鳥海山には春夏秋冬千回以上登ってきた大先輩より貴重な写真が送られてきました。清吉新道をつくった斎藤清吉さんとも一緒に登ったくらいの方なのでその鳥海山好きの度合いは推して知るべし。
これはどこでしょう。はい、これは11月初め清吉新道の南物見から弦巻池(鶴間池)を覗き見た写真です。大先輩おっしゃる通り森林限界の山毛欅の木は異様なほど曲がりくねっています。
※鶴間池は古絵図を見るとすべて弦巻池と記されています。上方から眺めた場合、現在の大鶴間と小鶴間の水路で繋がった様子が弓弦を巻くように見えるというのが由来のようです。古人の感覚のほうが後世の人よりずっといいですね。観音森もかつては桑の森と呼ばれたということなので、名称というのは何か見て調子のいいようなものに変えるのは何も今に始まったことではないようです。結果、名称、呼称は地名、町名すべて悪くなっています。満足しているのは悪名をつけた人と何も考え感じない人ばかり。
清吉新道にとりつく動画は YouTube にありましたがまともな清吉新道に関する写真を見たのはこれが初めてです。いや、ほかにあればもっとみたいです。
竜ヶ原湿原に木道ができる以前の様子です。竜ヶ原湿原というより湧き出る水も見受けられず竜ヶ原で湿原の文字はつかないように思えます。この木道ができる前の写真は一度だけ見たことがあります。カラーで見るのは初めてです。昭和40年代初めの写真ではないかと思います。このころの竜ヶ原湿原の様子は康さんの鳥海山日記に載っていました。
(秋田書房刊「康さんの鳥海山日記」より「10月の竜ガ原」奥村清明氏 撮影 竜ヶ原湿原とはなっていませんね。)
左方の草鞋森も今と同じです。草鞋森というのは祓川が下界と神聖な神の区域の境であり、ここで草鞋を履きかえ下界の汚れたものを山に持ち込まないためにそれを捨てたためにできた草鞋塚であるといわれています。登拝者は竜ヶ原の先にある祓川神社の前の冷泉で身を清め、祓川神社に祈願してからお山に登りました。このころ祓川神社も大きく、宿舎も備わっていました。そのころの様子は「村上浅吉ドドが残した祓川神社日誌」鳥海山祓川神社の会(祓川神社顕彰保存会)発行で詳しく知ることができます。
ついでながら、このころの人の残した記録はいいですね。自分を文人、芸術家、美術家気取りで誇大妄想的にものを書くことは一切ないです。淡々と記し、それでいながら時折ふっと現れる気持ちの表現、それがたとえ大勢の人がいても静かなる鳥海山の風景に深く重く染み込んできます。
これは木道新設当時の竜ヶ原湿原です。これも大先輩から送られてきた写真です。関係者に確認しないと明言はできませんが現在の木道はおそらく三代目ではないでしょうか。現在の溝の彫り込まれた木道はおそらく平成28年(2016)にかけ替えられたもの、その前の溝の無い木道、平成27年(2015)までの、は記憶にありますし、写真も持っています。これはそれよりもう一つ前ではないかと思います。
写真も熟成させた方が良い、とはだれの言でしたか。確かに写真は撮影して即人前に出すよりも長い間保存しておいて時折取り出して眺め、ようやくこれなら人様の目に触れさせてもよい、と思えるまで置いておいた方がいいようです。Beaujolais nouveauの物珍しさもあるでしょうけれど熟成されたものの旨さにはかなわないのは写真も同じです。それと一回の山行で何百枚撮影しても、これはっ、という写真が撮れていたということはまずないですね。ふとしたはずみでシャッターを押したときのほうが後々記憶を強烈に呼び覚ます写真であることのほうが多いようです。プロは違うでしょうけれど。