謝罪したならば賠償をするのが常識です。
あやまるだけで済むと思うのは自分勝手なことである。
誤られた側は賠償を期待するし、してもおかしくない。
「ただより高いものはない」の諺もある。
理想国家日本の条件 さんより転載です。
謝罪外交のコスト
2013-05-21 川辺賢一氏 ブログ転載
http://ameblo.jp/kawabe87/entry-11535069583.html
今日は学生時代に受けた授業で、最も印象的だった一コマをご紹介したい
と思います。
その教授の授業は、いつも刺激的で、いまだにその時のレジュメを読み返して
参考にしている程です。
経済学説史の教授ですが、論壇やテレビなどでも活躍されている、インフレ
目標など徹底的な金融緩和を主張してきたリフレ派経済学者として有名な
方です。
マイケル・サンデルが日本の学生相手に白熱教室をやっていた時に、日本の
「謝罪外交」が話題になったことがあったそうです。
ある学生はだいたいこんな意見を言っていたようです。
(正確ではないかもしれませんが)
日本は過去の謝罪外交で、すでに多額の財政支出をしてきた。日本の財政
状況が厳しい中で、これ以上の財政支出はすべきではない。
しかし、謝罪することで関係が良好になるならば、謝罪は続けていくべきだ。
なぜなら謝罪は無料だから。
「お金を払うのはもうごめんだけど、謝って関係が良くなるなら謝ります」
ということです。
一見、もっともらしくもあり、個々の人間関係に適用する分には大きな問題
はないようにも思います。いわゆる「村山談話」などを継承する現在の日本
政府の認識と大きく変わらないかと思います。
しかし、この学生の発言を、たまたまその経済学説史の教授が聞いたため、
その授業の冒頭で白熱教室の続きが展開されることになりました。
論点は、本当に謝罪はただなのか。
さすが経済学の名物教授、経済学の基本原理であり、小学生でもわかる経済の
現実「ただの(フリー)ランチはない」というところから議論を始めます。
「ただのランチはない」
これほどわかりやすい表現はなく、
あえて言い換える必要はないかもしれませんが、
要するに「何を選択するにしても、選択には必ず代償が伴う」
ということです。
「ただのランチはない」という原理原則からして、謝罪によって良好な
関係を手にするならば、たとえ金銭的な代償を支払わずとも、
「金銭以外の代償」を支払わうことになります。
授業の時間制約を考えてか、自分たちで考えることを期待してか、
「金銭以外の代償がどんな代償なのか」については特に踏み込みません
でしたが、要するに、日本は精神的な代償、国家の気概や名誉に関わる
代償を日本は支払うことになるということだと思います。
プラトンやアリストテレスなど古代ギリシャの政治哲学においては、国家を
形作る要素として、気概を重視しております。
国民の気概から発生する正当なテュモス〈義憤〉こそ、国家の存立基盤です。
謝罪によって良好な関係を手にしようとするならば、金銭的な代償はなく
とも、国家の存立の根本にかかわる「気概」や「名誉」が傷つき、義憤なき
国民をつくりだすことになります。
果たして謝罪することで得られるものと失われるもの、謝罪しないことに
よって得られるものと失われるもの、単に金銭的な観点だけでなく、より
広い視点でコスト・ベネフィット(費用と便益)を分析すべきなんじゃないか
という問題提起でした。
経済学者らしいと言えば経済学者らしいですが、経済学者から謝罪外交の
「お金じゃ代えられなれないコスト」を考えさせられるとは、思っても
おりませんでした。
「ただのランチはない」なんて、あえて立ち止まって考える必要もなく、
原理というには少し大袈裟だと思っていましたが、基本中の基本であるから
こそ、意外と重要な視座を提供してくれるものです。
さて、安部政権は戦後レジームからの脱却を理念に、村山談話の見直しを
公約にしていたはずです。
その公約を掲げて、選挙に勝ったんですから、村山談話の踏襲は民主主義
への背信ではないでしょうか。「踏襲」ではなく、踏蹴、踏んづけて
蹴り飛ばすはずではなかったのでしょうか。その威勢はどこにいって
しまったのでしょうか。
安倍政権には謝罪外交や村山談話踏襲のコストをしっかりと
認識していただきたい思う次第です。