鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

大平口の反射板

2021年01月29日 | 鳥海山

 今日は外は暴風、一日どこへも出かけずゴロゴロ。またまた古い写真をチェック。

 いつの間にかなくなっていた大平口のマイクロウェーブ反射板。写真がないものかと探してみたら遠望ですが一枚だけ写っているのがありました。

 拡大してみると、

 風の強いガスのかかった日に登っていくと、グォ~ン、グァラ~ンと不気味な音が聞こえてくるものでした。ガスにまかれて何も見えない状態では正体を知らない人にとっては気味が悪かったことでしょう。

 大きなコンクリート基礎の上に立っていてその後は基礎だけが取り残されていました。どなたか鳥海山の反射板の写真をお持ちの方はいらっしゃいますでしょうか。こんなものに興味を持つ人もいなかったでしょうけれど。

 大平口といえばもう一つ、清水大神のあたりだったか。倒壊した小屋の残骸のようなものがありました。誰だかは戦時中の飛行機の残骸だとか言っていましたけれど。それもいつの間にかなくなっていたようです。ああいうものも写真に撮っておけばよかったと思います。

 こんな様子の縁(へり)の所にありました。これも誰か写真持っていないかなあ。

 ゴミ拾いおじさん家路につく。大平口を下山中のおじさんたち。そういえば”たち”を動物、植物に使う人がいますがまともな大人は使ってはいけません。あれは人間にだけ使うものです。使っていいのは幼児向けの世界だけです。


今日の鳥海山

2021年01月28日 | 鳥海山

 出かけたついでに iphone でちょいと一枚。

 今年の初旬に観測史上初めてというほどににどっさり降った雪も溶けました。観測史上といったって1998年の統計開始以降のことだそうですが。それより何年か前、雪で国道7号線が通行止めになったこともありましたし、昭和の二十年代でしょうか、市内で腰まで雪に埋もれている写真もあります。

 さてさて、また週末寒気が来るそうですがこの辺は例年2月11日ころ地吹雪に見舞われます。もう一荒れは覚悟しておかなければなりません。

 

 それにしても鉄道というのはなぜか惹かれるものがあります。鳥海山に鉄道橋はよく似合います。なんだか鉄ちゃんの気持ちもわかるような気がします。

 日も長くなってきました。二十四節気の第一、2021年の立春は2月3日、もうすぐです。さあ、今年は何をすることができるでしょう。


二月の鳥海山

2021年01月28日 | 鳥海山

 冬の山は経験も少ないし、何より寒いのは嫌なのでほとんど行かないのですが、ある日山の仲間が「たまに雪の中散歩しよう」と。

 かんじきはいてえっちらおっちら。途中スキーの人たちにスイスイと追い抜かれました。

 その時の写真を見るとたいしたところまで登っていませんね。

 南高ヒュッテは雪に埋もれていて二階の窓から中を覗くと煙草の吸い殻だらけ。山に登る人に悪い人はいない、わけがないのをここでも証明。今はそんなことはないと思いますけど。そうそう、昔は山頂の広場も吸い殻だらけでひどかったですよ。朝の片づけが終わると当時の小屋番さんが一生懸命掃除していました。海より汚かったかもしれません。

 でも春の山へスキーに来る連中なんか目の前で弁当のから捨てますからね。家族で山へ行ったとき、たまたま目の前の連中がそれをやって、すると当時まだ小学生だったうちの娘たちがそのごみを拾い始め、スキーの連中が大慌て、中の女の人たち「私たちがやります!」。

 古い写真ばかりですが、雪庇まで続く足跡。落っこちたのかいな?

 これでも結構寒くて、途中で最後の店の自動販売機で買ってきたワンカップをバーナー出して湯煎して熱燗で飲んだのですが、飲んだ瞬間はホ~ッと体が温まります、しかし秒刻みで冷めていく。これが落語に出てくる直雨、ジキサメか。

 でもこの時期、すでに芽吹いています。

 


My Favorite Things

2021年01月27日 | Jazz

 昔学生のバンドで女性ヴォーカルが眉間にしわ寄せてメモを見ながら歌っていました。歌詞を見ながら歌っているんだろうとひょいとのぞいたら、なんと歌詞が全部カタカナで書いてあった。

 このアルバムはそんなことはないでしょう。

 

 伊藤君子のJAZZ DA GA? JAZZ DA KA! より。すでに廃盤、再発はされていません。ピアノは大石学です。今夜の酒のともになるかな?

 ちなみに伊藤君子は津軽出身ではありません。


昭和の初めの関取衆

2021年01月24日 | 兎糞録

 子供のころは相撲も見ましたが今はほとんど見ません。小さいころ近所の鉄工場のおじさんの所へテレビを見るために入りびたりになり、それではいけないと親は無理をしてテレビを買ったのでしょう。すると近所の漁師のおじさん、そのおかみさんたちが夕方テレビの大相撲を見るためにうちに集まるのです。柏戸が登場すればそれだけでもう大騒ぎです。

 ご先祖様は相撲が好きだったのか、それよりも目立つ派手なことが好きなだけだったと思うのですが、写真を整理していたら昭和の初めの関取衆の記念写真が出てきました。

 関取が五人写っていますが左から、笠置山、出羽港、九州山、綾昇、そして出羽ノ花です。

 笠置山は昭和二十年に引退していますのでそれ以前の写真です。出羽港はのちに出羽湊と改名した出羽港秀一でしょう。

 九州山は終戦後にプロレスに転向し、その後はレフェリーとして活躍していました。たしか門茂男のザ・プロレス365にも九州関として登場します。

 皆さん出羽海部屋の関取衆です。写真は右隅にSHINYODO 信用堂 新庄 とエンボス加工で名前が記されています。それにしても関取五人も呼んで一献とは相当のお金もかかったことでしょう。相撲好きの人にはたまらない写真かもしれません。

 古い写真を引っ張り出してくると思いがけないものを見つけます。こういう古い写真から広がる世界も楽しいものです。

 

 ※書院造の座敷で違い棚も見えますが、何故か天井から万国旗が洗濯物のようにぶら下がっています。後ろの掛け軸は謡曲高砂より"相生の松風颯々(さつさつ)の声ぞ 楽しむ"。それにしても九州関が中央に座り膝の上に女の方をのせ、この関取衆の中では一番格上だったのでしょう。戦後の番付では笠置山の方が上のようなのですが。