山の地名も面白いもので、出来上がった名前にあとから適当な由来が付け加えられますが最初は見た目で名付けられます。
鳥海山の名前についても諸説山ほどありますが、大昔は北山、飽海ケ嶽、鳳鳥海山、北仙の嶽、北の山等の名前で呼ばれていました。ここで取り上げるのは鳥海山そのものの呼び名ではなく、その中の地名です。
御峯口、破方口、ともに七五三掛連嶺即ち外輪山のうちのそれぞれ一つですが今は地図にも載っていないし知る人もいません。破方口は誤って記載されていますがまずは御峯口について。
前回引用させていただいた地図に破方口は載っていますが御峯口は載っていません。
清吉新道を開鑿した斎藤清吉さん、池昭さんのお弟子さんでわたしの大先輩の方は「清吉さんが お峯口と言っていた」ことを教えてくれましたがその御峯口がどこを指すのか具体的に場所を書いてあるものがありません。御峯口の名前が登場するのは次の通りです。
太田宣賢「鳥海山登山案内記」には
「伏拜既に塵寰にあらず〇御峯の如きは人をして羽化登仙の感あらしむ〇行者嶽の岩頭は役の小角が道路を通したる紀念として自其像を刻たるものなりと傳ふ風雨蝕して古香高し此より左折鐵梯に緣り千歲が谷(せんざいがたに)に下れば陰崖幽暗人をして悚然として毛髮を竪立せしむ」
とあります。七五三掛連嶺を歩き伏拝と行者岳の中間であることがわかります。
※ 千蛇谷は近年の呼び名、江戸時代には千載ヶ谷、千歲ヶ谷と呼ばれていました。おそらく仏教からくるものではないでしょうか。のちには仙者ヶ谷とも書かれるようになりました。古の噴火で大蛇が流れた、といったのを形容して千蛇谷と名付けたのではないことがわかります。
また橋本賢助「鳥海登山案内記」には次のように書かれています。
「山中第二の高點たる七高山を始め 、行者嶽・伏拜嶽・文殊嶽・御峰(おみね)等は皆此外輪山を形成する山々である。先づ七高山の頂から火口原を見下せば、新山との間に出來た雪田が分水嶺となって、東北に下るのが破方口(はほうぐち)、西北即ち左方に降下したのが仙者谷である。」
今度は位置関係がわからなくなってしまいます。しかしながら御峯口は一つの山であることがわかります。後半、破方口が谷であるかのように誤って書かれています。姉崎岩蔵「鳥海山史」は橋本賢助の丸写しですのでこの破方口については過ちをそのまま引き継いでいます。
ついで斎藤清吉さんが書いたものには何か所か御峯口が登場します。
- 薊坂の急坂を登り、お峯口から七高山を経て新山(頂 上)に着いたら六時半だった。
- 外輪の御峯口の下百メートルの所に、這松が少し頭を 顕している所があるので、そこで大休止。
- 鳥海君は、御峯口から単独行動で、外輪の道を西に降 りて行った。
薊坂を登りきると伏拝ですからやはり御峯口は伏拝の先、行者岳の手前のどこかであるようです。
破方口については何度も書いていますが続きは次回。