さて、その突然に授かった能力で制作した菱形の3個の笛の出番は、私が阪神淡路大震災後に住むことになった広島で、ある日突然にやってきました。
松尾みどりさんという「宇宙船に乗ったことのある人!?」の講演会があり、その頃私は彼女のことは全く知らなかったのですが、ふと出かけてみたのです。そこでその会を主催していた人たちと知り合い、後日その仲間の一人が私を「弥山登山」に誘ってくれたのです。
記憶は定かではないのですが、1996年3月の初め頃だったかと思います。その昔修験者が通ったというまだ雪の残る山道を何人かの女性たちと一緒に歩いて登りました。
前年(1995年)の夏に広島に移った私は、弥山に登るのはもちろん初めてでした。顔見知りは私を誘ってくれた人だけで、他はみな初めて会う人ばかりでした。
なぜか頂上に着いても一行は休むことなくさらに別の道へと進み、やがて奥の院?のような小さな神社に辿り着いたのです。
そしてみんなでお参りしたのですが、私はその時3個の笛を携えて行っていましたので、2個を左右にいた人にふと手渡しました。
するとそのうちの一人(私を誘ってくれた人)がまるで雅楽の調べのように、いかにも朗々と笛を吹き出したのです!
しかもそれがほんとうに感動するぐらいうまかったのです そこにいた誰もがその音色を自然に受け容れ聞き惚れていました。よほど笛を普段から練習しているか、巫女さんの経験のある人かもしれないと、その笛の「奉納演奏」が終わってから彼女に尋ねてみると、何とその時「生まれて初めて吹いた」というのです。
この時撮った写真には虹色の光線やとてもきれいな光の玉がいっぱい写っていました。
このことがきっかけで私は彼女と親しくなり、初夏にはメキシコ(ユカタン半島)への旅を一緒にすることになったのでした。
この旅で私は、その後一緒に暮らし&たくさんの「線描画」を彩色してくれることになる彼と出逢ったのです
そのツアーで私と彼とを結び付けてくれたのもこの彼女だったのですから、ほんとに「縁」というのはどこに転がっているかわかりませんね
またそのツアーでもこの笛を吹く機会が巡ってきたのですが、その話はまたいつか
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ところで「自動書記」による線描画や「笛の制作」だけではなく、他にもこの阪神淡路大震災後に花開いた思いがけない能力がありました。その一つは料理です。それまで作ったことの無いものを「勝手に手が動いて」どんどん作っていくのです。
それはメニューを最初に思い付くというのではなく、誰かに動かされている感じで、自分では何が出来上がるのか全くわからないのに、次次に材料を入れたり、火にかけたり、あるいは途中で調味料を足したりするのです。
しかもそんな材料が冷蔵庫や食品棚に残っていたとは!?と私も知らない(忘れている)ようなものさえ、勝手に使って作っていくので、何とも便利で楽チンでした。
またそれまで一度も作ったことのないものもこの時はなぜか自動的に作ったのです。
例えばインド料理に出て来るような「ナン」とか、トマトを入れたスープなど。
特に珍しくないわ、「そんなのフツーのことよ!」と料理の得意な人は思われるかもしれませんが、私は実は子供の頃から料理や食べ物に関する「トラウマ」があり、料理は大の苦手だったのです。
それでトマトというのは、生でそのまま食べるか、サラダに使うかぐらいしか知らなかったので、いきなりお湯を沸かし出してその中に切った生のトマトをほり込んだ時には、一体これは何? 「私は何を作るつもりなの?」とびっくりしたのでした。
それからたまたま手元にあったもやしを入れて、塩胡椒とコンソメで味付けしただけのスープが出来上がった時には、それはそれは何とも美味しかったのです。
ナンだって「何とも言えないぐらい」上手に出来たのでした。
このありがたい料理の能力はそれほど長くは続かず、いつのまにか消えてしまっていましたが、「東日本大震災」の起きる前年、
(2010年の初夏に)今住んでいるところに転居して来てから、なぜかまた急に再燃しました。
それで「やったぁ~!」と喜んでいたのですが、最近になってだんだんその情熱というか、エネルギーも下火になってきたようです。
話が長くなりましたが、最後にもう一つ。音楽の才能!?も突然に出て来たのです
大地震で揺れて右脳が急に活性化したのでしょうか。
頭の中に音が鳴り響いて、メロディーと同時に歌詞も自然に浮かんで来るのです。
それでその時に出来たのが「ヒロシマーいのち光る」という曲です。
これは広島に移ることがまだ何も決まっていない時、まだまだ一日に何十回もの余震の続く中で出来上がったものですが、たまたま「広島平和音楽祭」で一般募集があり、楽譜の書ける人に手伝ってもらって採譜してもらい、その応募曲として後日まとめたものです。もちろん入選なんてとんでもない、ただ頭の中でずっと聞こえ続けているものですから、そういうかたちにして一度外に出す必要があったのです。
それに阪神淡路大震災によるあの惨状は、原爆を知らない戦後生まれの私にもまさに「ヒロシマ」を連想させるものでした。
だから何としても「平和」への思いを歌いたかったし、それが亡くなられた方たちや私自身への精一杯の「鎮魂曲」でもあった気がします。
明日の「震災忌」にはその歌を紹介する予定です。 ご愛読に感謝です。
松尾みどりさんという「宇宙船に乗ったことのある人!?」の講演会があり、その頃私は彼女のことは全く知らなかったのですが、ふと出かけてみたのです。そこでその会を主催していた人たちと知り合い、後日その仲間の一人が私を「弥山登山」に誘ってくれたのです。
記憶は定かではないのですが、1996年3月の初め頃だったかと思います。その昔修験者が通ったというまだ雪の残る山道を何人かの女性たちと一緒に歩いて登りました。
前年(1995年)の夏に広島に移った私は、弥山に登るのはもちろん初めてでした。顔見知りは私を誘ってくれた人だけで、他はみな初めて会う人ばかりでした。
なぜか頂上に着いても一行は休むことなくさらに別の道へと進み、やがて奥の院?のような小さな神社に辿り着いたのです。
そしてみんなでお参りしたのですが、私はその時3個の笛を携えて行っていましたので、2個を左右にいた人にふと手渡しました。
するとそのうちの一人(私を誘ってくれた人)がまるで雅楽の調べのように、いかにも朗々と笛を吹き出したのです!
しかもそれがほんとうに感動するぐらいうまかったのです そこにいた誰もがその音色を自然に受け容れ聞き惚れていました。よほど笛を普段から練習しているか、巫女さんの経験のある人かもしれないと、その笛の「奉納演奏」が終わってから彼女に尋ねてみると、何とその時「生まれて初めて吹いた」というのです。
この時撮った写真には虹色の光線やとてもきれいな光の玉がいっぱい写っていました。
このことがきっかけで私は彼女と親しくなり、初夏にはメキシコ(ユカタン半島)への旅を一緒にすることになったのでした。
この旅で私は、その後一緒に暮らし&たくさんの「線描画」を彩色してくれることになる彼と出逢ったのです
そのツアーで私と彼とを結び付けてくれたのもこの彼女だったのですから、ほんとに「縁」というのはどこに転がっているかわかりませんね
またそのツアーでもこの笛を吹く機会が巡ってきたのですが、その話はまたいつか
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ところで「自動書記」による線描画や「笛の制作」だけではなく、他にもこの阪神淡路大震災後に花開いた思いがけない能力がありました。その一つは料理です。それまで作ったことの無いものを「勝手に手が動いて」どんどん作っていくのです。
それはメニューを最初に思い付くというのではなく、誰かに動かされている感じで、自分では何が出来上がるのか全くわからないのに、次次に材料を入れたり、火にかけたり、あるいは途中で調味料を足したりするのです。
しかもそんな材料が冷蔵庫や食品棚に残っていたとは!?と私も知らない(忘れている)ようなものさえ、勝手に使って作っていくので、何とも便利で楽チンでした。
またそれまで一度も作ったことのないものもこの時はなぜか自動的に作ったのです。
例えばインド料理に出て来るような「ナン」とか、トマトを入れたスープなど。
特に珍しくないわ、「そんなのフツーのことよ!」と料理の得意な人は思われるかもしれませんが、私は実は子供の頃から料理や食べ物に関する「トラウマ」があり、料理は大の苦手だったのです。
それでトマトというのは、生でそのまま食べるか、サラダに使うかぐらいしか知らなかったので、いきなりお湯を沸かし出してその中に切った生のトマトをほり込んだ時には、一体これは何? 「私は何を作るつもりなの?」とびっくりしたのでした。
それからたまたま手元にあったもやしを入れて、塩胡椒とコンソメで味付けしただけのスープが出来上がった時には、それはそれは何とも美味しかったのです。
ナンだって「何とも言えないぐらい」上手に出来たのでした。
このありがたい料理の能力はそれほど長くは続かず、いつのまにか消えてしまっていましたが、「東日本大震災」の起きる前年、
(2010年の初夏に)今住んでいるところに転居して来てから、なぜかまた急に再燃しました。
それで「やったぁ~!」と喜んでいたのですが、最近になってだんだんその情熱というか、エネルギーも下火になってきたようです。
話が長くなりましたが、最後にもう一つ。音楽の才能!?も突然に出て来たのです
大地震で揺れて右脳が急に活性化したのでしょうか。
頭の中に音が鳴り響いて、メロディーと同時に歌詞も自然に浮かんで来るのです。
それでその時に出来たのが「ヒロシマーいのち光る」という曲です。
これは広島に移ることがまだ何も決まっていない時、まだまだ一日に何十回もの余震の続く中で出来上がったものですが、たまたま「広島平和音楽祭」で一般募集があり、楽譜の書ける人に手伝ってもらって採譜してもらい、その応募曲として後日まとめたものです。もちろん入選なんてとんでもない、ただ頭の中でずっと聞こえ続けているものですから、そういうかたちにして一度外に出す必要があったのです。
それに阪神淡路大震災によるあの惨状は、原爆を知らない戦後生まれの私にもまさに「ヒロシマ」を連想させるものでした。
だから何としても「平和」への思いを歌いたかったし、それが亡くなられた方たちや私自身への精一杯の「鎮魂曲」でもあった気がします。
明日の「震災忌」にはその歌を紹介する予定です。 ご愛読に感謝です。