鳥海山の事を調べていて、一番面白いのが明治、大正、昭和の初めの登山、その頃は登山というより登拝ですが、その山行を書いた記録を見るのが一番面白いです。最近のネット上の山行記録は読んでもちっとも面白みがない。花がきれいだった、景色がきれいだった、百名山のうちの一つに登ったという記事は100%面白みがありません。
清吉新道の生みの親斎藤清吉さんの「山男のひとりごと」以前読んだときは読み飛ばしていたようなのですが改めて読むとこういうことも書いてあったんだ、と気がつきます。昭和五年、鳥海山に詣でる人々は鳥海山を畏敬の念をもって「お北山」と呼んでいました。これは斎藤清吉さんが残してくれた「初めての鳥海山」の記録の一部です。太字、アンダーラインはこちらで付けました。
装束は白が基調だから、上、下ともに白衣。
菅笠、莫座、草鞋三足、六角杖を携え、肩には麻または和紙で作った紐状の注連をかける。握り飯は二日分、着換えとともに白の風呂敷で背負う。
酒田駅七時発、遊佐で降りて駅前出発は八時頃になる。総勢十三名。
それにしても農繁期の作業を休んで、山に出かけるのだから、一面の田圃で除草に精を出している人たちを見ると、いくら代参とはいえ、いささか申し訳ない。
蕨岡の坂の下の茶屋に立寄って休む。茶屋の「かあちや」は中々の人気者だから、みんなでワイワイからかってはいるが、実はこちらが彼女の怪弁に翻弄されてしまう訳だ。日く「この蕨岡の石段は、羽黒山の石段より長い。」とくるから「法螺もほどほどにしろ。」と皆大笑い。
当時の拝殿は現在のものより、更に一段上の頂きにあったから、急な石段を登り、それから山道を登るので大分高いし、展望はとてもよい。
更に道を変えて杉沢の熊野神社で昼食。
それからの山麓の道が、とても長い。
ようやく横堂に着く。荷物を置いて右手の御沢神社に降りる。途中の急坂には、私の村の綱講の人たちが、新しい登り綱を設置する。
現在「赤滝」といっている場所だ。
月光坂を登り限界杉で三時。大黒様のところで、筍採りの男二人にあう。我々も筍は採るつもりだったが時間がないので、彼等から今夜のおかずにする分を買った。
山は静かだし、若い者の集まりで脚もはやい。
案内人を買って出たHは、神官の代理だから、拝所に近付くたびごとに、三十メートルも手前から「杖を上げい!」と号令をかける。
つまり、神の在す所には、他所の不浄の土を持ち込む事を少しでも遠慮させるという意味らしい。
峯拝、箸子大神、御沢、神、大国主神等々と、撫林をぬけ灌木地帯を過ぎて、河原宿に至る迄でさえ、そうした所が八力所もある。
その都度「あゝやあ(奇)に、あゝやあ(奇)に」とお祝詞をあげる訳だから結構時間もかかる。
左側の滝が御神体、大澤神社です。この滝の左側へ鎖を伝って降りてきます。右の滝も御神体です。
前にも掲載しましたが、この鎖を伝って赤滝へ降ります。
この当時は登山といえば信仰登山です。物見遊山の山登ではありません。遠方からのお詣りは宿坊に泊まってからの登山ですが地元の方は朝早く上り、河原宿で一泊してからお参りしていたようです。なので握り飯は二日分持参しています。
いきなり登るのではなく初めは拝殿に詣でます。拝殿といっても今の場所ではなく現在の随神門をくぐって左ではなく、直進した所に見える石段です。先日羚羊とにらめっこした写真のある石段を登ります。急な角度で作ってありますので蹴込みも人の足が全部のっかる寸法のところはほとんどありません。手摺も今はさびて折れ曲がったり無くなったりで登るには注意が必要です。これからの季節になると虫よけスプレーも効かないくらい虫が沢山出てきますので登ってみたい方は覚悟のどうぞ。
そこから先は太田宣賢の「鳥海山登山案内記」橋本賢助の「鳥海登山案内」に詳しく書かれています。
斎藤清吉さんは今の酒田市大宮の方です。大宮の方々の代参には一度一緒になったことがありますが、各所で「あゝやあ(奇)に、あゝやあ(奇)に」と祝詞をあげていました。それを見ていた女性の登山者ご一行「ご詠歌ですか?」
酒田市広野の方々もかつては横堂、大澤神社へ綱講として綱を奉納していました。本文御沢神社とあるのは明らかに誤植でしょう。そこには鎖がかけてありますが、鎖は永久に使うもの、綱講のための上り下りに使うため、とは蕨岡の旧宿坊山本坊さんから伺いました。
拝殿は昭和二十九年に現在の場所に解体移設されたもの、松丘山山頂にあった時と同じ形をしているのが残された写真から確認できます。