったことがわかります。それにしても測量に携わる方はそんじょそこらの登山愛好家など逆立ちしてもかなわない山登の技術と体力と熱意を持っていたのですね。三角点以外では地質調査、これもどこまで山の中まで踏み込んで作成したのでしょうか。この範囲が七高山熔岩かなどと何気なく見ていてもどうやってその範囲を決定したのでしょうか。まさか隅々まで歩いて?ちなみに下の図でⅠ、Ⅱ、Ⅲとあるのはそのできた順です。


御本社

2021年10月27日 | 鳥海山

 やっと御本社に到着です。神仏分離前はどのように薬師如来が祀られていたのでしょう。神仏混淆の時代でも御本社、長床といった造りだったので神社建築の様式だったのですね。


〇御本社はうしろろに尨大ぼうだいなる巨巖傲然きよがんごうぜんとしてそばだ莊重さうぢう石壘せきるゐは高く四周を圍繞いぎやうなか蕭潔しやうけつ森々しんゝ莊麗瀟洒そうれいしょうしやたる神殿しんでんあり是實に大物忌の大神を鎭齋ちんさいする處にして神境しんきやう靈域れいゐきたり顙稽さうけい拜伏はいふくすべからくつゝしみて天下てんか泰平たいへい國家こくか安穩あんをん五穀ごこく豐饒ぶによういのべつしては寶祚の天壤無窮を祝禱てんしさまのみくらゐのきはまりなからんことをいのりし尙各自てんゞ懇祈ねがひぬきんであはせて日夕ひごろ御恩賴みたまのふゆ報賽むくひし奉るべしあなかしこ穴賢あなかしこ

御本社の前面まへやゝひくき處之右側みぎがはに參拜者の休憩所あり又左側に神職しんしよく詰所つめしよあり又其側に炊事屋かしきやあり御本社と共に二十一年每に式年の御造營を爲す維新前は專蕨岡に於て經營けいえいせり其後は直ちに社務所に於て經營す用材は悉く檜木ひのきにしていやしく他材よのきまじへず造營中百時謹愼なにごともつつしみ工匠冶工だいくかぢやに到る迄皆沐浴もくよく齋戒さいかい苟且かりそめにも觸穢を免さずけがれにふるゝことならず而して建築の材料を一々山上に運送うんさうするは至難しなんに似たりと雖ども實は然らず卽ち遠近えんきん信徒しんときそふて負荷かつぐの勞にふくせんことをねがふ以て其歸嚮きかう深甚しんじんなるを見るべし


 炊事を「かしき」と言っていました。今も山頂で炊事をしていた蕨岡の方は「かしき」と言っています。占有を奪われた蕨岡の無念さも上の文には表れています。檜材も今では国産材で調達するのは不可能でしょう。それに今も「競ふて負荷の勞に服せんことを樂ふ」方はいるのでしょうか。以前聞いたことがありますが神社の工事で入札形式にしても地元工務店一社しか入札に参加しないのだとか。

 橋本賢助の鳥海登山案内には次のようにあります。


こうして御本社にいつたら恭しく参拜して宿所に這入るのである。斯く 廻れば丁度入日の時刻だから、石段の所に出て眺めるがよい、實に奇麗なものである。兎に角寒いこと、飯のまづい事は驚かない様に、但お酒と味噌汁の美味には驚かざるを得まい。


 「飯のまづい事は驚かない様に」というのには思わず頬が緩んでしまいます。どうやら「飯のまづい」のは伝統だったようです。山の食事といえば池田昭二さんは「私が昭和二〇年の暮れに大陸から引き上げてきて、二一年に初めて鳥海山に登りました。その頃、鳥海山に登って鯨の缶詰を開けて食べていたところ、こっぴどく小屋のおじさんの鳥海さんに叱られました。精進料理でしか山に登らせない時代でしたから。」と書いています。食事が質素なのはその伝統なのかもしれません。???

 御本社の写真はあまり手元にないのですが、これはこのとき社務所にいた權禰宜Tさんから「お参りするときは本当は裸足でするもんだぞ」と言われてこれから裸足でお参りするところです。このお二方はこの後石段を裸足で駆け上がり御本社に参拝いたしました。神主さんニコニコしながら「そごまでしねたっていいんだぞ」。

 これは火合わせ(鳥海山御濱出神事)の日だったと思います。御神事が終わって「ごくろめ」です。酒しかないというより酒だらけ。山に長い事閉じ込められれば酒、酒、酒、それが楽しみです。一升瓶は吹浦のお酒東北泉です。


昭和の絵葉書で鳥海登山

2021年10月26日 | 鳥海山

 鳥海山登山案内もまとめるのが結構大変なので今日も寄り道。

 まずはタトウから、タトウの裏には昭和の文字が入っているので昭和の発行は間違いありません。

 発行元、発売元は書いてありません。鳥海ブルーライン、鳥海高原ラインの出来る前です。吹浦口は畠中小屋が描いてあります。白井新田からの長坂道、岩野からの二ノ滝口、蕨岡から杉澤を経由する蕨岡口、下草津からの湯ノ台口、同じく下草津から鶴間池を経由するおそらく大台野道(或は日向川沿いの道か)が書いてあります。蕨岡口は既に昔の登拝道ではなくソブ谷地経由の道になっていますし、このはがきの当時はまだソブ谷地小屋が建っていたようです。吹浦、蕨岡両大物忌神社が書いていないということはこの頃既に信仰の登山は薄れていたということです。

 

 杉沢からの風景です。

 西物見からの景色が葉書に残っているのは初めて見ました。

 西物見よりと表面に書いてあります。

 笙ヶ岳からの山頂ですが、近年まで笙ヶ岳が取り上げられることはありませんでした。最近は笙ヶ岳へ向かう人も多いようですが山はますます荒れていきます。

 吹浦口の八丁坂からの笙ヶ岳、鍋森。

 なぜかここで雪の伏拝嶽と千蛇谷。

 もちろん鳥海湖も忘れていないようです。

 二ノ滝へ寄ったら龍ヶ瀧へも

 古い絵葉書は面白いです。


10月25日の鳥海山

2021年10月25日 | 鳥海山

 午前中快晴、今日も歯医者なので車で行けるところまで。適当に撮影しているので出来上がった写真を確認してみると、MFで撮影していたら目も老化しているのでピントを合わせたつもりが駄目だこりゃ。

 青空が広がっていたのはこの時だけ。すぐに青から灰色の空に変わりました。東北だなあ。

 10月末なのに紅葉はいまいち。イヌワシを撮影しようと特大望遠レンズを装着した人はいつもいますが撮影できたという人はいるのでしょうか。スノーモービルが頻繁に入山するようになってから営巣も確認できていないようです。

 大崩れ、名前は何というのでしょう。この下がうわさに聞くヤミチでしょうか。

 鹿俣川左岸白沢川溶岩の柱状節理、屏風岩。露頭の高さは100m。古い山と高原地図を見ると「鳥海山随一の6級岩場で、いまだに二登しか果たされていない」とありますが、今もクライミングする人はいるのでしょうか。

 湯ノ台県鉱区鉱害防止という廃止坑井事業のための何かでしょうか。

 分離槽かと思い中をのぞいてみたら底に突き出たパイプから勢いよく水が噴き出していました。

 この一帯を歩くと油臭いです。湯ノ台は今も石油が滲み出ています。湯ノ台の石油採掘に関する資料というよりも石油にまつわる集落の形成、発展に関して書いたものは今の所見ていません。例の如く橋本賢助の鳥海登山案内を見ると旧登拝道水呑の項に「徑は喬木の間を縫うてだん〲上って行く途中に湯の臺道を合せるが、向も上り何時か鳳來山の山頸をたぎる頃になると、前面に横堂の笹小屋を見る。」と湯ノ台道が出てきますが大正年間には湯ノ台道と呼ばれたものがあったようです。次回も寄り道して「湯の臺道」の事を書いてみましょう、大して中身はないですけど。