さてこの絵はがきの鳥海山、どこから見たものでしょうか。横手から見たものではないかという方がいましたが横手には行ったことがないのでわかりません。どなたか教えてください。
カラーにしてみると、
横手から?発行が山形屋なんですよね。
さてこの絵はがきの鳥海山、どこから見たものでしょうか。横手から見たものではないかという方がいましたが横手には行ったことがないのでわかりません。どなたか教えてください。
カラーにしてみると、
横手から?発行が山形屋なんですよね。
二か月に一度の病院通い。なぜか流行るお医者さんで診察までの待ち時間はいつも二時間以上。ないか、循環器科なのでよそに変えるわけにもいかず、なのですが先日は寒波襲来の日で割と空いていて待合室も空きがあるくらい。
そこで診察前の血圧等はかるために呼ばれた名前が聞き覚えのある名前。戻ってきたその方にお尋ねしたところやはり大物忌神社の先の宮司さん。蕨岡へ行ったときは龍頭寺の先のご住職或いは山本坊さんと話をしていると必ず登場する御名前で鳥海山の古記録調べるのに熱心なお方と伺っていました。診察に呼ばれる前の間、鳥海山の、大物忌神社の歴史の話に花が咲いたのは言うまでもありません。
分かれる前にここにいつも登場する太田宣賢「鳥海山登山案内記」のコピーを差し上げる約束をして翌日送らせていただきました。
今日その前宮司さんから達筆のお手紙が届き、「鳥海山登山案内記」太田宣賢氏の御子孫に会うことがあったのでそれをコピーしたものを差し上げてきたとのこと。子孫の方もご先祖の残された書物を大変喜ばれたとのことでした。
待ち時間が短いと思われる半日でありました。
この一枚のはがきから様々のことが導き出されてきます。
白衣(びゃくえ)の道者(どうしゃ)が二十数名。ここまでカメラの暗箱を担ぎ上げるのも大変だったでしょう。
ここまで連れてきたのはおそらく蕨岡の先達。途中途中の拝所で祝詞をあげるたびに何銭かのお金が先達料とは別に入ります。
ここへ来る前には横堂で山役料を払い鑑札を購入しました。山役料を支払わないとその先登拝はできません。
松本良一「鳥海山信仰史」によれば、大正末の先達料は道者一人につき三十銭。それを受け取ることができるのは宿坊の長男のみ。三才から修行された「先達」のみが受け取る資格がありました。頂上までの三十三拝所、「おがみ」をあげて各拝所一銭宛三十三銭がまた収入となります。
百銭が一円。三十人も案内すればおよそ十円の収入になります。大正初めと末では物価指数も違いますので簡単に現在の貨幣価値には換算できませんが結構いい収入だったのではないでしょうか。これが蕨岡口が本来逆峯でありながら順峯を譲らなかった理由でしょう。先代龍頭寺住職が「霞を食らう」の霞がこの収入であること、順峯は逆峯に比べてはるかに儲かったのだと話してくれました。
カラーでプリントすると高いのでモノクロでバランスチェック
ちょっとだけ中身を紹介、別に出版するつもりもない手慰みなので。
小冊子のようなもの。Adobe Indesignで目次も簡単にできます。
今までここに書いたものを加筆、訂正、削除して。何人かの知人に構成していただいて。今回もまた校正、感想お願いしています。
とりあえず目次はこんなもの。