登山道がどんなに整備されたからといって、山そのものがやさしくなったということではありません。鳥海山の遭難は平成30年で全11件(酒田警察署管内)。
車でのアプローチも便利になり、登山者の装備もみんな昔とは違い、立派にはなりました。それでも遭難の数が減るということはないようです。
過去の文章に残されたものを読んでみて、今じゃありえないよ、という人はいないだろうと思います。車道が今ほど便利になる前の話だとしても、山の脅威が衰えたわけではありません。
「八月十四日
天気が悪いので、五人は、午後二時半、頂上に登った。暴風も落ち着いてきた。
午後七時、この五人のうちの一人と、本社(※注 頂上御本社)の飯炊きSの二人が来て話す。
昨日登った二人が遭難しているとのことだ。遭難場所は、七高山破方口の風石と蛇石の間。死んだ二人は五十メートルも離れて死んでいるとの事だ。」
(佐藤康 鳥海山日記)
そのあとの様子が別書で書かれています。
「毛布が敷かれた担架の上に仰向けに寝かされた二人の姿は悲惨だった。鼻や耳、そして口に砂や小さな砂利がいっぱい詰まっていた。顔には切り傷がたくさん残っていた。よほど強い風雨だったんだろうなあと思う。」
(佐藤康 ひとりぼっちの鳥海山。)
さらに、同書の中に、
「何十年も前のこと、横手中学の生徒二人がを連れた先達が、風雨をついて山に登って行った。荒れる七高山につき、頂上小屋にむかって断崖を降り始めたとき、激しい風がピタッと止んだのか、先達が断崖を真っ逆様に落ちて死んでしまった。嵐の中に取り残された生徒二人は動きがとれなくなって、風雨の中で凍死してしまったという。」
(佐藤康 ひとりぼっちの鳥海山。)
また、こちらの本では
「二十八年九月二十七日のことである。当時台風の中を湯の台から登山した酒田のT君(十九歳)が下山予定を過ぎても帰宅しないという事から家元から捜索願いが出されていた。
(中略)
T君はこの近くで息を引き取っている筈だと信じ、早暁、付近を捜索すべくしていた翌日の朝、ガスと小雨の中を急ぎ戸を開けて入ってきた人がいた。それは白井新田んの捜索隊員で長坂コースを登り御浜近くの御鉢石の山道の側で人が死んでいるのを発見したと報告してくれた。ではと早速、私らの一行三人は急ぎ現場に馳せつけた。T君は御浜宿舎から西方二百㍍余の所でチロルハットをかむり、ザックを肩にうつぶせになって冷たくなっていた。」
(畠中善弥 影鳥海)
このT君の身内に当たる娘さんを鳥海山に連れて行った時のこと、鳥海湖で合掌していたことが忘れられません。
御浜で担架にくるまれたオロクを見たこともありますが、いずれも普段皆さんがなんとも思わず登っているところですね。でも普通の登山道でも遭難は起こるのです。昔だから起こったのではないですよ。
山で遭難するという事は本人のみならず、家族にとっても悲惨んなことなのです。
うちの母ちゃんの友人んノ旦那さんも海外の山へ行ったきり帰ってきません。
それに最近、インターネット情報が多くなったためではなさそうなのですが、鳥海山での熊さんとの遭遇情報、あるいは熊さんの残したものの目撃情報が非常に増えたと思います。もともと熊さんの住処なので、熊さん、特に熊さんご一家とは遭遇しないように」準備しましょう。今年も食料不足で、まだまだ今まで目撃情報の無かったところをも歩き回っていらっしゃるようです。