鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

鳥海山矢島口七合目御田は(おだ)か(おた)か。

2024年09月09日 | 鳥海山

 現在矢島口七合目御田にはこのような標識が建てられています。

 Odaと書いてあります。またあるものには御田に(おだ)と仮名を振っているものがあります。ある方が本荘の山岳会のどなたかに問い合わせたところ(おだ)であると。

 ところが本荘の山岳会の大先輩斎藤重一さんはその著書の中ですべてに(おた)とわざわざ仮名を振っています。また払川ヒュッテの管理人だった佐藤康さんもその著書の中で御田には(おた)と仮名を振っています。

 またかつての「山と高原地図 鳥海山」の執筆者池昭さんもの解説の中で御田(おんた)とルビを振っています。実際足しげく矢島口を登り多くの人と会話したわけではないので断定はできませんが神様が御田植えするところというならやはり御田植場(おたうえば)、(おんた)となると思います。吹浦口の御田ケ原も(おだがはら)ではなく(おたがはら)です。数十年来鳥海山に登り斎藤清吉さんなどとと知り合いの方も(おんた)と言っていました。佐藤康さん、斎藤重一さんという矢島口の超ベテランの呼び方を尊重したいですね。

 ※宮崎の御田祭は(おんださい)、和歌山県丹生都比売神社の御田祭は(おんだまつり)ですが御田のあとに祭りが付けば御田は発音上(おんだ)の方がいいでしょう。


 斎藤重一「鳥海山」より

  
 佐藤康「ひとりぼっちの鳥海山」より。



 池田昭二「山と高原地図 鳥海山 1976」より。


 
 



2024年9月6日 コミュニティ新聞記事

2024年09月06日 | 鳥海山

 「山と高原地図 鳥海山・月山」の執筆者斎藤政広さんは酒田市在住ですが今回地元のタウン誌 コミュニティ新聞に「市民として見過ごせない鳥海山沖洋上風力発電の計画」という一文を投稿しました。コミュニティ新聞は酒田・鶴岡・遊佐の一部に無料で配布しているので全国紙、地方紙よりもまんべんなく届くのが利点で、かつてと編集者が変わったせいか中身もまともになってきています。

 今後我々は新しくこの地域で風力発電に反対する活動を行っていきますので同意いただけましたら署名等お願いすることもありますのでぜひともご協力お願いいたします。


木工房オーツー

2024年09月01日 | 鳥海山

 友人の木工房オーツー、7月25日の豪雨により床上60cm以上の浸水という相当な被害を受けました。当ページ左側に示されるブックマークにリンクが張ってありますが現在被害を免れたものを選別中です。

 何とか助かった商品を今日は購入させていただきました。

 いたってシンプルなキーホルダー、材質は知る人ぞ知るツーヤバール。(自宅に持ち帰りそうそう娘に見せたのが運の尽き、強奪されました。)

 これはいいなというものがありましたらiichiを通してお問い合わせください。

 ※鳥海山の仲間ですのでかってながら分類”鳥海山”にしてあります。


昭和27年の鳥海山に登ってみる

2024年08月28日 | 鳥海山

 明治末、大正期の鳥海山案内資料はありますが昭和初めころの資料がありません。今までに見た昭和の鳥海山案内でふるいものは昭和36年。今回見つけたのが昭和27年です。

 広げると大判地図が出てきます。

 まだまだ麓から歩いて登る健全な山です。

 宿泊施設情報も興味深いです。湯ノ台杉本屋は蕨岡の僧坊山本坊が経営していたもの。山頂小屋は神仏分離前は蕨岡のものでしたがこのころは完全に吹浦大物忌神社の管理下になっています。横堂小屋と河原宿小屋が蕨岡共栄社道者部となっています。昭和三十年ころまで蕨岡からの登拝が盛んでした。

 河原宿もこのころは小屋の前がニッコウキスゲの群落でした。川宿の小屋の先の草原はその後の幕営により荒廃地となりその後回復しないまま今に至っています。