某FM番組で、ひたすらリスナーからのメッセージを読んでいるものがある。
聞いてるとまったくの私信で、本人以外のリスナーにはなんのことやらわからない内輪ネタも多い。
つまり採用あたってまったく吟味がなされていないのだ。
僕らラジオ番組に関わるものにとって
このパターンは所謂「反面教師」で、
よく先輩ディレクターに
ぶっとばされないものだと変な感心をしたりする。
はじめは、なんだかそういう意味で恥かしく、他人の番組ながら身悶えていたのだが・・・
・・・ところが最近なんだかいいなと思い始めた自分がいる。
普段文章なんか書かないトラックドライバーや、外回り中の営業マン。
オフィスに残った女子社員、子供を送り出した主婦・・・
そういった人たちの生々しいほどの素顔が見えてきた。
僕は以前、
クリスマス特番で5時間にわたり
やはりメッセージを一人で読み続ける番組をいただいた。
最初のうちはCM中、
サブで
アンジーやハッチャンと
「ああ屁が溜まる。」とか
「ケツと椅子の境目がわからなくなった」
などと言っていたのだが。
番組が進むにつれ、自分に異変がおきた。
「きょうはご馳走用意して待ってます」
「もうすぐ仕事おわるから待っててね」
「パパ、ケーキ忘れないでね」
「今年も会えないけれど、愛しています」
・・・単純に、単純なメッセージを読んでいたら
不意に目の前がにじんでゆれた。
・・・やはり見えてきたのだ。
誰でもない誰かを待つ窓の灯りと
歩いたことのない家路が。
見知らぬその人の家族、恋人の
精一杯、幸せを求める暮らしが。
ラジオは。
生々しいほど、あるときは危険なほど、人々の生活に密着し、
思い入れを持たれるメディアだ。
そして時にはそれ故、
何より「優しい」メディアだと思う。
テレビが大きなガラスがはまった窓ならば、
ラジオは小さいながらガラスのはまっていない窓だ。
そこからは外の風も吹き込むし、
団欒のいい匂いも漂ってくるだろう。
だからこそ、ラジオに出るときは
テーマがなんであれ、
僕もできる限り生身の自分でしゃべろうと心がけている。
となりに座っているつもりで。
かつて
僕にとって
いつもそばにいてくれたのが
ラジオだったように。
聞いてるとまったくの私信で、本人以外のリスナーにはなんのことやらわからない内輪ネタも多い。
つまり採用あたってまったく吟味がなされていないのだ。
僕らラジオ番組に関わるものにとって
このパターンは所謂「反面教師」で、
よく先輩ディレクターに
ぶっとばされないものだと変な感心をしたりする。
はじめは、なんだかそういう意味で恥かしく、他人の番組ながら身悶えていたのだが・・・
・・・ところが最近なんだかいいなと思い始めた自分がいる。
普段文章なんか書かないトラックドライバーや、外回り中の営業マン。
オフィスに残った女子社員、子供を送り出した主婦・・・
そういった人たちの生々しいほどの素顔が見えてきた。
僕は以前、
クリスマス特番で5時間にわたり
やはりメッセージを一人で読み続ける番組をいただいた。
最初のうちはCM中、
サブで
アンジーやハッチャンと
「ああ屁が溜まる。」とか
「ケツと椅子の境目がわからなくなった」
などと言っていたのだが。
番組が進むにつれ、自分に異変がおきた。
「きょうはご馳走用意して待ってます」
「もうすぐ仕事おわるから待っててね」
「パパ、ケーキ忘れないでね」
「今年も会えないけれど、愛しています」
・・・単純に、単純なメッセージを読んでいたら
不意に目の前がにじんでゆれた。
・・・やはり見えてきたのだ。
誰でもない誰かを待つ窓の灯りと
歩いたことのない家路が。
見知らぬその人の家族、恋人の
精一杯、幸せを求める暮らしが。
ラジオは。
生々しいほど、あるときは危険なほど、人々の生活に密着し、
思い入れを持たれるメディアだ。
そして時にはそれ故、
何より「優しい」メディアだと思う。
テレビが大きなガラスがはまった窓ならば、
ラジオは小さいながらガラスのはまっていない窓だ。
そこからは外の風も吹き込むし、
団欒のいい匂いも漂ってくるだろう。
だからこそ、ラジオに出るときは
テーマがなんであれ、
僕もできる限り生身の自分でしゃべろうと心がけている。
となりに座っているつもりで。
かつて
僕にとって
いつもそばにいてくれたのが
ラジオだったように。