理想国家日本の条件 さんより転載です。
《日中近代史を語る時、出発点は尼港事件、済南事件、通州事件である。》
松井石根大将率いる旧日本軍は、南京で大虐殺を犯した事にされている。これを当時、国でさえなかった中華人民共和国が、米国が東京裁判用に捏造した架空の事件、「冤罪」を政治利用した辻褄の合わないプロパガンダに利用している。併し、国際社会には真実よりもプロパガンダの方が浸透し易い。日本は無実を国際社会に訴え続けていかなければならない。
敗戦後の70年間の日本人は、まるで別人格に精神改造されてしまったようである。やられた事は一切口にせず、愚か者とはいえ一国の首相がアジアの人々にご迷惑をかけたと閣議決定までして「植民地支配と侵略によって諸国民に多大の損害と苦痛を与えた事を再確認し、謝罪を表明」してしまう。村山富市という老人は、口だけで責めてくる相手を疑う事を知らず、先ず、自分の世代と父の世代の自国民を信じようともしなかった。
日本人の多くは、「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」を鵜呑みにする前に、何故それが真実であるかどうか検証する(疑ってみる)事もできなくなってしまったのだろうか。GHQが敗戦国民に施したウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムとは、実に絶大な効果をあげたものだ。その後の歴史を見ると、日本人にだけ格別相性がいい洗脳工作であったようだ。日本人以外の国民には悉く失敗している。
日本人が近代になって受けた蛮行を時系列で検証する為には、先ず「尼港(にこう)事件」から説明すべきだろう。
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▫尼港事件は、ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスクで発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件である。
港が氷結して孤立した状況のニコラエフスクをパルチザン部隊4,300名(ロシア人・朝鮮人・支那人の混成部隊)が占領し、ニコラエフスク住民に対する略奪・処刑を行うと共に日本軍守備隊に武器引渡を要求し、これに対して決起した日本軍守備隊を支那海軍と共同で殲滅すると、老若男女の別なく数千人に及ぶ市民を虐殺した。
殺された住人は総人口の約半分、6,000名を超えるともいわれ、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含んでいた為、国際的批判を浴びた。日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた。
1917年のロシア革命以後は、共産革命を名乗るだけで、ロシア共産党からふんだんな資金と武器が提供された時代である。兵匪(盗賊団)もそうして蛮行を働いていた時代である。
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▫済南事件は1928年(昭和3)5月3日、中国山東省の済南に於ける、国民革命軍の一部による日本人襲撃事件、及び日本の権益と日本人居留民を保護する為に派遣された日本軍と、北伐中であった蒋介石率いる国民革命軍との間に起きた武力衝突事件。藤田栄介青島総領事は、国民革命軍による組織的に計画された衝突と述べている。
日本人居留民12名が殺害され、日本側では「膺懲」気運が高まったが日本は報復などしなかった。一方、日本軍により旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16名が殺害されたが、支那側はこれを重く見て、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。更にこれを機に、日本軍は増派を決定した。
注目すべきは、先にやられた日本人より、国際社会に向けて大騒ぎしたのは支那人の方であった事だ。
衝突は一旦収まったものの、5月8日、軍事当局間の交渉が決裂。日本軍は司令部と城壁に限り、砲撃を開始。安全地帯と避難路を指定した為、国民革命軍は夜陰に乗じて城外へ脱出し北伐を続行した。5月11日、日本軍は抵抗なく済南を占領した。支那側によれば、その際、支那軍民に数千人の死者が出たとされる。藤田栄介青島総領事によると、支那商民らは日本軍の正確な砲撃によって被害のなかった事に感謝していたという。
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▫通州事件とは、1937年(昭和12年)7月29日に支那の通州に於いて冀東防共自治政府保安隊(支那人部隊)が日本軍部隊・特務機関及び日本人居留民を突然襲撃し、大量虐殺した事件である。日本軍は壊滅され、日本人居留民のうち女性は殆んど強姦されて殺害され、殺害方法も猟奇的なものが多かった。
冀東政府保安隊は日本軍を全滅させると、日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、略奪・暴行・強姦などを行なった。
7月30日午後通州に急行した天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長の萱島高の証言によれば、飲食店の旭軒では40から17~8歳までの女7、8名が強姦後、裸体で陰部を露出したまま射殺され、うち4、5名は陰部を銃剣で刺されていた。日本人男子の死体は殆んど全てが首に縄をつけて引き回した跡があり、「血潮は壁に散乱し、言語に絶したもの」であった。
第2連隊歩兵隊長代理の桂鎮雄の証言によれば、旅館の近水楼では、入り口で女将らしき女性の遺体があり、着物がはがされ、銃剣で突き刺さされ、また陰部は刃物でえぐられていた。帳場配膳室での男性の遺体は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺されていた。女性遺体は裸体で、局部などに刺突の跡があった。カフェの裏で殺害された親子の子は、手の指を揃えて切断されていた。南城門の商店の男性遺体は、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた。
また支那駐屯歩兵第2連隊小隊長の桜井文雄の証言によれば、守備隊の東門には、等間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっていた。鼻に針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体が、ゴミ箱や壕から続々発見され、ある飲食店では一家全員が首と両手を切断され惨殺されていた。
14、5歳以上の女性は殆んど強姦され殺害され、旭軒では陰部に箒(ほうき)を押し込んであったり、口に土砂を詰めてあったり、腹を縦に断ち割った遺体があった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせて鉄線を貫き、6人数珠繋ぎにして引き回された形跡のある死体もあり、池は血で赤く染まっていた。
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余談であるが、通州事件の写真の多くは中共の「南京大 記念館」に日本軍の仕業として展示されている。「南京大虐殺」は実際には無かった事件であるから、展示写真の殆んどは、日本人被害者のものであろう。
なぜ日本人ばかりが、こういう蛮行を度々受けるのかを考える必要がある。私見だが、一口に言って「日本政府」が弱腰だったからではないか。政府が弱腰なのは、何も大東亜戦争に敗れた時からではない。白人列強諸国に比べて、大日本帝国政府の外交官・軍隊は、良く言えば「礼儀正しく・心優しい」集団であった。
併し、弱肉強食の国際社会では、これが「弱味」と誤解されてしまう。白人列強は、残酷に、徹底的に痛め付けてから、一般人が住み始めるから、現地人には恐れられ、白人居留民の安全は確保された。下手な事をしたら後で大変な目に遭う。これが立派な「抑止力」として機能した。
大日本帝国陸軍は、前もってそういう残酷な痛め付けなどしないし、外交官も横柄な態度は取らない。端的に言えば「舐められていた」のである。「尼港事件」や「済南事件」の時に、〈徹底的に残酷に報復して恐れられ〉ていれば、「通州事件」は起きなかったかも知れない。私の識る限りこういった日本人居留民の大量惨殺事件は軽く10を超える。
「南京大虐殺」を本当に遣って退けるくらいに、大日本帝国陸軍は残虐だと恐れられていれば、これらの事件は無かっただろう。併し、『日本人には、民族性としてそういった残虐性は皆無』であった。日本人居留民が惨殺されても、大日本帝国陸軍は凄惨な報復などしなかったのである。
その「心優しき我々の先人たち」が、謂れのない冤罪を被せられているのである。それらの汚名を雪ぐのは、日本人の子孫たる我々の使命ではないのか。事を荒立てまいと、取り敢えず謝罪しておくのは正しい事なのだろうか。私はそうは思わない。
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忘れ去られる通州事件
http://the-liberty.com/article.php?item_id=9706
The Liberty Web 2015.05.31
「日米戦はともかく、日中戦争は侵略でしょ」と言われたら?―― 左翼が言わない3つの日本人襲撃事件
1940年ごろの勢力図(Wikipedaより)。
「アメリカとの戦争が自衛戦争だとしても、日中戦争は侵略でしょ?」と言われたらどうしますか?
戦後70年を迎えた今年、先の大戦での日本軍の評価について、国論が割れています。特に、支那事変(日中戦争)については、侵略者として日本を位置づけた「村山談話」をはじめ、日本軍は"悪魔の軍隊"であったかのような根強い意見もあります。
日本軍は、村山談話が言うように、"侵略者"だったのでしょうか。
本誌7月号記事(http://the-liberty.com/article.php?item_id=9657 )では、支那事変(日中戦争)の国際情勢における背景をご紹介しております。
本欄では、日本軍が支那事変(日中戦争)に引きずり込まれたきっかけとなる、中国による日本人への襲撃事件を取り上げます。
(1)南京事件(1927年3月24日)
まず初めは「南京事件」です。中国が主張する「南京大虐殺」とは別の事件です。
「南京事件」とは、中国大陸の統一を目指していた「中国国民党軍(当時、国民革命軍)」が、南京を占領した際に、日本を含む外国の領事館や住宅を襲い、略奪や殺害などを起こしたもの。
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通州事件で虐殺された日本人の写真が「南京大虐殺」として掲示されている
南京大虐殺にすり替えられた通州事件とは?
通州事件は、南京大虐殺などというホラ話と異なり、実際にあった日本人皆殺し事件です。