昭和三十年の写真を何枚か。
この建物にウチの母親は赤ん坊を背負って、爺様の残した負債で家財道具に赤紙を貼られたため、その言い訳に足を運んだそうです。いい思い出があるわけがない。おまけに、後年、市役所で窓口の職員に電話を貸してほしいといったところ、「お前のような奴がいるから酒田市貧乏になる」と言われたそうで、何度も繰り返し繰り返し聞かされました。
そういえば、国鉄、JRになる前は、窓口で婆さんが切符を買うのにもたもたしていると、「お前の行く先もわがんねーのが!!」と罵っているのを見たことがあります。更に昔は郵便局でも、大量の郵便物をだしに来た人に向かって、そばでその人が見ていると、「なにつっ立っていんなだ!お前も勘定しろ!!」なんて怒鳴っているのも見たことがあります。
今は時代が変わってそんなことを言おうものなら大ごとになりますが、昭和の昔はそんなものだったんですね。
官庁街、などと大それたことを。
商店街はこれでも今より人が多いようです。今は中心部はゴーストタウン。倒産したデパートをランドマークだかなんだか横文字で言っていましたが、残そう、などと。中心部に賑やかさが戻ることは二度とないのですから悪あがきは止めて別の方向にもっていかないとだめでしょう。
工場地帯も今より活気があったようです。
時代が進んだということがはたして進化、進歩したのでしょうか。
※この何年後でしょうか、この大浜工場地帯の貨物列車引き込み線で液化石油ガス、すなわちプロパンガスを積載した貨物タンク列車が漏洩爆発事故を起こしたという話や、港で漁船に冷媒として使われていたアンモニアが漏洩して大事故が起きたなどという記録は出てくることがないようです。ガス漏洩事故は目撃した人から直接聞きましたが、もうその方達も亡くなりあらためて聞くことはできません。これが防災で言う所の「人は二度死ぬ」ということなのでしょう。肉体的な死が一度目の死、その人を知る人がいなくなってしまうのが二度目の死。二度目の死はさまざまな意味を持ちます。鳥海山の豊かだった自然も知る人がいなくなれば、、、また再三取り上げている蕨岡登拝道の文化も知る人も無く、伝える人もないまま終えようとしています。