鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

昭和三十年

2021年11月30日 | 兎糞録

 昭和三十年の写真を何枚か。

 この建物にウチの母親は赤ん坊を背負って、爺様の残した負債で家財道具に赤紙を貼られたため、その言い訳に足を運んだそうです。いい思い出があるわけがない。おまけに、後年、市役所で窓口の職員に電話を貸してほしいといったところ、「おのような奴がいるから酒田市貧乏になる」と言われたそうで、何度も繰り返し繰り返し聞かされました。
 そういえば、国鉄、JRになる前は、窓口で婆さんが切符を買うのにもたもたしていると、「おの行く先もわがんねーのが!!」と罵っているのを見たことがあります。更に昔は郵便局でも、大量の郵便物をだしに来た人に向かって、そばでその人が見ていると、「なにつっ立っていんなだ!おも勘定しろ!!」なんて怒鳴っているのも見たことがあります。

 今は時代が変わってそんなことを言おうものなら大ごとになりますが、昭和の昔はそんなものだったんですね。

 官庁街、などと大それたことを。

 商店街はこれでも今より人が多いようです。今は中心部はゴーストタウン。倒産したデパートをランドマークだかなんだか横文字で言っていましたが、残そう、などと。中心部に賑やかさが戻ることは二度とないのですから悪あがきは止めて別の方向にもっていかないとだめでしょう。

 工場地帯も今より活気があったようです。

 時代が進んだということがはたして進化、進歩したのでしょうか。


 ※この何年後でしょうか、この大浜工場地帯の貨物列車引き込み線で液化石油ガス、すなわちプロパンガスを積載した貨物タンク列車が漏洩爆発事故を起こしたという話や、港で漁船に冷媒として使われていたアンモニアが漏洩して大事故が起きたなどという記録は出てくることがないようです。ガス漏洩事故は目撃した人から直接聞きましたが、もうその方達も亡くなりあらためて聞くことはできません。これが防災で言う所の「人は二度死ぬ」ということなのでしょう。肉体的な死が一度目の死、その人を知る人がいなくなってしまうのが二度目の死。二度目の死はさまざまな意味を持ちます。鳥海山の豊かだった自然も知る人がいなくなれば、、、また再三取り上げている蕨岡登拝道の文化も知る人も無く、伝える人もないまま終えようとしています。


初めての全紙パネル

2021年11月26日 | 鳥海山

 まだ捨ててないパネルの中から出てきました。夕刻の御浜の風景。

 初めて全紙に引き延ばしして作ったパネル。ただし、現物はすでになく、その四つ切版だけが残っていました。

 九月のある日、何名かで遅くに鉾立を発ち、その日は御浜に一泊。小屋は既に営業を終えていましたがその当時は祝祭日前日は神主さんが御浜の小屋には来ていました。今は古人となってしまわれた權禰宜のHちゃん、と我々は言っていましたが、その日は御浜の小屋にきており楽しい酒盛りでした。その日の夕方に撮った一枚です。この傾いた標識はその後も何年かあったようです。
 なにゆえにこの日のことが忘れられないかといえば、その翌日、快晴の日、同行者がお峯口を下山中、這松に足を取られ転倒、足首を折るという大事故が起きたからです。その時御浜小屋に神主さんがいたおかげで下界と無線連絡を取ることが出来ほんとに助かりました。携帯電話などまだなく、小屋と下界とは無線で連絡、然も幸いなことにこの時はまだ無線機を降ろしていなかったのです。
この写真を見るだけで、その時のことが隅から隅まで細かく思い出されます。山の事故は会いたくないもんですね。


昭和三十年、香川から酒田への旅

2021年11月26日 | 兎糞録


今日(四日)十二時頃無事酒田につきました。
三十時間の汽車の旅で顔手足、すべて真っ黒でした。旅館につきすぐ風呂に入りどうにか人間的生活にもどれた様な気がしました。
大阪から私達学生ばかり乗せた汽車は三日の十時頃出発しました。車内は学生ばかりなのでとてもにぎやかで全々退屈しませんでした。たゞトンネルの多いのにはうんざりしました。車窓から見た山又山にかこまれた裏日本の風景は民家がぽつん/\とあるのみです。その家も香川県のようなかわらぶきではなくわら屋根でずいぶんかわった形で雑誌らでみうける雪国の家を思い出せばぴったりでしょう。
福井県に入ると日本海の岸辺を通りました。夕陽にてらされて水平線がとても美しかったです。山間を通る為汗は全々出ませんでした。夜は寒いほどです。
酒田に着くと酒田の人の歓迎はものすごいです。食事にくばられるおはしにまで歓迎全国陸上大会と記してあり町には歓迎と記すアーチがいたる所にあります。
駅前には小学生等が日の丸の旗を持って迎えにきてくれたのには感激しました。


 昭和三十年八月、第八回全国高校陸上競技選手権大会が酒田で開催されました。大会に参加したある女子高校生が郷里の友人に送った文面です。六十七年も前のものですが、今の人の書く文章よりもはるかに生き生きとしています。
 トンネルに入る直前に汽車の窓を閉めるのですが、それが間に合わないと蒸気機関車の煙が車内に入り込んできてみんなの顔が鼻の頭を中心にして真黒くなります。こんな窓だったでしょうか。

 なんだかあの頃の汽車の社内の臭い迄よみがえってきます。
 昭和三十年、わら屋根がまだまだいっぱいあったんですね。裏日本、まだこの頃はそう呼ばれていました。そういえば山陰地方を北陽地方に言い換えようなどという動きもありましたがいつのまにか消えてしまったようです。地名は無理やり言い換えない方がいいのです。


正岡子規と鳥海山、中村不折

2021年11月26日 | 鳥海山

 正岡子規が芭蕉の足跡をたどり、こちら迄来た時の鳥海山に係わる記述があります。ちょっと長いですが、


奥羽行脚のとき鳥海山の横の方の何とかいふ処であつたが海岸の松原にある一軒家にとまつたことがある 一日熱い路を歩いて来たのでからだはくたびれきつて居るこの松原へ来たときには鳥海山の頂に僅に夕日が残つて居る時分だからとても次の駅まで行く勇気はない 止むを得ずこの怪しい一軒家に飛び込んだ 勿論一軒家といふても旅人宿の看板は掛けてあつたのできたない家ながら二階建になつて居る、しかしここに一軒家があつてそれが旅人宿を営業として居るといふに至つてはどうしても不思議といはざるを得ない 安達ヶ原の鬼のすみかか武蔵野の石の枕でない処が博奕宿と淫売宿と兼ねた処位ではあらうと想像せられた 自分がここへ泊るについて懸念に堪へなかつたのはそんなことではない 食物のことであつた 連日の旅にからだは弱つてゐるし今日は殊に路端へ倒れるほどに疲れて居るのであるから夕飯だけは少しうまい者が食ひたいといふ注文があるのでその注文はとてもこの宿屋でかなへられぬといふことであつた けれどももう一歩も行けぬからそんなことはあきらめるとして泊ることにした 固より門も垣も何もない 家の横に廻つてとめてくださいといふたが客らしい者は居ないやうだから自分もきつとことわられるであらうと思ふた、ところが意外にもあがれといふことであつた 草鞋を解いて街道に臨んだ方の二階の一室を占めた 鳥海山は窓に当つてゐる そこで足投げ出して今日の草臥をいたはりながらつくづくこの家の形勢を見るに別に怪むべきこともない 十三、四の少女と三十位の女と二人居るが極めてきたない風つきでお白粉などはちつともない さうして客は自分一人である、などと考へて居ると膳が来た 驚いた 酢牡蠣がある 椀の蓋を取るとこれも牡蠣だ うまいうまい 非常にうまい 新しい牡蠣だ実に思ひがけない一軒家の御馳走であつた歓迎せられない旅にも這種の興味はある


 「博奕宿と淫売宿と兼ねた処位」とは大変な想像をされたものです。

 明治期の蕨岡の宿坊に泊まった客の
「ソノ御馳走ト申シタラタマゲタモノデ仲チャンヤババ様ナンゾハタベタコトハアルマイシ又タベルコトモデキナイデシヨー、又オ膳ヤオ椀ナンゾモ三四五百年モコノカタツタワッテキタヨーナ古ワン古オゼンカケダラケデアッタ」という感想とは大違い。

 それにしても明治期の文人は若くしてこれだけの文章をものにするのですから大したものです。

 其の正岡子規が「少国民」という新聞を編集するにあたって画家を捜していたところ紹介されたのが当時無名の中村不折でした。中村不折はその後「ほととぎす」に係わっていき、「吾輩は猫である」の挿絵を描きます。其の中村不折も鳥海山を訪れ絵をかいていますが、鳥海山に来たのも正岡子規の影響があったのかもしれません。


再度破方ロについて

2021年11月24日 | 鳥海山

 橋本賢助「鳥海登山案内・改訂版」やっとデジタル化完了しました。以前、最初の版をデジタル化したときは気がつかなかったことが結構ありました。前の版でも破方口についてははっきり書いてあったのに見落としていました。


中央火口丘の新山と荒神ケ嶽とをとり卷いて、東から西南に走る七五山連嶺は、新火山の外輪山である。山中第二の高點である七高山を始め、中嶋峰、行者嶽、伏拜嶽、文珠嶽等は皆此の外輪山を形成する山々で、七高山の峭壁と新山の東脚とが接續してゐる結果、火口原が二分される。その東北に下るのが破方ロで、西北に降下したのが仙者谷である。

新山は享和元年の噴出にかゝるので一名享和嶽。未だ少壯な火山の特性を遺憾なく發揮して居る。全山悉く暗灰色の輝石安山岩で、特に本山では新山熔岩として區別することが出來る。その頂上に直徑凡そ百二十米、深さ大凡八米程の噴火口然たるものがあつて、その底のまん中に殘つた一大熔岩塊が當山第一の高點である。

元來新山の成立は、ドーム式の塊狀火山であるから噴火口を欠くのであるが、冷却の途中、頂上に十二の龜裂が出來、中心だけを殘して周圍の熔岩が低下したものである。今見る切通しは實にこの時生じた龜裂の一で、頂上の穴はこうして出來た陷落口、最高點が中心だつたものである。

兎に角新山熔岩の不流動性であつた事だけは、流出狀態を見れば直ちに合點が行く事である。到る所板狀に割けた即ち板狀節理の壘々たる岩山である。切通しの西北方に風吹穴と云ふのがある。大方熔岩の固結する際、內部に宿つて居た水蒸氣が突發して出來たもので、富士の人穴で見る樣な熔岩トンネルではないらしい。

新山の西に續いて荒神ヶ嶽がある。其の東半部が新山の山脚で埋められてゐて山勢相似てゐてもこちらは有史以前の噴火だけ、全山總ベて綠草の包む所であるから、色に依つて歷然新山と分界する事が出來る。

 荒神ケ嶽の北麓、白雪川の上流イワマタの頭に、玉池と云ふ小爆裂ロがある。直徑凡そ十米の略々圓形の池で、硫黃を含んだ水を 湛えてゐる。


 この新山について書いてあるところは面白いころです。いろんな案内には書いていない内容です。いや、書いてあってもこれほど興味深くはない、この短い文章で甚だ明瞭にわかります。

 今でいう千蛇谷と対になるのが破方口ですね。こちらはルートもないので忘れられてしまったのでしょう。しかし、名前がある所を見るとかつては登路もあったのかもしれません。斎藤重一さんは道なき道を登っていたようですし。

 此の本の中に大物忌神社の祭礼や宝物等色々出てきますが、すべて太田宜賢「鳥海山登山案内記」に書いてあることです。参考にしたというより丸写しです。しかし、なぜか学者先生をはじめとする発表には太田宜賢「鳥海山登山案内記」に言及するものはなく、すべて橋本賢助「鳥海登山案内」による、としてあります。而も記述は不正確です。これは原本を読まないで書いたものであると思われます。発表するなら原本を読まないといけませんね。