☆ ブログ光のチャレンジ ★「魂の似顔絵」テレパスアートは「テレパスアート」のHPからお問い合わせ&お申し込み出来ます♪

1995年の阪神淡路大震災がきっかけとなり自動書記で突如絵を描き始める 絵の仕事は26年目 ブログ光のチャレンジは11年

阪神淡路大震災で授かった能力(5)

2012-01-16 | シリーズ「アズミックアート物語」1~20
さて、その突然に授かった能力で制作した菱形の3個の笛の出番は、私が阪神淡路大震災後に住むことになった広島で、ある日突然にやってきました。

松尾みどりさんという「宇宙船に乗ったことのある人!?」の講演会があり、その頃私は彼女のことは全く知らなかったのですが、ふと出かけてみたのです。そこでその会を主催していた人たちと知り合い、後日その仲間の一人が私を「弥山登山」に誘ってくれたのです。

記憶は定かではないのですが、1996年3月の初め頃だったかと思います。その昔修験者が通ったというまだ雪の残る山道を何人かの女性たちと一緒に歩いて登りました。
前年(1995年)の夏に広島に移った私は、弥山に登るのはもちろん初めてでした。顔見知りは私を誘ってくれた人だけで、他はみな初めて会う人ばかりでした。

なぜか頂上に着いても一行は休むことなくさらに別の道へと進み、やがて奥の院?のような小さな神社に辿り着いたのです。
そしてみんなでお参りしたのですが、私はその時3個の笛を携えて行っていましたので、2個を左右にいた人にふと手渡しました。
するとそのうちの一人(私を誘ってくれた人)がまるで雅楽の調べのように、いかにも朗々と笛を吹き出したのです!

しかもそれがほんとうに感動するぐらいうまかったのです  そこにいた誰もがその音色を自然に受け容れ聞き惚れていました。よほど笛を普段から練習しているか、巫女さんの経験のある人かもしれないと、その笛の「奉納演奏」が終わってから彼女に尋ねてみると、何とその時「生まれて初めて吹いた」というのです。
この時撮った写真には虹色の光線やとてもきれいな光の玉がいっぱい写っていました。

このことがきっかけで私は彼女と親しくなり、初夏にはメキシコ(ユカタン半島)への旅を一緒にすることになったのでした。
この旅で私は、その後一緒に暮らし&たくさんの「線描画」を彩色してくれることになる彼と出逢ったのです

そのツアーで私と彼とを結び付けてくれたのもこの彼女だったのですから、ほんとに「縁」というのはどこに転がっているかわかりませんね
またそのツアーでもこの笛を吹く機会が巡ってきたのですが、その話はまたいつか
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

ところで「自動書記」による線描画や「笛の制作」だけではなく、他にもこの阪神淡路大震災後に花開いた思いがけない能力がありました。その一つは料理です。それまで作ったことの無いものを「勝手に手が動いて」どんどん作っていくのです。

それはメニューを最初に思い付くというのではなく、誰かに動かされている感じで、自分では何が出来上がるのか全くわからないのに、次次に材料を入れたり、火にかけたり、あるいは途中で調味料を足したりするのです。
しかもそんな材料が冷蔵庫や食品棚に残っていたとは!?と私も知らない(忘れている)ようなものさえ、勝手に使って作っていくので、何とも便利で楽チンでした。
またそれまで一度も作ったことのないものもこの時はなぜか自動的に作ったのです。
例えばインド料理に出て来るような「ナン」とか、トマトを入れたスープなど。

特に珍しくないわ、「そんなのフツーのことよ!」と料理の得意な人は思われるかもしれませんが、私は実は子供の頃から料理や食べ物に関する「トラウマ」があり、料理は大の苦手だったのです。
それでトマトというのは、生でそのまま食べるか、サラダに使うかぐらいしか知らなかったので、いきなりお湯を沸かし出してその中に切った生のトマトをほり込んだ時には、一体これは何? 「私は何を作るつもりなの?」とびっくりしたのでした。
それからたまたま手元にあったもやしを入れて、塩胡椒とコンソメで味付けしただけのスープが出来上がった時には、それはそれは何とも美味しかったのです。
ナンだって「何とも言えないぐらい」上手に出来たのでした。

このありがたい料理の能力はそれほど長くは続かず、いつのまにか消えてしまっていましたが、「東日本大震災」の起きる前年、
(2010年の初夏に)今住んでいるところに転居して来てから、なぜかまた急に再燃しました。
それで「やったぁ~!」と喜んでいたのですが、最近になってだんだんその情熱というか、エネルギーも下火になってきたようです。

話が長くなりましたが、最後にもう一つ。音楽の才能!?も突然に出て来たのです
大地震で揺れて右脳が急に活性化したのでしょうか。
頭の中に音が鳴り響いて、メロディーと同時に歌詞も自然に浮かんで来るのです。
それでその時に出来たのが「ヒロシマーいのち光る」という曲です。

これは広島に移ることがまだ何も決まっていない時、まだまだ一日に何十回もの余震の続く中で出来上がったものですが、たまたま「広島平和音楽祭」で一般募集があり、楽譜の書ける人に手伝ってもらって採譜してもらい、その応募曲として後日まとめたものです。もちろん入選なんてとんでもない、ただ頭の中でずっと聞こえ続けているものですから、そういうかたちにして一度外に出す必要があったのです。

それに阪神淡路大震災によるあの惨状は、原爆を知らない戦後生まれの私にもまさに「ヒロシマ」を連想させるものでした。
だから何としても「平和」への思いを歌いたかったし、それが亡くなられた方たちや私自身への精一杯の「鎮魂曲」でもあった気がします。

明日の「震災忌」にはその歌を紹介する予定です。 ご愛読に感謝です。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阪神淡路大震災で授かった能力(4)

2012-01-15 | シリーズ「アズミックアート物語」1~20
この突然に授かった能力(自動書記)がどういうものなのか、それが果たして正しいものなのか、単なる「ヒョウイ」現象なのか?
あるいはもしかして自分の頭がおかしくなったのか?
こういう体験がいきなり起きた人はたぶん誰でも悩むのではないでしょうか?
私も一時随分悩まされました。

阪神淡路大震災で被災した職場(パートで働いていた)を辞めざるを得なかった個人的事情の詳細は省きますが、ともかく3月末でフリーになり、失業保険をもらっていました。その当時は毎日のように(「自動書記」で)線描画を描き続けていましたが、それ以外にもいろんなことがありました。

例えば「oo時に起きて瞑想してください」とか、どこそこにお参りに行きなさいとか、そういったメッセージ?もしょっちゅうありました。「石笛」をある海岸に拾いに行くようにと言われたこともありました。半信半疑で行ってみると、ほんとにちょうどいい大きさの穴の空いた石笛があって、びっくりしたこともありました。

ところが私はほんとに「怠けもの」 で、恥ずかしながら例えばその時刻に起きられなかったり、「面倒くさがりや」なので、なかなかその言う事もまともに聞きませんでした。でもその中でひとつだけきちんと実行したこともありました。

それは「笛」を作ることでした。なぜか「菱形」が重要らしく、そういう特殊なかたちの「陶の笛」を作ったのです。
お祈りをする時に両掌を合わせますが、それをそのまま菱形にしたようなかたちで、ちょうど両掌の中にすっぽりと納まるような笛です。(そしてその吹き方=奏し方も教えてもらったのです

実はそのような笛が卑弥呼の時代にも使われていた!?(ほんまかいな、まさか と自分でも突っ込みを入れたくなりますが~)らしいのです。そして山の頂上同士を結んだり(手旗信号の音版のように?)、神社?同士の連絡にそれが使われていたというのです。さらには、もし何事かがあって逃げる場合にはその笛が役に立つというのです。
なぜならその笛の音は人間の耳に聴こえる周波数(いわゆる可聴域)を超える音を出すそうなのです。
(かつてそういうものが「緊急避難」の際に使われていたというのですが!?)

この時はたまたま陶芸家の友人がいたので、笛はそこで造らせてもらいました。彼女はオカリナを作ったことがあったので、どうしたら音が出るように出来るのかも教えてもらったのです。彼女に陶土をもらいそこで造ったものを焼いてもらって、釉薬もかけてもらいました。「ほんとにこんなのでいいの?」と、その道のプロの彼女も不思議なかたちに驚いて首をかしげていましたが、ともかく色違いの(かたちも少し違う)オリジナルの笛を3個制作しました。

その笛がその後どう使われることになるのか、この時点では全く私自身も知らなかったのです。
だからこれらのメッセージや何やかやが一体何の役に立つのか?

(友人の指摘した通りに)まさに「ひまだから」こんなことにうつつを抜かすのであって、大変な思いをしている被災者(私も被災者の一人ではありましたが)のボランティアにも行かず、毎日まるで遊んで暮らしているかのような?自分に対する「罪悪感」や「自己嫌悪」が全く無かったわけではないのです。

でも例えばその頃ようやく動き始めた電車に乗り瓦礫の連なる被災地を車窓から眺めているだけでも私は気分が悪くなって、立っていられなくてしゃがみ込んでしまったり、とめどなく涙が流れて来て仕方なかったのです。
だから自分が自分を癒すためにも、せめて(例え幻想であろうと)絵を描いたり、笛を作ったり、何かせずにはいられなかったのです。
(どうしてか、これを書いていると今また涙が流れます)

この続きはまた明日。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阪神淡路大震災で授かった能力(3)

2012-01-14 | シリーズ「アズミックアート物語」1~20
突然に始まった「自動書画」!?と前回説明したが、実はその兆候は阪神淡路大震災の前年(1994年)から始まっていた。

その時期がいつだったのかはっきりした日時は覚えていないのだが、友人に手紙を書こうとしたらなぜか何枚も失敗してしまい、そのあげくに今度は全く違うことを、唐突に書き出したのだ。

「来年に起こることは今から準備しないと間に合わない。たくさんの人が死ぬ。死ぬけれどもみんな生きている」
『泣かないでひかりのくにへ入ろう!』

そして私に来年(つまり1995年)2月に仕事を辞めるようにと勧めて、急に横線を引き、その一直線上に私のことに関するタイムスケジュールを次々に書き出したのである。
辞めて次にどんな仕事をするのか? 何もわからないのに、そこには「新しい仕事を始める日」まですでに示されていた。
(後年実際にこの「新しい仕事」がスタートした日は、偶然にもこの日付通りだった。ただし一年遅れではあったが。。)

これは一体どういうことなのか? 確かに私はその頃勤めていた仕事を辞めたかった。
当時の私は、神戸の東灘区にあった職場でもう6年以上も働いていて、日給月給制のパートで有給休暇も無く、時間給は最初入った頃が525円、一年毎に時間給が5円の昇給!その頃は時給555円ぐらい?(551の蓬莱の肉まんか、私は!? と一人突っ込みを入れたくなるぐらい)で、生活は決して楽ではなかった。でも私はお金より何より「自由な時間」が欲しかった。

それでも生活のことを考えると(次の仕事も決まっていないのに)辞めるわけにはいかず、その「自動書記」の言う通りにするなんてとても無理だった。

ところでそんなふうに最初は文字で降りて来た「自動書記」が、途中から「絵」(線描画)に変わったのには、理由がある。
それは私がとても「疑り深い」人間だから、文字だとその内容について、逐一考えてしまったり、反論してしまったり、信じることが出来にくかったからだ。

その点、絵であれば、どういうことなのか意味がわからなくても、とりあえず置いておくことが出来るし、その絵自体が面白く思えたので、描き続けることに抵抗も起きなかったからではないかと思う。

さて、そんなふうにしてたくさんの線描画が描かれていったのだが、もしもこれらの絵に興味をもたれたなら、ネオデルフィ(星雲社)から出ている『宇宙人遭遇への扉』という本を、立ち読みでもいいので(笑)ぜひ手に取って見ていただけたら嬉しい。
この中に挿絵として何枚もの線描画(モノトーン)が掲載されている。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阪神淡路大震災で授かった能力(2)

2012-01-13 | シリーズ「アズミックアート物語」1~20
17年前の今日(1月13日)、突然にその「自動書記」(線描画)は始まった。

それに至るまでの詳細ないきさつは省くが(また後日に紹介予定)、ともかくも猛烈な速さで描き、しかも紙(手元にたまたま置いてあったB5サイズ?落書き帖)を縦にしたり、時には斜めにしたり、ぐるぐる回したりしながら、まさに縦横無尽にどんどんと何枚も描いていった。その中には、絵だけではなく、私には意味不明な文字や数字、記号などが書き込まれたものもあった。

これは一体何なのか?どういうことなのかさっぱりわけがわからないまま、ともかく描けたものは破棄しないで残しておかねばとなぜか強く感じた。描くことをやめようとも思わなかった。それは例えばあくびのように、出るとスッキリするというか、途中で無理矢理止めるとどうしても気持ちが落ち着かなかったからである。

断っておくが、私はそれまで「霊感」などとは全く縁の無い人だった。幼児の頃は、法事にやって来たお坊さんに「坊主帰れ~」と石を投げたこともあるそうで お墓参りなども大嫌いだったし、大人になってからもオカルトや怪談話は苦手で、宗教団体に入ったことも無い。それどころか、若い頃は「結婚するなら二つ、三つ歳上、公務員、義親とは同居しない」などと(自分の容姿は全く棚に上げて)勝手な条件で相手を選んでいたぐらい、現実的なというか、非常に「利己的」で「自己中」な人間だった。

こんなことを書くとこのブログを読んでくれている人は引いてしまうかもしれないが、要するにどこにでもいる「フツーの人」ということが言いたいのである。つまり、決して「選ばれた特別な人 」ではないのです

だからこんなことになって一番びっくりしたのは自分で、その頃何でも相談していたある友人(太極拳を教えていて「気」の判る人)に線描画のコピーを送ってこの話をしたところ、彼女曰く「エネルギーなんか無いよ、コレ。ヒマだからこういう絵を描くのよ」と一刀両断にされ、「描くことを止めるように」とアドバイスされたのである。

誰よりも尊敬していた友人からそう言われて、即日それ以上描くことは止めたが心の中は複雑だった。
(後日この友人とはあることがきっかけで疎遠になり、阪神淡路大震災後、広島に移ってからはまた自然に描くことを再開した)
後年この友人と再会した折にこの話をすると、実にあっけらかんと「そんなこと言った覚えは無い」と彼女は否定し、私は驚いてしまったが、これももしかしたら宇宙の深い導きだったのかもしれない。

下記の絵は、「自動書記」が始まった初期の頃に描いたたくさんの線描画の中の一枚。
後に出遭った「相棒」が構図を拡大して彩色してくれたもの。(題名は『タキ 』)






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阪神淡路大震災で授かった能力(1)

2012-01-12 | シリーズ「アズミックアート物語」1~20
昨日(1月11日)で東日本大震災から10ケ月になった。まだまだたくさんの行方不明の方々がおられることに心が痛む。
せめて一周忌までには全員の安否が判明されますようにと心から願っている。

たまたま昨日は私の友人のつれあいの一周忌でもあり、神戸に出かけた。友人宅は神戸の高台にあり、帰路のバスの窓から夕暮れの海を眺めながら、阪神淡路大震災のことを思い出していた。

その頃私は淡路島の見える対岸の海辺の街に暮らしていた。職場は東灘区にあり、1995年(平成7年)1月17日は通常なら休みの日であったが、その日は「棚卸し」のため全員が臨時出勤の予定になっていた。
もしも地震の起きた時刻が2時間後だったら、私は確実に命を落としていたと思う。あるいは間違いなく大怪我をしていただろう。
東灘区は一番死者が多く出たところでもあった。職場では同僚7名が亡くなった。途中の駅は倒壊し電車は全て不通になった。

職場のあったビルが炎に包まれ、その上をヘリコプターが舞っていた情景が何度も繰り返しテレビに映し出されていたのを思い出す。もちろんこの映像はビデオ放映で後日見たのだが、今ではまるで自分がその場に居たかのように記憶に焼き付いてしまっている。(ここまで書いてなぜか急に涙があふれてきて、書き続けるのが苦しくなる)

どれだけたくさんの人がこの大震災で家族や友人を失い、家を失い、また仕事を失ったことだろう。。
毎年のように、年の暮れからこの時期の前後は気持ちが塞ぐことが多いのは、精神的な後遺症でもあるのだろうか。
この阪神淡路大震災から7年が過ぎる頃までは、毎朝のように地震の起きた時刻には目が覚めてしまって眠れなかったが、私の体もそれを忘れることが出来なかったのだと思う。

今日、この話を書くことを(オーリングテストで)決めて書き始めたのだが、今でもこんなに涙が出るとは、自分でも思いがけないことだった。あれからもうかなりの年月が経ったのだから、もう大丈夫だろうと思っていたのだが、当時は出なかった涙が今になってようやく出て来たのかもしれない。その渦中にある時は無我夢中で起こったことに対処し、生き延びていくことや生活を建て直すことに必死で、涙を流す余裕も無かった気がする。

あの時一番感じたことは「いのちさえあれば。。」ということだった。そして、「せっかく助かったいのちなのだから、これからは好きなことをして生きよう!」と強く決意したのだった。
そしてその後の私の人生は、この願い通りにそれまでとは全く違うものに変わっていった。

この続きはまた明日。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする