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1995年の阪神淡路大震災がきっかけとなり自動書記で突如絵を描き始める 絵の仕事は26年目 ブログ光のチャレンジは11年

阪神淡路大震災で授かった能力(10)

2012-01-28 | シリーズ「アズミックアート物語」1~20
「テレパスアート」の話の続きです。

阪神淡路大震災がきっかけとなって始まった「自動書記」による線描画(宇宙画)から、そんなふうにして自然に「ヒーリングアート」に移行し(2004年秋からはアクリル彩色による「テレパスアート」に変更)、今春で15周年を迎えます。

今日は、ごく初期の頃の印象に残っている絵についてお話します。
ある若い女性からおばあさん(祖母)の絵を頼まれました。その方はご高齢の上、(自宅か病院かは忘れましたが)病気で療養中ということでした。描いてみると(私の場合描き終わるまでどんな絵になるかは私自身にもわかりません。先にイメージが浮かんでそれを描くというのではありません)、なぜかそのおばあさんの若い頃の「お嫁入り」の風景になりました。

それは古風な(その当時のままの?)お嫁入り風景のようで、角隠しの「花嫁衣装姿」で、なぜか川船(渡し)に乗って岸辺に着いたところのようでした。
そして偶然にもその絵を描き終えた頃に、ちょうどそのおばあさんが亡くなったという知らせが来ました。
それで(その頃は電話で絵の説明をしていたのですが)その絵の意味を、彼女にお伝えしました。

もしかしたらそのおばあさんにとっては、若い頃のその初々しいお嫁入りの時が、「この世での最も仕合せな時」だったのかもしれない、と。
そして、おばあさんは死の床でその時の気持ちや風景をまざまざと思い浮かべながら、まるで自分が再度お嫁に行くような?華やいだ晴れやかな気持ちで、あの世(向こう岸)へと安心して渡って逝かれたのではないでしょうか?とお伝えしたのでした。

人はそんなふうに、死の間際にはもしかしたら「自分が最も幸せだった時のこと」を思い浮かべるのかもしれないと感じた、それはとても印象に残る絵でした。
またそれだけでは無く、一枚の絵がさまざまな重層的な意味を含んでいると感じます。

例えばこの絵では、かつてはお嫁に行くことはまるで「死に赴く」ぐらいの覚悟の要ることだったことを想像させます。
その絵には相手(花婿)の姿は描かれていませんでしたが、昔は「相手の顔も知らずに嫁ぐ」ことも多かったことでしょう。
「結婚は人生の墓場」という言葉もあるように、花嫁衣装が死に装束姿?の白無垢だったのも、そういう覚悟をうながすものでもあったのかもしれません。

それでもこの亡くなった女性にとっては、若かりし頃のそのお嫁入りの時こそが「最も心躍る期待に満ちた最高の時!」だったのではないでしょうか?

そしてそれはまた、「死」というものがそんなふうに決して暗いマイナスなものでは無く、遺された孫娘(絵を頼んだ人)に対してその女性(祖母)が、「死を決して怖れないように、また私の死を嘆かないように。私はとても幸せな気持ちで彼岸に渡って逝くのだからね。安心してね」ということを伝えたかったのではないかという気がします。

その絵を描かせていただき、「死」に対してもそういう観点から臨むことも出来るのだと私も初めて気づかせていただき、今でもとても感謝しています。

結婚するということは、ある意味で「エゴ」(自我)との闘い?という面もあるのかもしれませんが、「死」はそういう意味では「エゴ」の終わりというか、肉体の終わりではあっても、決して魂の終わりでは無く、そこからまた新しい人生が始まっていくのだということも、絵から教えられました。

まるでお嫁にいく(神の花嫁になる=宇宙と合体する!?)ような新鮮な気持ちで、
ワクワクと死んでいける時代がすでに来ているのかも?
かく言う私は誰よりも「こわがり」なので、エラソーなことは言えませんが。





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阪神淡路大震災で授かった能力(9)

2012-01-27 | シリーズ「アズミックアート物語」1~20
今日は(これまでの話を読まれた方はすでにご存知かと思いますが)、そのようにして生まれた線描画(宇宙から降りてきたメッセージ!?)を「どうして彩色するようになったか」といういきさつについて書きます。

1996年初夏にユカタン半島の遺跡を巡るツアーで出逢った彼が、まさかそのような彩色の能力があるなんて、当初私は全く知りませんでした。(彼と親しくなったのは実はある「本」がきっかけなのですが、この話についてはまた後日)
それまで彼と絵の話をしたこともなかったからです。

ある時、あるリゾート地で友人がやっているギャラリー&喫茶店で私と知人(本格的に絵を描いている人)との「二人展」をやらないかという誘いがあったのです。「お店の賑わいになるのなら」と気軽な気持ちで引き受けた私は、ほとんどをその知人に頼り、私は線描画を幾つかそのまま額に入れて飾ればいいだけだから~と、単純に考えていたのです。
額もわざわざ買うのでは無く、貸してくれるというので、ほんとに「楽ちん」と思って引き受けたのです。

ところが、展覧会が近づいても知人からは何の連絡も無く、私が出した問い合わせにも返事が来ないのです。
それでお店に迷惑はかけられないと思いその知人には断りを入れて、もう一人別の心当たりのあった人と一緒にやることに、急遽の変更になってしまいました。
(その別の人というのは、私の線描画を見て突如絵を描き始めた若い女性です)

そんな急な変更があったために、まるで私の絵がメインのような感じになってしまい、展示数も増えた上に、線描画は元々小さなサイズ(B5ぐらい?)の「落書き帖」に走り描きされたようなものなので、そのまま額に入れても(彩色無しでは)あまりにも全体の迫力が足り無いという気がしたのです。

それで困ってしまい彼に相談したところ、何と彼が自分がその彩色をしてもいいよと言い出したのです!
おまけに彼は「トレース」も出来、線描画を和紙に「拡大コピー」することも出来ると提案してくれたのです。

青天の霹靂でよく話を聞いてみると、実は彼は昔絵画教室で油絵を習ったことがあると言うではありませんか。

しかも(その頃の彼はある織物会社の企画部に十年近く働いていて)色を見分ける力もあるし、それまで別の会社でTシャツにロゴを描く仕事をしたこともあると言うのです。
これはもうほんとに願ったり叶ったりの嬉しいビッグニュース!でした。

話の途中ですが、このつづきはまた明日。今日はこれから出かけます。



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阪神淡路大震災で授かった能力(8)

2012-01-25 | シリーズ「アズミックアート物語」1~20
阪神淡路大震災がきっかけとなって突如授かった能力はさまざまありますが、今も続いているものもあり、自然に消えていったものもあります。今日はリーディング&ヒーリング能力、そして歌う能力について書きます。

1996年夏に広島に移った翌年の春、なぜかユカタン半島の遺跡巡りのツアーに参加することになりました。
(この前後のいきさつについてはまた別の機会に書きます)

そのツアーの中でもいろいろ不思議なことがありました。
ツアー最初の夜のことです。二人部屋で、私は知り合って間の無い広島の知人と同じ部屋だったのですが、その人が眠る前に自分の両腕をさすりながら、「昔からなぜか腕だけが冷えてね、、」と語り出したのです。

それで何気無くその腕を触ったら突然に「その腕が冷えるのはどうしてか」という、過去生?での彼女の体験を私がとうとうと話し出したのです。
それは本当に思いがけないことでしたが、彼女は泣き出して、うん、うんとうなづきながら聞いてくれて、(その話の間中私は彼女の腕を自然にさすっていたのですが)話終わる頃には「何だか腕があったかくなったわ」と言ってくれたのです。
そして、その後も冷えることなく「すっかり治ってしまった」と、広島に帰ってからも感謝され私の方がびっくりでした。

その能力は今も少しは残っているようで、時々人のからだに触れるとその箇所から伝わってくる情報などがなぜか自然にわかることがあります。例えば誰かをマッサージしながらそういう「情報」?がひとりでに私の口から出て来ることがあります。
特にそうしようと意識してやるのではなく、ただその部分の細胞?(DNA?)の記憶を読んで?それをそのままその人に伝えるような、そんな感じです。(それが果たして当たっているのかどうか?はわかりませんが。。)

この能力がどうやって芽生えたのかはわかりませんが、その前にメキシコの「太陽の道」と呼ばれているところにある遺跡の上で、私は指先を飛んで来た虫に刺されてしまい、 そのツアーに参加していた一人の日本人女性がその場で「ヒーリング」で治してくれたこととも、もしかしたら関係しているかもしれません。それは何かの毒虫だったようで、もの凄く痛くて指先が急激に腫れたのですが、彼女の治療のおかげでその場でほとんど良くなったのです!

それにはほんとうに感動しました。それは私にとって初めての「ヒーリング」体験でしたが、今でも彼女のヒーリング能力の高さはほんものだと信じています。
(あとで知ったのですが、彼女は東京でも名の知れたプロのヒーラー の方でした)
その彼女の手腕を(ヒーリングされながら)見つめているうちに、なぜかその能力が私にも移って来た?のではないかという気がします。

と、言うのも、そういうふうにして突然に「回路が開かれた」人が他にもいるからです。
私の描いた線描画を見て、「色が塗りたくなった」と絵のコピーに水彩絵の具で彩色してくれていたある若い女性が、急に自身も絵が描けるようになり、その後もどんどん描き続けるようになったりとか、展覧会に来てくれた子供がその場で同じような絵を描き出したりとかということもありました。
同じ部屋に置かれた二つの楽器のように、お互いに「共鳴」 するのかもしれませんね。

それから私の場合はその後、特に小鳥をヒーリングする機会が多くありました。
山の中で暮らしていた頃は、小鳥が突然に失速して落ちて気を失ったり、間違えて窓ガラスや木にぶつかって体のどこかを傷めるということがよくあったりして、そういう時には掌の中で小鳥をあたためてまた飛べるようにしてあげたりしました。
ある時、小鳥同士の喧嘩?(なわばり争い?)でやられたしまった方の小鳥を介抱していたら、その小鳥の「恐怖感」のようなものがまるで自分のことのように伝わって来ました。

このような能力が今でも続いているのかどうか?は(試す機会が今は少ないので)わかりませんが、貴重な体験でした。
即興で歌う能力も突然に開かれたのですが、こちらの方は今はほとんど消えているかもしれません。

長くなりますので、この話はまた今度。 ご愛読に感謝です。





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阪神淡路大震災で授かった能力(7)

2012-01-23 | シリーズ「アズミックアート物語」1~20
今日は「テレパスアート」についての話です。

阪神淡路大震災がきっかけで「自動書記」が始まり、1995年の夏から広島に一年暮らしたのですが、その折にメキシコ(ユカタン半島)へのツアーに参加しました。
それは普通の観光ツアーでは無く、ある霊能力者(外国人)の女性を中心にしたスピリチュアルなツアーだったのです。
どうやってそのツアーを知ったのか、なぜ参加することになったのか?
本当に不思議なエピソードがたくさんあるのですが、その詳細はまたの機会に書きます。

さて、その旅の途上に、思い付くままに(メモ代わりの)スケッチを毎日書いていました。何気無く描いていたのですが、驚いたことにその絵が私の知らない人の情報を伝えていることがわかったのです!

ある時その絵の中の人物がどう見てもツアー仲間のある人に似ている気がして、その人にその絵を見せたのです。
すると、その女性がその絵の中の犬(自動的に描かれていた)を指差して「これはうちのOOだわ!」
「うちに置いて来たからずっとこの子のことが気になって、いつも思い出していたのよ」とびっくりされたのです。
面白いことにその犬が何を考えているか?マンガのような吹き出しの中に「犬語」?も描かれていました。

その後帰国してからその人から今度は妹さんの絵を頼まれたのです。
妹さんの住所などは伺わず、お名前だけを聞いたと思いますが、その絵ではなぜかよく似た二人の登場人物(女性)を描き、意味はわからないままにその人に見せたのです。
すると、実は妹は「双子」で、だから絵を頼んだ妹以外にもう一人妹がいるのだと打ち明けられたのです。
一切何も知らずに描いた私の方がまさにびっくり の体験でした。

そんなこともあって、その後も頼まれるといろいろな人にファックスで気軽に絵を送ってあげたりしていました。
もちろんお金はもらわず、その頃は遊び半分で無料で描いていました。
ボールペンだけで描いた、彩色無しのまるで「落書き」のような線描画です。
(最初は「ヒーリングアート」と呼んでいました)
絵が届いた後で私に電話をかけて来て下さった人には、簡単な説明もしました。

そのうちに、その絵を喜んで下さる人がどんどん増えて、あちこちから頼まれるようになり、(ほとんどが友人や知人関係からの紹介でしたが)ある日あるきっかけから、突然にそれが私の「仕事」になったのです!

このいきさつについては以前HPに書きましたので省略しますが、その仕事が始まった日が1997年の5月3日でした。
それはあの阪神淡路大震災の直前に私に降りて来た「宇宙からのメッセージ」!?に予言されていた、
まさにその日だったのです!(正確に言うと日付は同じでもなぜか一年遅れでしたが)
その後は仕事として絵の代金もいただくようになり、いつからかは忘れましたが水彩絵の具による彩色もするようになりました。

そういうわけで、それから途中何度か休むことはあっても今日までその絵の仕事が続いています。
(2004年の秋からは「テレパスアート」という名称に変更しアクリル絵の具による彩色になりました)
突然の「自動書記」から始まった「宇宙画」(線描画)が、このようにして自然に「テレパスアート」に比重が移行していったのです。

今年はその「テレパスアート」がめでたくも15周年を迎えます
これまで応援し続けて下さった方々に心から感謝です。

さて、明日はどんなお話になるでしょうか。お楽しみに



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阪神淡路大震災で授かった能力(6)

2012-01-22 | シリーズ「アズミックアート物語」1~20
さて、そのようにして突如授かった「自動書記」で描かれたたくさんの線描画の中から
「ホワイトホール」と題された富士山の絵をご紹介します。(彩色は相棒です)




絵が小さくてわかりにくいかもしれませんが、
富士山の上には地震計?のようなものがなぜかぶら下がっています。
その左右には小さな渦巻きが描かれています。

今日急にこの富士山の絵をご紹介したのには実は訳があります。

京都駅の(伊勢丹7階にある)美術館「えき」KYOTOにて
生誕250年記念展「北斎の富士」が現在開催中なのです。
本日は最終日で、午後5時(入館は4時半)までで終了です。

葛飾北斎の描いたたくさんの富士山。どうぞお見逃し無く!

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