蕨岡の大物忌神社は、明治の神仏分離令が発せられるまでは栄えたところでした。吹浦の大物忌神社との紛争は各種の書に詳しく載っています。
この随身門をくぐり抜けた左方に拝殿はあります。
今日は雪が降ったため、参道を除雪している方がいらっしゃいましたが、顔を見ると、なんとかつて鳥海山頂で管理人をしていた山本坊のご主人。アララギ派歌人の鳥海昭子さんの身内の方です。何十年ぶりかに会うことができ、大物忌神社に関する様々なことを聞くことが出来ました。
この拝殿は昭和二十八年までは、随身門の左方ではなく、随身門をくぐって直進した方にありました。
雪の石段が見えますが、その上にさらに続いているのがわかります。その上に拝殿はありました。現在の拝殿は、それを昭和二十八年に解体して下の方にそのまま移設したものです。上にあった時は本殿の扉の向こうがまっすぐ鳥海山頂だったそうです。なぜ移設したかと言えば、そのころの拝殿屋根は檜皮葺き(ひわだぶき)で風にやられ一、二年しか持たず、建物も度々修繕する必要があったため下方に移設したのだそうです。
拝殿の中には三つの扁額が掲げられています。向かって一番左が勝海州の書。雄渾な文字で書かれています。残念ながらピンボケで載せることが出来ません。正面と右にある二つの扁額が下の写真です。
写真左は拝殿正面の扁額。熾仁親王書と書いてあります。明治の皇族有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう )の書ですね。熾仁親王を知らなくとも、皇女和宮親子内親王が本来嫁ぐはずだった人と言えばおわかりでしょう。
右側の扁額には鳥海山大権現と書いてあります。鳥海山大物忌神社の扁額は吹浦大物忌神社にもありますが、鳥海山大権現の扁額は蕨岡にしかないのだそうです。しかも、この鳥海山大権現の扁額は、神仏分離令の発せられる前までは、中央に掲げられていたのだそうです。下の全体写真をご覧ください。
額の周囲に黄金の龍が飾られています。こちらが正面に飾られていたというのも理解できます。庄内藩酒井の殿様の寄贈になるものだそうです。鳥海山の信仰の歴史を紐解くのは面白いですよ。
拝殿を出ると、すぐに見えるのが荘照居成神社 です。
昭和のころまで矢部駿河守 が祀られていることは隠されていましたが、祠の中から出てきた文書で公にされたのだそうです。なぜ隠されていたかと言えば、矢部駿河守は天保の三方領地替え から庄内を守り、それが当時の老中水野忠邦の忌諱にふれ、腹心の鳥居輝蔵の陰謀で江戸南町奉行を罷免となり、罪人として桑名藩へ預けられ、子は改易させられた、当時の公では罪人とされていたのですからおおっぴらに祀ることはできなかったわけです。毎年荘照居成祭が催され、その時には桑名からもお客様が来るという事でした。
今日は、久しぶりの方に思いがけず会うことが出来、いろいろなお話を伺うことが出来ました。これも雪が降り、除雪していなければ会うことが出来なかったのですから、偶然とそこに至る必然の妙には驚くばかりです。
追記:横堂の話をしていた時、スマホにとってある昔の横堂の写真をご覧に入れたら、自分も横堂に堂守としていたことがある、という話から昔横堂から赤瀧神社に綱をつたって降る話、その時ソブの上を歩くので足袋の底が赤く染まること、足袋の底がが赤くなっていなければ赤瀧神社に行った証拠にならなかったという話も伺いました。ソブというのは鉄分を含んだ赤い土のことをいうのだそうです。ソブ谷地の地名はそこから来たのですね。