鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

赤瀧から鳳來山への道

2021年05月31日 | 鳥海山

 赤瀧から鳳来山への道も見どころはいっぱいあります。

 拝所としては「史跡鳥海山」にも名前が載っていない祠です。

 酒田町の渡部という方の奉納です。酒田市が町であったのは明治22年から昭和8年までの間、おそらく明治期の奉納でしょう。

 安山岩の巨石の下にも祠があります。これも同じ方の奉納かもしれません、側面は苔で文字が読めません。苔を払ってはいけません。

 このルートは安山岩の巨石を数多く見ることができます。

 岩の上だけ苔がありません。しかも磨かれたようになっています。かつては多くの人がこの岩の上を歩いたのでしょう。たまにこの湯ノ台からの道をこういった祠があるから蕨岡口の登拝道と思っている方もいらっしゃるようですがそれは違います。

 僅かの間に三つ目の祠です。

 錆びた鉄梯子もすでに百年以上経ったものでしょう。そうそう、GPSの地図なんかでも横堂のあたりに大澤神社があるように表示されますが大澤神社はそこではありません。赤瀧の前に設けられたものが大澤神社です。蕨岡で大澤神社を知る人から聞いた自分のメモ書きに「大澤神社 参拝の季節以外は解体、写真は残っていない。」書いてありました。ということは、大澤神社という建物は現存していないのです。

 さて次の写真、

 鳳來山の頂上の山毛欅はなぜか無残に伐採されています。眺望のためだとしたら酷いことです。まさか病害虫が発生しただとか倒壊して登山者観光客に危険なため、などという理由ではありますまい。

 斜面の山毛欅も数本伐採されています。これも眺望を妨げるため伐採したのでしょうか。

 かつての蕨岡からの登拝道です。多くの修験者が歩いた道はV字状に抉れて今も残っています。この道を降っていくと水呑、駒止、月の原を通り杉沢の集落へ着きます。今度はこの道を歩いてみましょう。大勢の登山客で賑うルートよりも訪れる人も稀なこの道は良いものです。

 

 あと一回だけ、今回の山歩きでこれは失敗だったということを次回書いてみます。(トレーニング不足は別です。)

 


赤瀧へ行く

2021年05月30日 | 鳥海山

 鳥海山奥の院赤瀧へ。今日は8時間鳥海山中を歩き回りました。

 橋本賢助「鳥海登山案内」の横堂の項にある「社前から右に折れる小徑がある、途中鎖や太い網を傳つて下りる所があつて大澤神社に行くのであるが其處には炭酸鐡で赤くなった高さ五六丈もあらうと云ふ瀧があり、此の瀧が即ち御神体で拜殿の中から拜む様になつて居る。之が名高い大澤の赤瀧である。何でも弘法大師の創始に係る所だと云ふので、極めて尊崇して居る所である。」と書いてあるところです。

 河床を手でこすると手が赤くなります。水は少し苦い味がします。せっかくの景色ですが写真は手振れでひどいものです。

 おそらくこれが横堂から右に折れていくところにある下降のための鎖場です。文献とも一致します。この鎖を降り切ったところが最初の写真を写した場所なのですが、おそらくそこからまた瀧へ向かったのでしょう。しかし今はそれ以上近づくことはできません。

 その横堂も、昭和の最期ころまでは建物もありましたが今となっては祠とやや広い跡地、石段を残すばかりです。最後は雪崩で倒壊したのだそうです。これは蕨岡の神主さんからききました。

 手前の僅かに痕跡をとどめる石段を登るとやや広い平地、ここに横堂がありました。ここをまっすぐ行くと月光坂。道は整備されておらず、一部斜めになっていて滑るところもあります。実際今日落ちかけました。一人では行かない方がいいです。

 同じ場所、横堂の小屋ありしころです。この小屋の右手に鎖場へ続く踏み跡があります。

 今日の山歩きの話はまだ続きます。

 


橋本賢助 鳥海登山案内

2021年05月27日 | 鳥海山

 かなり古い本なので(大正12年)見ることは不可能と思っていましたが前回の記事を読んだ方から同書の蕨岡登山口の部分をコピーしたものを送っていただきました。

 jpg画像なのですが読みやすくするためにOCRで文字として取り込み、修正しながら活字にしてみました。これを読んでみると、後に出版された姉崎岩蔵氏の「鳥海山史」は登山案内の部分がほぼ「橋本賢助 鳥海登山案内」の丸写しだったことがわかります。(引用したとも書いてはいなかった)

 旧字旧仮名遣いですがその内容の面白いこと。現在発行されている某社の鳥海山案内よりもはるかに面白く読むことができます。まだまだ蕨岡の登山口から多くの参拝者が登った時代、その風景を頭に置きながら読んでみましょう。ちょっと長いですが【蕨岡登山口】の部分を全部載せておきます。宿泊料金の話から、破方口、山頂の飯はまずい、といったことまで書かれています。以下

 

【蕨 岡】(わらびおか)の宿屋は上蕨岡に在るのだが、俗に此處を上寺と云って居る、松ヶ岡の中腹にに出來た一であって蕨岡では最大なになつて居る。維新後までは三十三の僧坊があり、京都醍醐三寶院宮御門蹟の御直末山・御直同行の優遇を受け何れも同位同官にして正大先達大阿闍梨法印だいあじゃりほういんに進む事を得たのであるから今も色々な記録寶物等を蔵して居る。是等は萬事社務所で取扱って居るから就て頼めばいくらも見せてくれる。 筒本村小學校には鳥海山参考館もあるから必ず一見する必要がある、宿屋ではしみづ(鳥海源靜氏宅)、ぎょくせん(鳥海英覺氏宅)、はんにや(鳥海美規氏宅)の三軒ある、何処に宿つてよいか等は社務所又は共榮社事務所に行つて世話してもらふが一番良い、學生なら一晩五六十錢くらい、一般人でも酒を用ゐない人なら七八十錢でやつてくれる、こう宿がきまれば登山の用意に懸からねばならぬ。

  1. 山先達 是非頼む必要がある
  2. 強 力 學衝研究者は道案内と荷負ひ戸を兼ねる強力を雇ふがよい、山上の宿錢をこちらで持てば二日で一圓五十錢位なものである
  3. 馬 駒止(蕨岡から山路二里)まで自由に馬がきくから、足の弱い人は頼むがよい、片道三十五錢位、参詣人の様に一日に往復する人なら上下両道を頼む方がよい、こうなると六十五錢位なものである

其の他の細い注意に後章「登山に就ての心得」を参照せられたい斯くて夏の日の漸く明け離れた午前四時頃宿を出て、まづ口の宮に参拜して出すれば忽らにして境外末社 .磯前いそさき神社の前を通る、路から奥に離れて居るので僅かに共の俤を拜むばかり。昔は此社を下居堂おりいどうと稱へ、鳥海山神が毎年山納から山開まで、此處に下居なされると云ふので此の名がある、行く事二十余町にして杉澤に着く。

【杉 澤】(すぎさわ)上験岡から山路一里。此處は一盆地の中に在る五十五戸許りので、 云ふ迄もなく蕨岡村に属して居る、分教場の前から左に折れて祓川橋を渡れば其處に末社熊野神社を拜する。之から漸く爪先上りになりだん〲山の趣味が味はれる。彼是半里程行くとたけこし牧場に出るが此處には飲料水が出て居るから、冷水に口を潤しながら一休みするのも亦よからう。一坂を上れば

【駒 止】(こまどめ)である。蕨岡口最初の笹小屋で冷汁や金剛杖等を賣っている。登山者を乘せた馬は此處まで來ては引返し、丁度下山の時を見計らつて再び迎馬むかひうまとして此處まで來て居ると云ふ。此處から上には駒を上げないと云ふので此の名がある(然し實際は横堂迄通ずることが出来る)さて此邊は所謂山麓帯、愈々此感に來て始めて山に登りかけた様な気持がする。左手には月光川がっこうがわの谷深く涼しげな水はサラくと音をたてて流れて 居る。此の時對岸に一つの溶岩の絶壁を發見するが微細に観察すれば鳥海山の噴火の狀態を察知し得られる(即ち月山森の熔岩の下にも尙熔岩のある事が見える)振り返つて見ると笹小屋はもう余程下だ、杉澤の盆地はまるで箱庭の様。其處に散在して居る人家や立木はまるで置物の様な眺めである、上るに随つて樹木はだん〱大きくなり、今まであった山毛樺の木は何時か橅の木に變るのであろ、忽ち弘法水を過ぎて水呑に着く。

 【水 呑】 (みづのみ)山路三里。此處は喬木帶の入口であり又拜所、水葉みづはの神の在す所で側に美しい小川が流れて居るから如何にも水呑の名に相癒しい所である。丁度體を疲れて居る時分だから暫らく此處で休むがよい。徑は喬木の閒を縫うてだん〲上って行く途中に湯の臺道を合せるが、向も上り何時か鳳來山の山頸をたぎる頃になると、前面に橫堂の笹小屋を見る。

 【横 堂】(よこだう)山路四里。實測頂上までの略々半分の所で箸王子はしおうじ神社があり又第二の笹小屋も在る。社務所の出帳所も置かれて登山者の便利を計つて居る。昔は一の木戶とも云った。此の笹小屋は當山小屋中の最も大きなもので馬の脊なりの出に道を扶んでトンネル形に建てたものである。ぞれが枯れた「ネマガリダケ」(俗名ジダケと云ひ一見クマザゝの如くである。當山には最も多い種類の一で、根際がまがつてゐる、葉もクマザゝよりは細長い)で圍てゐるから、色からしてカマボコの樣である。中では白玉 (所謂鳥海山の力餠)・草鞋・イケウマ等をを賣つて居る、一般參詣人はよく「イケウマ」を云ふもの買って土產にするものだ。之は蘿藦ががいも科の「イケマJの根だが、聞く所に依ると馬の妙薬なそうで、何でもけ馬位に利くのだそうだ。小屋を出ると其所に板張りにした、箸王子神社が道を挟んで横に建てられてゐるから俗に横堂と云はれて居る。左が神殿、右が出張所になつて居るから、此處に登山鑑札を出して認印を貰はなければならない。又社前から右に折れる小徑がある、途中鎖や太い網を傳つて下りる所があつて大澤神社に行くのであるが其處には炭酸鐡で赤くなった高さ五六丈もあらうと云ふ瀧があり、此の瀧が即ち御神体で拜殿の中から拜む様になつて居る。之が名高い大澤の赤瀧である。何でも弘法大師の創始に係る所だと云ふので、極めて尊崇して居る所である。

横堂を出た所が月光坂がっこうざかである、長さは短いが仲々の険阻、駒返しや、牛戻しの名其の名に背かない。之からが所謂木立であつて山路一里といつて居るが、此の中は至って旦道なのでとても高山の道とは思はれぬ位である。茂る橅の木は晝尚暗くして物凄いと云ふ有様。入跡絶えた山中の物淋しさを十分に味ふ事が出來よう。此の様に森林の懐に抱かれて行くのであるから、自然と行先を急ぐのであるが、少し注意して四邊に目を配つて行けば、又色々の植物を採集する事が出来る。もう木立も盡きさうな所に東物見と云つて、東方の山々の見える所があり。又少し木立をくぐると愈々森林帯の最終點西物見に着くのである。此處には憩ふ為の小屋とてはないが、大きな岩(輝石安山岩)がゴロ〲してゐるから、庄内の天地を見下さうさする人は、岩頭に立って眼を開くもよからう。眼前に横はる景色に今までの疲れを休めるも愉快の一つであらう之から八丁坂迄の間を籠山と云ふのである (西物見まで山路五里)

 【籠 山】(かごやま)大小多種の岩石が累々とし「ミネザクラ」・「コナラ」等の灌木が斬髮をした後に頭を揃へて生へて居る。籠山とはつまり如何に雨が降つても少しも溜る事なく、みんな浸み込んで行くので、山全体が籠の様なものだと云ふ意味蓋相應しい名稱ではないか。それだけ登山者は足元を注意しなければならない。時々岩の間に足をはめたり、岩角に爪先を打つけたりして思はざる怪我をする事があるからである。暫らく行くと行手にあたつて一つの瀧を發見する、之が即ち八丁坂白糸瀧である。仝時に坂の下に嘗て第三の笹小屋を認める。途中に鼓石つづみいしと云つて打つと鼓の音を出す石がある。つまり内部の空になった熔岩塊たが、熔岩中には往々にしてこうした音を立てるものがある、悠々山路六里の八丁坂にさし懸かる。

【八丁坂】 (はつちやうさか)小屋ではやはり素麺と白玉を買ってゐる。又瀧に行く道もついてるから餘力のある人は行つて見るがよい。坂は可なり急だが、こうして一休みしてから上ると何のわけもない、丁度此上河原宿の小屋まで實測八丁である。案内人は此の間を一里として置くが、つまり道は短くとも險しいから、時間と労力から見つもり出した一里を思へば間違はない。坂は緩り登って休まないで通す方が、疲れも薄くて道も捗取るものでこう云ふ時に金剛杖が有難い。

 【河原宿】(かはらしゆく)山路七里。雪路を前に控へ、側に草津川の上流が(白糸の滝になる)流れて居ると云ふので非常に涼しく感する所、道者は身を淸めると云ふので水に浸るが 余り冷いので、とても長くは居られない、其れも其筈、實は雪路の雪がとけて來るのである。誰しも先づ小屋に腰を下して疲れを休めるが、此の時前の雪路が心の字に排列して居る事に氣がつくだらう、之が即ち「心字雪」である。此小屋でも素麺「白玉」等を賣つて居る、炎天の日、此處まで来て此の二品を食べれば、何時しか汗は沈み、座に寒さを覺えるに相違ない。此の邊は勿論灌木帶の中であるが、特に此處だけはお花を形造つて居て、頗る高山植物の豊富な所である、殊に後援會員弁に蕨岡共榮社同人は本年から著者の言を用ゐて、簡單ながら高山植物園を造る事になったから、採集者のみに止らず一般人にも多大の使宜を與へる事と信する。川向ひには淡朱色の花を着けた「日光キスゲ」(俗名カンサウ)、の群生があつて、一面の花盛りに驚かされる、花も若葉も共に食用として結構なものである。小屋の後から右の方に小徑があり、おつぼ(庭園の意)に行く事になるが、此處は自然に庭園の様になつて居て「白花シャクナゲ」が澤山咲いてゐる、道者は之を「モノタチ」の花と云ひ、鳥海松「本名ハヒマツ」と共に持つて歸りお宮から戴いた悪虫退散のお札を附けて田の水口に挿して置く、すると稲虫もつかず頗る豊作をすると云って居る、之も鳥海山が五穀の神だから起つた習慣であらう。此の時左手に見える山が月山森である、月山の高さと略等しいだらう云ふので呼ばれてゐるが、質際はとても及ばない。因に月山の高さを鳥海山に直すと、丁度薊坂の獅子ヶ窟邊に當る勘定である。

【雪 路】(ゆきぢ) 心字雪の中、大雪路と小雪路との二つを通るのだが、何れも千古の雪田である、二ヶ所合せて山路一里其先きが薊坂である、空の霽れた時は先々までも見えるから、行先を失ふ様な事はないが、霧に襲はれると危険が起って來る、山先達の有難みはこんな時にわかるものだ。

大雪路の入口にお田ヶ原と云って田形になった箇所あるが、八月初旬にはまだ現れない、さて此の雪路の上で、時々「龍のあらしこ」と云ふものを發見する事がある、即ち 「箱根さんせううを」の事で、一見兩棲類の井守に似た動物であるが、古來婦人血の道の霊薬と云はれて居る。 大雪路は中程から横に出る事になつてゐるが、丁度そこには道じるしの金棒が、獨り淋しげに立って居る。之から小雪路迄の間には、澤山の「ミヤマキンバイ」が生へてゐて、恰も黄金の花を散らした觀がある、蕨岡邊の人は「コガネバナ」と呼んでゐるが、蓋し無理のない名稱だ、又此の附近は「お山人参」本名シラネニンジの産地である、山上に泊ったら、多分夕餉の膳に上るだらうが、仲々もてはやされてゐる食物である。小雪路を過ぎるど愈々當山第一の所薊坂である。

 【薊 坂】 (あざみさか)山路八里。附近に「ナンブアザミや「ミネアザミ」が澤山生へて居るので此名がある。大正元年道路修繕したので、今では段々になつてゐるから、大した難儀な事はないが、當山第一の嶮所だけ、道の勾配は中々急だ、これでは昔の人が「油絞坂」等と云ったのも、尤の事である。坂の盡きんとする所に獅子ヶ窟と云ふ大きな岩が一つある、形が丁度獅子の首に似てゐるからこの名を得たもので、今でも拜所一つになつてゐる。(獅子ヶ窟の大神と云ふ)坂の絶頂には、鳥の海御濱の神と云ふ拜所があつて、眞直に鳥の海湖を望むやうになつてゐる、之から先は新火山の外輪山で七五三連嶺しめかけながね山路にすると御本社迄八丁の所である。

【伏拝嶽】(ふしをがみだけ)昔新の噴出しない以前には、荒神ヶ嶽の中腹に御本社があったもので、此處から伏拜んだものなそうだ、當時は此處に拜殿のあった事が古い書類に残つて居る、足元には深い々々仙者谷 (千蛇谷とも千歲ヶ谷とも云ふ)が「問はゞ千古の昔を語らん」風情に見えて居る。新山と荒神ヶ嶽とは、此の壯大な谷を隔てゝ聳えているゐるが、荒神ヶ嶽が古いだけ(有史以前の噴火だらう)綠草が生へて一見新山との境を見分ける事が出來る、實に新山は、今から凡そ百二十年前の噴出であるから、無論草木の生なやう筈がない、只暗灰色の熔岩が累々としてゐる許りである、一名享和嶽の名あるのは、光格天皇の享和元年に出來たからである。道は運嶺の上を北に進んでゐるが、此の邊から草本帶になって居る、行く〱「イハキキャウ」・「イハブクロ」・「イハウメ」等の可愛らしい草花が、所々熔岩の碎けた所に人待ち顔に咲いて居るのを發見する。

【行著嶽】(ぎやうじやだけ)社傳に依ると蕨岡口も役の行者の開鑿と傳へられて居る、(矢島口も小滝口もそうである)行者獄とは即ち此の行者の名をつけたもので、此處の岩には行者の作だと云ふ、前鬼・後鬼を從へて登った時の自分の姿を掘りつけたものがある、今は之を行著縦開山の神と云つて拜所の一つに数へて置く。足駄や下駄・草鞋等を上げてゐるのは、足をいためない樣にと云ふ意味なそうだ、丁度此處は道の分岐站で、一方左に金梯子を下れば、すぐ様御本社に行かれるが、我等は先づ右の道によって七高山に行く事にしよう、新火山の外輪山たるこの連嶺は七高山まで続いて居る、こうして進む內遙か右手の中腹に鏡の様な一つの池を發見するが是なん鶴間地である。此逆に於て澤山 の「鳥海フスマ」を採集する事が出来る、石竹科の草本で一名「メアカンフスマ」といはれて居る、それは北海道の女阿寒岳にも發見されたからで、牧野氏の命名に依るものである、一方「鳥海フスマ」は理學博士矢田部良吉氏の命名に係るもので、あの優しい「ヒナザクラ」(河原宿邊に澤山ある)と共に同博士が當山で最初に命名したものだそうな。 美しい花ではないが、鳥海山を名前に持つだけ、何となくなっかしい樣な氣持がする。

【 虫 穴】(むしあな)可なり大きな熔岩塊で、一面穴が澤山あいてゐる。之は大方軽石の様に、噴出の當時瓦斯体の飛び出したものであらうが、又風化作用も與って力のつた事だらうと思はれる。之を虫穴と稱へ、一つの拜所にして置くのは此の穴から出る虫が、田畑の害虫になるのだと云ふ言傳へがあるからである、それ故此所の小穴を塞いて行くと 豊作を得との事で、穴を塞いた紙が一寸異様に敗せられる程澤山ある。又此邊も「烏海フスマ」の分布區域である、

【七高山】(しちかうさん)當山第二の高站點で、陸軍一等測量台の置かれた所である。此の先にも矢島口の拜所があるが、行って見ると、當山で見られない河原の石が澤山落ちて居る、 そして中には戒名の賛いたのが多い、何でも之は矢島方面の習慣で、わざヾ河原の石を持ち上げて供養をするのだそうな、今に神佛混淆の事が殘つてゐるのである。再び虫穴の所まで引返し、之から新山登攀を試みるのである。

【新 山】(しんざん)虫穴の近所から火口壁を下ると、身は仙者谷破方ロとの分水嶺を覆ふ大雪田の上に立つ、新山攀登には随分嶮阻を渡らなければならないから、草臥た足では一寸無理かも知れぬが、此處まで來て新山を見ないでは、登山の價值も半滅すると云ひたい位である、兎に角十分注意をして、人の足跡で赤くなった岩をたどれば危險がない、胎内くぐりを通ると其處に最高點に上るべき道がある、自分が最高點に立った時、 鑿の様に切りたつた回い屏風の中にある事に気づくであらう、即ち之が新山の噴火口で 直僑徑凡そ百二十米突、最高點は實にその中央に固った熔岩塊なのである、先づ此處に一憩して近辺の景色を眺むれば、奥材の大半は勿論のこと、北陸までも一目にする事が出來る、北は和賀岳・駒ヶ岳から、本荘・秋田を望み、土崎港より八郎潟かけて遙かに寒 風山に至るまで、南は月山・朝日嶽より遙く佐渡島・能登牛島(極稀に見える事がある)を望み、西は飛行機:に似た飛島を眼下に見下し、東は駒ヶ嶽より仙臺・松島に至る迄、仙臺湾を包んでかすかに牡鹿牛島の遠巒を望み、僅かに金華山の頭も見えてゐる。形物の壯大なること、到底想像の外であって、浩然の氣を養ふ等は、實にこんな所で始めて 云はれるものではあるまいか、殊に美しい眺めは日本海の白帆の影である、此處を下りて右手に道を取ると、切通しと云ふ前に云った火山壁の裂目を通る、又その右側に一つの穴があるが、其の深さに至っては、とても知る事が出来ない、直徑僅かに一米突位のものであるが、學者は之を熔岩トンネルの一つであるまいかとも云ってゐる、切通しを出た所から右に下れば、荒神ヶ嶽に行かれるが、道が惡いために本道を進む事にしよう、御本社の西側から道をたどると胎內潜りがある、之は新山で潜ったものよりは遙に長いもので、お裏大黒と云ふ古い石の大黒様のある拜所の前に出る、之から引返して頂上に 登るのだが、とても新山如き眺望は求め得ない、た稲村ヶ嶽や笙ヶ嶽の方面がよく見える位なもの。こうして御本社にいつたら恭しく参拜して宿所に這入るのである。斯く 廻れば丁度入日の時刻だから、石段の所に出て眺めるがよい、實に奇麗なものである。兎に角寒いこと、飯のまづい事は驚かない様に、但お酒と味噌汁の美味には驚かざるを得まい。

 

 


大澤神社

2021年05月26日 | 鳥海山

 鳥海山四合目、横堂の下に赤瀧があります。その赤瀧を御神体とするのが大澤神社です。Google Map を見るとなぜか山中にぽつりと「大沢神社」の表示があります。道も何もありません。

『史跡鳥海山 -国指定史跡鳥海山文化財調査報告書』の中では次のように書かれています。

大沢神社 拝所【赤瀧神】

 案内板などもなく、今は訪れる人もほとんどいない。今回の調査では途中鎖 や綱を伝って下りるところがあるというが発見できなかった。大沢神社とい う拝殿もあって、「炭酸鉄で赤くなった高さ五六丈の滝があり、これがご神 体として拝殿のなかから拝むようになっていた」※という。現在は社殿は ない。吹浦ロノ宮にこの神社の景観図が残っており、往時を偲ぶことはでき る。酒田市立光丘文庫所蔵の絵図(版画)、「出羽國一宮鳥海山全圖」(鳳齋 子由画、天保15年写)では、弘法大師開山の赤瀧山霊水寺と表記されているが、 形は雲で隠されており、格別の霊場として秘所扱いされていたものと思われ る。

 ※については橋本賢助編「鳥海登山案内」(1923)より、となっていますがさすがにこの本は手元にないので確認できません。

 吹浦口の宮に残っている絵図は次のものです。

 (『史跡鳥海山 -国指定史跡鳥海山文化財調査報告書』より画像取り込みjpg化したものです。)

  ※蕨岡大物忌神社の宝物の多くが現在吹浦大物忌神社に保存されているようです。

 

 また「赤瀧」についてある学者先生は次のようにに記述しています。

 「弘法大師空海が鳥海山の奥の院として開いた秘所と伝え 瀧が御神体で重要な行場であった。」

 「現在は瀧を祀る大澤神社となっていて才祭神は倉稲魂命うがのみたまのみことである。酸化鉄で赤くなった高さ 五、六 丈の滝で かつての道者は赤瀧の登り下りに際して赤いソブがつくことを吉とした。」

 蕨岡で実際に神事に携わった人から聞いた話では、横堂から綱を伝って下り、白い足袋がの底が赤くなって帰ってくると本当に行った証拠だとされていたということでした。また、拝殿は雪が降れば倒壊してしまうため参拝時期だけの仮組のお堂だったということです。

 この綱も吹浦大物忌神社に残されていると蕨岡の古老に伺い吹浦に確認したのですが、答えは「ありません」。まあ素人の質問ですので門前払いだったのでしょう。後日蕨岡で再度伺ったところ、「吹浦の今の連中が知らないだけだ、どこそこにある。」との答えでした。

 

 大澤神社として残っている写真は次の一枚しか見たことがありません。

  近年この近くに行った方から聞いたところでは横堂からの道はかなり荒れていて取りつきは不明だそうです。また鳳来山の東側山腹から赤滝を確認できますが直近までは行くことができないようです。何とか近くまで行ってみたいですね。熊も出るので単独では危険です。

 

 ところで学者先生の論文はさすがに全体としては良くまとめられてはいるのですが、あれっ、この話はあの本に?というのが多いです。

 別のある学者先生の鳥海山の麓講演終了後に参加者が講師の学者先生に疑問をぶつけてみました。

 「鳥海山に登って修験者の拝所などは実際見たのでしょうか。」

 答えはもちろん「登っていません」。登りませんかという誘いにも、無理ですと答えたそうです。文献を読み漁り麓の史跡を歩き、土地の人の話を聞いて本一冊をまとめるのは能力なのですが、ここはやはり登拝道を歩き、拝所を拝みながら歩いて登った後に一冊書いてほしかったですね。これでは時代考証の不出来な時代劇のようなものです。

 『史跡鳥海山 -国指定史跡鳥海山文化財調査報告書』は多くの人の手による貴重な資料ですが現在はすでに入手不可能のようです。現在は借りてきたものを読んでいます。この中で多くの疑問に答えが見えてきました。(なんとか見つけました。)