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1995年の阪神淡路大震災がきっかけとなり自動書記で突如絵を描き始める 絵の仕事は26年目 ブログ光のチャレンジは11年

阪神淡路大震災で授かった能力(15)

2012-02-09 | シリーズ「アズミックアート物語」1~20
今日の話(旧セルヴィスギャラリーでの展覧会のこと)は、「家と自尊心(9)」に書いた話とも関連しています。

なぜこの会場(宮迫千鶴さんたちと同じギャラリー)で私たちが展覧会をすることになっのたかという詳細はまたの機会にしますが、ともかくとても良い立地(改装される前の大阪駅コンコース内)でした。

そのためもあって、この展覧会では(寒い時期だったにも関わらず)思いがけずたくさんの方にご来場いただきました。
その季節としては記録的な?入場者数だったようで、この企画を手伝ってくれた関係者やプロのスタッフの方々も驚いて、不思議がられたぐらいです。

私は心の中で、この展覧会は阪神淡路大震災で亡くなられた方たちへの鎮魂と思っていたのですが、なぜか絵を観て涙される方々も随分おられたのです。
まるで彼らが甦って共に観に来てくれたようなそんな気がしました。

3週間の会期中にポストカード(第1集と第2集/この頃は第3集はまだ発行出来ていませんでした)を求めて下さった方も大勢おられ、そして絵を観られたたくさんの方が一言メッセージを書いて下さいました。
(この展覧会をきっかけにして実にいろんなご縁が広がっていきましたが)それから11年経った今も、思い返す度に感激と感謝の想いを抱きます。
昨年の3・11 東日本大震災以降は特にその想いが深いです。

ところで、最近『バシャール × 坂本政道 人類、その起源と未来』(ダリル・アンカ 坂本政道 / VOICE)という本を読んだのですが、その中に出て来る話と「宇宙画」(線描画)との共通点などにもいろいろ気が付きました。
詳細はまたの機会に書きたいと思いますが、特にUFOに関する話題が興味深かったです。

下記の絵のタイトルは『スペースハーモニー』です。
2001年の展覧会で全40作を展示した折に、一番最後に仕上がった作品です。
(この作品はまだポストカードになっていません)




(無断転載およびコピーはご遠慮ください)

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阪神淡路大震災で授かった能力(14)

2012-02-06 | シリーズ「アズミックアート物語」1~20
これまでの経験の中から、(狭い見聞ではあるが)私の心に残っていることを幾つか書いてみる。

1)ある日突然メッセージが降りて来た場合、そのことを「秘密」にしない方がいい。
誰かに話してみることで、客観性が得られるから。そしてそのメッセージが、ヘンなものか、そうでなく「ほんもの」かどうか?もある程度知ることが出来るので、身の危険を避けられる。

阪神淡路大震災のずっと前にある知り合いから聞いた話だが、その人の友人だったある若い男性にある時からいろいろなメッセージが降りてくるようになったそうだ。最初はとてもそれがよく当たったらしい。それでどんどん信じるようになり、すっかりのめり込んでしまったようだ。そうしてその言う通りに行動しているうちに、やがて、そのメッセージがその彼に「死んでしまえ」というようなものに徐々に変わって行き、最後は彼は遂にその通りにしてしまったという。

かつてはインドに行くとインドに魅入られてしまって日本に帰ってもなじめず、一生を棒に振ってしまう「インド病」?のような若者も多く、ヒッピーの文化が盛んだった時代があったが、彼もその一人だったと聞く。自分の人生の指針や拠り所をそのメッセージに求めようとしたのかもしれないが、その話を聞いた時には本当にゾッとしたものだ。
でもその話を聞いていたおかげで、私はかなり「気を付ける」ことが出来たことを今も感謝している。

2)メッセージの価値を「数値化」しない方がいい。「天狗」にならないで済むから。
これは広島の三上晃先生に教えていただいた教訓でもある。

三上先生は植物さんを通して何でも知ることが出来、現在のようにMRA(磁気共鳴装置)?などがまだ普及していない頃から、数値でエネルギーや波動の高さを測定することが出来る器械も発明されていた。

それで、(今でも存命だと思うが)かつてある女性画家(花や植物の絵ばかりを描く)から頼まれてその絵の測定をし、「お墨付きを与える」ことをしたそうだが、その後発売された彼女の画集にはその数値が掲載され、その絵の価値が証明された?ことによって、それまで以上に人気を博し、その後彼女は少し天狗になってしまわれた?らしい。

三上先生はそのことを嘆かれ、私に少々後悔めいたことを言われたのだ。そして何度も「普通に生きなさいよ」と諭して下さったのだ。その言葉を私は今でも自分への「戒め」と思って大事にしている。

私も広島でその人の花の絵を観たことがある。その折は三上先生の講演とセットの展覧会で、会場に飾られていた絵は大作揃いだった。また大阪でも彼女の個展があり交流会にも出席したが、その時のその人のいかにも時代がかった(まるで神代の巫女さんのような?)衣装と雰囲気に驚いたことがある。もちろん何を着ようと本人の自由ではあるのだが、なぜか「場違い」な?印象を受けて私は少々違和感を覚えたのかもしれない。

(これまでのブログに)笛を作った話や線描画の話を書いたが、もちろんそれらの線描画や笛も三上先生はその器械で測定して下さったのだ。
そして「これ(線描画)をこれから研究してみますが、でももしかしたら宇宙のマンガやポルノかもしれませんよ?」と言って呵々大笑されたのだ。

その笛の裏には三上先生が書いてくださった数値が今でも残っている。線描画の測定結果も教えていただいたが、それを人に公表しないようにと言われたので、私はこれからもその約束を守っていくつもりだ。

線描画の研究結果の方はどうなったのか?は、三上先生が亡くなられてしまった今となっては、知るすべも無い(お渡ししたその全部のコピーもその後どうなったのかも分らないのが、残念だ)が、きっと向こうの世界でも研究を続けておられるに違いない。
三上先生と私は同じ星に生まれ替わるらしい?ので、また再会してお話を聞かせていただくのを楽しみにしている。

3)手の冷たい人には気を付けること。

広島で出遇った人の中に、ある宗教家の女性がいた。どういう集いで誰の紹介で知り合ったのか?(最初は宗教家とは知らず)出会いのきっかけはもうすっかり忘れてしまったが、今でもはっきり覚えているちょっとコワイ出来事がある。

ある時、この女性に誘われて何とかという有名な神社に一緒に行くことになった。彼女の運転する車に乗せてもらったのだが、彼女がなぜか高速道路の降り口を間違えてしまい、車は目的地をどんどん離れてはるか遠くまで進んで行ってしまった。

その車内で彼女と私はいろいろな話をしていたのだが、「阪神淡路大震災が起きたのは、あなたをこの広島に招くためだった」と彼女が言ったので、「まさか、なんぼなんでもそれはあり得ないでしょ」 とあきれて反論しようと思って彼女の顔を見ると、本当に真剣そのもので冗談でも無さそうだったので、「もしかしてこの人はアブナイ人かも?」と気が付いたのだ。

それで用心していたのだが、どうやら彼女は私を彼女の始めた新興宗教?の教祖に祀り上げたかったようだ。
ともかく適当に話を聞いていると、彼女が「これから共に日本の世直しをやりましょう。宜しく」と、握手を求めるように手を差し伸べて来た。助手席に座っていた私は仕方無く彼女が差し出した手を握ったのだが、その手が氷のように冷たかったのだ!

その後ようやく辿り着いた神社(当初の予定とは違っていたらしいが、もしかしたら最初からそこへ私を誘導したかった?のかもしれない)で車から降りるなり、彼女は急に裸足になり、長い数珠を振り回しつつ何やら祝詞を大声で叫び、鐘を搗いたり、持参していたらしい小太鼓やら彼女の信教の道具らしいものを出して来て、大暴れした(私の目にはそのぐらい傍若無人に映った)のだった。(しかもそこには別のルートで先に到着していたらしい彼女の娘が待っていて、全く同じ振る舞いを始めたのだ)

それに私も感応してしまったのか、ここではある神秘的な出来事も体験した。
その詳細は省くが、もしかしたらもう少しで私は彼女に「拉致」されるところだったのかもしれない。

強制的な勧誘では無く、例えば私は彼女の家に泊めてもらった折に、下にも置かないもてなしで家族みんなで凄い「歓待」を受けたりしたが、そういうことの方がもっと危険だ。知らないうちに「洗脳」されてしまうこともあるので、ほんとにアブナイ、アブナイ!

ところで、私が広島を離れて関西に帰ることになった時、あろうことか彼女は頭を丸めて三上先生を訪れ、「あの人(私のこと)が広島からいなくなるのは私の不徳の致すところだ」と土下座して?おわびしたそうだ。
(この話は後日、三上先生が私に伝えてくれました)

それ以来、私は人の「言葉」もさることながら、その「行動」(ふるまい)の方により注意を払うようになった。
特に「手」の冷たい人には要注意である。



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阪神淡路大震災で授かった能力(13)

2012-02-05 | シリーズ「アズミックアート物語」1~20
阪神淡路大震災が起こる前年の話です。
先日読んだ『岡本天明伝』にも書いてありましたが、「神示」というのはある日突然にいきなり降りるというのではなく、例え偉人伝にはそのように書かれていたとしても、側近の話など聞くと、やはりその前からいろいろな「前兆」というのはあるようです。

私の場合もそうでした。前年の6月のいつだったか、友人への手紙を書いていると何枚も失敗して、おかしいな、不思議だなと思っていると、なぜか別のこと(自分が書こうとしていることとは違うこと)を書いてしまうというようなことがありました。
その頃から少しずつ何かおかしく? なっていたのかもしれません。

さて、その6月のある朝、いつものように職場へ行こうとすると、急になぜか「旅の用意」をし始めたのです。
からだが勝手に動いて、着替えや洗面具を旅行鞄に入れたりして、(もちろん意識ははっきりしているのですが)自分ではその動きを止められないのです。そして駅に着くといつもの路線へと向かわず、職場とは逆方向へと足が動き出すのです。

これは困った、遅刻は出来ないし、、と何度も足を元通りにしようとするのですが、すると、まるで「キツネ憑き」にでもあったかのように、からだがその場でくるくると廻ってしまうのです!

たくさんの通勤客が行き交う駅でほんとに恥ずかしくて、「何やっているんだろう?私は一体どうなったのだろう?」と頭は考えようとするのですが、何だか夢を見ているような感じです。そのうちに、今度は公衆電話に歩み寄って、職場に電話をかけ、「休暇を取る」と(口から勝手に「休む理由」なんかもスラスラと言葉が出て)同僚に話しているようなのです。
(自分が自分でありながら全く他人のしていることを見ているような?そんな感覚でした)

えっ、そんな!?まさか。とびっくりする間も無く、職場とは反対方向の電車へと向い、足は勝手に車中へと運ばれて行ったのです。そして気が付けばいつのまにか新幹線に乗っていました。
どうやって切符を買ったのか?覚えているようでもあり、催眠術にかかったようでもあり、ほんとうに夢の中に居るようでした。

その新幹線の中は空いていて(もしかしたらグリーン車だったのかも?)私の周囲はがら空きでした。
でも誰か私の他に三人の(目には見えない)存在が居るように感じられるのです。
私の頭部はクルクルと人形のように廻り続け、おまけに手も指先も勝手にクルクルと廻したりするのです!
(もし他に人が座っていたら、きっとヘンな人だと思われて敬遠されたことでしょう)

そして、着いたところは何と広島だったのです!
私はもうどうしていいかわからず、なぜ自分が(職場を休んでまでも)こんなところに来てしまったのか?
一体何の目的で!?とさっぱり意味がわからず、遠方の友人に電話をかけて訊ねました。
(この友人は「気」やそういう超常現象?のわかる人だったのです)
すると「青いきれいな光が見えるからヘンなものでは無いと思うよ」と言ってくれたのです。
(この電話をかけている間も頭がクルクルと廻ったりしていました)

それでもう着いてしまったことだし、引き返すのはあきらめてともかく一泊して帰るしかないので、せっかくだから宮島にお参りでもしようと島に船で渡った(宮島に行ったのはその時が初めて)のですが、霧が出ていてそれはそれは幻想的な風景でした。

宮島に着いて駅の観光案内所で宿泊先(その当日の飛び入りで空いていた部屋)を紹介してもらい、厳島神社へ向かって歩いて行きました。
その間にも手や指先がクルクルと動き、頭の動きもまだ続いていて止まりません。
それだけではなく、何かぶつぶつと聞いたことも無いような変なお経?のような文句を唱えながら歩くのです。
大声では無かったからまだしもましだったものの、もしもそんな人が歩いていたら誰でも思わず避けてしまうことでしょう!


そして海の中に立っている有名な鳥居(台風で倒れる前の旧のもので、その当時は朱色ではなく白木がくすんだような感じだったと覚えているのですが、もしかしたら私の記憶違いかも)まで来ると、はるか遠い空の向こう(海に向かって左の方向)から何か強いエネルギーの白い塊のようなもの(雲のような?)がやって来て、その鳥居を潜り、神社の中へとスッと入って行ったのです!
それはもの凄いスピードであっという間の出来事でしたが、そんなものを見たのはそれが全く初めてでした。
それが一体何だったのか?は今でも謎のままです。
(確か1994年の6月12日のことでした)

その雲のようなものが吸い込まれるように厳島神社の中に消えて行ったのを目撃した後も、何かぶつぶつとお経のような独り言を唱えながら神社の中を参拝して廻り、そこを出て今度は土産物屋の前を通りかかると、その店に居た真っ黒な服装の一組の男女の外国人に向かって今度は片言英語で何か話しかけたのです!

その二人は今思い返してみても、何か普通の人間では無い感じで、異星人か、あるいは高い次元の存在が人間の姿をして現れているかのような、そんな際立った気品のある美しさでした。二人共が同じ黒い服(上下共に)で、とても背が高く(外国人だとしてもさらに)体格が立派で、芸能人のおしのびというようなそういう雰囲気でもなかったのです。
色は少し浅黒く、私は彼らのことをなぜかインドのヒンズー教の「シヴァ神とビシュヌ神の化身」!?だと直観したのです。

私の拙い英語力では(そんな何かに取り憑かれている?ような時ですら、突然に英語がペラペラッと話せるようになったわけでは無いのが我ながら可笑しいのですが)挨拶以上の会話が続かず、私の彼らへの「感動の念」を伝えきれなかったのが、今も本当に心残りです。
もちろんもし彼らがほんとうに神の化身だとしたら、私ごときがそんなところで出逢えただけでも全く天にも昇る心地ですが。


それにまさか、その翌年広島に移り住むようになるとはその時は思ってもみなかったのですが、もしかしたらこの出来事があったので、阪神淡路大震災の後、広島に移る気になったのかもしれません。
(その時には気づいていなかった心理ですが、今このブログを書いていて、突然に気づきました)
この出来事はその前兆?もしくは私を広島へと導いてくれるための神の恩寵 だったのでしょうか?

余談ですが、そんなこともあって、阪神淡路大震災後に移り住んだ広島では、この同じ宮島の厳島神社の能舞台で「オノ・ヨーコと息子ショーンのコンサート」が催され、厳島神社の裏をリハーサルの合間に散策しているオノ・ヨーコさんに偶然遭遇することが出来たのです!
もしかしたらこれは神の化身に出遇ったよりももっとラッキーなことだったかもしれません。
(私の友人はサインをしてもらい、握手もしてもらって、おまけに写真まで一緒に!撮らせてもらったのです

ちなみに私はその友人と彼女の写真を撮るのに精一杯で、私自身は彼女とのツーショットは無いのですが、ただもう長年の憧れだったオノ・ヨーコさんに出遇えただけでも本当に幸せな一生モンの「宝の思い出」です。





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阪神淡路大震災で授かった能力(12)

2012-02-02 | シリーズ「アズミックアート物語」1~20
メキシコに行った話を続ける前に、少し違う話をします。

それは、突然にさまざまな能力が拓かれたり、「自動書記」でメッセージが降りて来たり、神懸かりになってしまったからといって、決してその人が「特別な人」 になったわけではないということ。
もちろん中には人格がすっかり変容してしまったり、実際に人生が急変して悟りを開いたり?新興宗教の教祖になる人もいるかもしれないが、だからといって「偉い」というわけではない気がする。

その伝える内容が正しいのかどうか?については、必ず審神(サニワ)が必要だと思う。
そういうことを考えている時にたまたま本屋で『岡本天明伝』(ヒカルランド/黒川柚月著)を見つけたので、さっそく読んでみた。

岡本天明さんはあの有名な「日月神示」(別名「ひふみ神示」ともよばれる)を書かれた方である。
私は、いつだったか、ある夫妻の案内で菰野にある「至恩郷」を訪れたことがある。
その頃はすでに天明さんは亡くなられていて、三典(みのり)夫人がひっそりと暮らしておられ、一緒に写真を撮らせていただいたりした。

私と相棒のそれぞれの誕生日を聞くと、彼女は「なるほどね」と一人納得したように頷かれていたが、私はその頃は「数秘術」なども全く知らず、何のことなのかさっぱりわからなかった。

今回この伝記を読んで、天明さんと縁が深かった人の中に、現在でもほとんどの占い師が勉強するという、その元になる「数字に関する研究」をした高名な学者がおられたことを知って、その意味を初めて知った。三典夫人もそれを学ばれていたのだ。
(その後私もそういったことにも興味を持つようになり、今ではたくさんの数秘術の本を出されている「はづき虹映さん」がまだ世に出る前?に、鑑定してもらったこともあるが、ほんとうによく当たっていて大いに参考になった)

話が横道に逸れてしまったが、その時私たちの通された部屋の壁面に天明さんの描かれた「クレパス画」がずらっと掛けられていたのを覚えている。惜しいことに後年にあった火災で全て燃えてしまったようだ。
その折船井幸雄さんが火事見舞いに駆けつけられたという話を聞いたことがある。

今回の本で、岡本天明さんが17歳の折に神戸で初めての個展をされたということもわかり、(「クレパス画」は晩年の作品だと思うが)もっとよく見ておけばよかったと、本当に残念だ。
せっかくほんものの絵を見る機会だったのに、正直な話、なぜかその時にはそれらの絵が私にはどれも暗く感じられて、あまり興味を惹かれなかったのだ。

天明さんの周囲にはその降りて来た神示を信奉する人たちが集まり、いつのまにか一緒に生活するぐらいにまでなっていったようだが、その周辺の人間関係やさまざまな出来事を時系列で詳しく調査して書いたのが、今回紹介したこの本である。
天明さんが「大本教」との関係が深かったということも、私はこの本で初めて知った。
写真も豊富で、(日月神示ではないが)「審神する情景」を撮ったものもある。

「おふでさき」で有名な天理教の教祖の中山みきや、大本教の教祖の出口なおなどに関する本も読んだことがあるが、みんなすさまじいまでの苦労をしている。本人だけではなく、その周囲の家族たちもとてもたまったものではなかっただろうと思う。

岡本天明さんは、二度も奥さんを亡くされ、三典さんは三人目の奥さんだったことも今回の本で知った。
三典さんは天明さんの神示を心底信じて一緒になったのに、そしてその神示の預言では(96才7ケ月!までも)長生きすることになっていた筈なのに、実際は昭和38年に満65歳で亡くなられ、しかもその神示の最終的な「カタ」は他に出る(天明さんのところへ降りるのではなく)ということが、(その生前に)天明さんの口から出て、三典さんはほんとにがっかりされたということも、本には書かれていた。
彼女のその心境は察するに余りある気がする。

また長年天明さんの信者だったある女性がある時期から離れていくのだが、「日月神示」の第24巻以降に関しては、その人は疑問を抱いていたという話も印象に残った。もしかしたらそういうこともあり得るのかもしれないなと感じた。
ともかくこの本を読んで私は、「ほんもの」と「ヒョウイ現象」を見分けることの難しさをつくづく思ったのである。

私も今でも「何がほんもので、何がそうでないのか」はわからないままでいる。
そして出来れば別の仕事をしたいとふと思うこともある。

『天から授かった能力はお金に換える(仕事にする)もんじゃない』と、かつてある人から面と向かって言われたこともあった。
また別のある人は私の話をじっくり聞いた上で、『自然な経緯で(自ら望んでそうなったわけではなく)結果としてそうなったのなら、それはやってもいいんじゃない?』と優しく受け止めてくれた。
『誰にも出来ることではないし、それが天から授かったものだからこそ尊いのじゃない!?』と、真剣に諭してくれた知人もいた。

広島の三上晃先生(植物さんとの共同研究をしていた人)はそんな私に、「普通の生活」をするようにと強く勧めてくれた。
こういう絵(突然の「自動書記」で始まった線描画)を描き続けていると、「身が保たない」からと。

そのアドバイス通りに、私は広島から関西に戻った後も(絵を仕事にしようなどと考えるまでも無く)、ある書店の店員として真面目に働いていたのである。
ところが、ある日、突然にリストラされてしまい、その結果として今日の私がある。

(その詳細はまたにするが)、最後の勤めの日の帰途、家に向かう坂道を登りながら、自然に涙が流れて仕方無かった。
でも心のどこかがふっと明るく、泣きながらもまるで空が抜けたような開放感と希望のきざしを感じてもいたのである。


だから、一体何が「天の采配」なのか?
たぶんその時が来るまでは誰にもわからないし、果たして自分の描く絵が真実を伝えているのかどうか?も今はわからない。
そういうわけで(「日月神示」をその参考にするのは畏れ多いが)、今回この『岡本天明伝』を読んでほっと安心したのである。
ああ、彼も普通の人だったのだと。そして岡本天明さんに対してさらなる親しみと尊敬の念が湧いて来た。

そして、巷に流布している「日月神事」や「ひふみ神示」に関する本なども、ごく一部だけを取り上げているに過ぎない(省略していることも多い)とわかり、これまでとはまた違った目で眺めることが出来るようになった。

個人に起こることと、その外側に起こる(公の)こととは関連していること。
時にはその周囲の人間関係や環境などもその神示の中に読み込まれる(反映している)こともあること。
後日必ずそのカタ(証拠)が示されるということ。


その他たくさんの学びがあり、読んで大変役に立った本だった。
私の絵もそんなふうに何らかの気付きの手助けになり、誰かのために「少しでも貢献出来たら」と願っている。



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阪神淡路大震災で授かった能力(11)

2012-01-31 | シリーズ「アズミックアート物語」1~20
阪神淡路大震災後の夏の終わりに広島に移ったのですが、その翌年の1996年初夏のこと。その頃は一人暮らしでしたが、よく瞑想をしていました。
また線描画を描くことも再開していて、いろいろなメッセージを受けていました。

その中に(ほんとうにそうなのかどうか?今でもよくわからないのですが)、サイババからのメッセージもあったのです。
(自動的に降りて来るものを「自動書記」で紙に書いていました。日本語では無いものもありました。)

そしてなぜかサイババは私に「インドに来るように」と何度も言うのです。
「あの笛を聴きたいから持って来るように」と。(この「笛の話」は以前に書きましたが、特殊なかたちの陶笛です)

私は「インドは暑いし、お腹を壊すからイヤだ」と返事しました。
すると、「そんなことはない。来てみるとわかる。とてもよいところだ。oo(日月)にはooに居るので、そこに来るように」。
そこで待っているからと、(そして私がかつてインドで暮らしたことがあり、その頃の話をしてくれたり、その当時の旅の途上の風景や咲いていた花のことを語ってくれたりして)誘ってくれたのですが、私は固辞していました。

「ではまずメキシコに行きなさい」「明日その知らせが来るだろう」と言われても、まさか!?と全く本気にしていませんでした。
(なぜメキシコかというと、それは私があまりにも「インド行き」を怖がっていたので、どうやら「予行演習」?らしいのです)
ところが、翌日、ほんとうにその知らせが来たのです!!! 
そしてそれはまさにサイババの予言通り、ズバリ、メキシコの旅のDMだったのです。

(この話は前にもHPに書きましたが)その封筒の表には、「一生に一度の思い出に残る旅」だったか、何かそのような心惹かれるうたい文句が書かれていました。
(DMの嫌いな私はいつもなら中も見ずに捨ててしまうのですが)その時はなぜかその勧誘の言葉に心が動いて、ふと読んでみる気になったのです。

それになぜ、そんな全く知らないところから私にそんなものが送られて来たのか?も不思議でした。
一体どこで私の名前や住所を知ったのでしょうか?
(広島に住んでいることは身内や親しい友人以外には知らせていませんでした)
それは旅行会社の一般的なツアーでは無く、もう今は別会社になっている東京の「あるスピリチュアル系の会社」の企画による小さな旅のDMだったのですが、それまで私はその会社と全く関わりが無く、「会社名も知らなかった」のです。
これはほんとうに今でも謎です。


そういうわけでメキシコに行くことになったのでしたが、私がメキシコに行こうと思ったのにはもう一つ理由がありました。
昔からなぜか「マチュピチュ」が好きで(というか、おそらくその山だと思うのですが、夢によく出て来たので)興味があり、一度行ってみたかったのです。
つまり私はその時点ではマチュピチュはメキシコにあると思い込んでいたのです!

あとでその間違いに気づき、そのツアーの行程にマチュピチュが入っていないので調べてみると、それはペルーにあり、そこへ行くにはメキシコからだと(その当時は)一週間に一度の便しか無かったため、私がその旅の間にフリーでマチュピチュまで往復するのはとても無理ということがわかったのでした。

でも、もうすでに申し込み金も一部払っていたし、一緒に行ってくれる知人も乗り気になっていたし、何よりも気分転換がしたかったのです。
それに「その旅で重要な人に会うことになるだろう」とも言われていました。

ほんとにそれは私にとって一か八かの賭け でした。
何せ20年ぶりぐらいの海外旅行(かなり高額のツアー代金 )で、しかもその頃の私は40代の後半だったのです!

そして、その旅で(後年私の線描画を彩色してくれることになる)彼と遭遇したのでした。
まさかサイババのそのメッセージがほんとうに実現することになるなんて
夢にも思っていませんでした。
(もちろん「そうなったらいいなぁ~」という淡い期待はありましたが。。




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