180704 米映画にみる恋愛 <歌手・高橋真梨子さん 母との確執解け ようやく愛語れた>を読んだ余韻
今朝は午前中、山林の林業作業現場を見学して、豪雨を懸念していたのがさほどのこともなく、スムーズに終わったのはいいのですが、汗だくだくで帰ってきて、何件かの検討中の和解案が輻輳している中、電話相談や来客対応で余計ややこしくなり、いつのまにか7時になりそうです。
とくに話題も見つからず、昨夜見た映画「メッセージ・イン・ア・ボトル」について少し触れてみようかと思います。この映画はいつだったか見て、とても感動し、録画していましたが、見る機会もなく、忘れそうになっていたのですが、たまたま先日の記事で思い出し、暑さをしのぐ意味もあって見ました。
その記事は、6月29日付け毎日夕刊記事<人生は夕方から楽しくなる歌手・高橋真梨子さん 母との確執解け ようやく愛語れた>です。高橋真梨子さんの歌声を聞くと思い出す友人がいます。というかその友人が好きなCDを毎日のように聞かせてくれたので、自然と親しむようになったのです。
それは司法修習時代、京都修習したときですから、40年くらい前ですね。彼はぼんぼんで、スカイラインを乗り回していたので、私たち悪友は居住場所から修習先の裁判所まで送らせる役をやらせていたのです。おとなしく素直な彼は従順に仲間4人くらいでしたか、それぞれの借りているところまで車で行ってくれました。その彼がいつもかけていたのが高橋真梨子さんのCDだったのです。
私は当時、さだまさしと中島みゆきくらいしか聞いていませんでしたので、全然違うイメージの高橋真梨子さんの歌は飛んでいるような、明るくはつらつとしたイメージを感じていました。といっても私の好みではなかったので、彼の車に乗るとき以外は聞いたことがありませんので、忘れていました。
私は彼の結婚式に出席したりしましたが、仕事が忙しくなると、つきあう機会もなく遠のいていました。彼は優秀で大手の渉外事務所に入所し、海外で活躍していました。ところが、ある日がんで亡くなったことを知ったのです。葬儀ではまだ幼いお子さんとすてきな奥さんがしっかりした姿を見せていました。
その後、なぜか高橋真梨子さんの歌が心に届くようになってきたのです。それでもTVなどにはあまり出演していなかったのでしょうか、あるいは私自身があまり見ていなかったのでしょうか、その声を聞く機会は少なかったと思います。でも聞くたびに彼のことが思い出されます。誠実で素直な彼でした。私は失礼な話ですが、弟分のような感覚で当時はつきあっていたように思います。その素直さは法廷弁護士には向かないかもしれない?でも渉外弁護士だと能力を発揮できるかもしれないな、なんて思っていましたが、きっとハードな仕事で神経をすり減らしていて病気に気を配る余裕がなかったのかもしれません。
ところで高橋真梨子さんの心が洗われるような歌、そこには大変な経験を克服しつつ、歌われ続けていることがこの記事に書かれています。
<艶やかながらどこか憂いのある独特の歌声がファンを魅了する。日本人で初めて、米クラシックの殿堂・カーネギーホールで3度目の大ホール公演を成功させたこともある実力派だ。
今年でレコードデビュー45年。ベテランの域に達した心境を尋ねると、「幾つになっても現役でいたい。やめたいと思ったことは一度もないんです。いつか『その時』が来るまで一歩一歩大切に進んでいきたいですね」と答えた。>
でも重度の更年期障害だったんですね。
<過去には数カ月間、活動休止に追い込まれ、「寝たきり」にもなった。その時、献身的に介護をしたのがヘンリーさんだ。「彼がいなければ私、今ごろどうなっていたのかなあって」。最近は自宅での日光浴が日課でもあり、楽しみでもある。「おばあちゃんみたい?」。夫婦水入らずで過ごす、至福の時--。「この人と結婚して良かったって、いつも思うんです」>
その彼女が映画と歌に触れている部分があります。
<何度も繰り返し見た米映画「メッセージ・イン・ア・ボトル」から着想を得た「雲母(きらら)の波」を、6月に発表した最新アルバム「Katharsis」(カタルシス)に収録した。いわく「映画を見ると歌詞が浮かんでくる」。大好きな映画の冒頭に美しい波打ち際のシーンがある。「キラキラ光る波しぶきを『雲母』ととらえて歌詞にしたんです。私にとっては情景がとても大切なんです」>
そう高橋真梨子さんも「メッセージ・イン・ア・ボトル」に感じるものがあったのだと思ったのです。米映画の恋愛ストーリーは、画像的にとか、人物の動きに惹かれるものが多いのですが、そのストーリー展開にはどうも無理があるといつも感じるのです。この映画もそうです。それは映画ゆえの余白というか、そこが豊穣の中身なのかもしれませんが、私のような無骨者にはなかなか理解が進まないところです。
とはいえ、この映画はやはりいいですね。高橋さんが指摘している波打ち際の描写もいいですが、入り江と多様なヨット・ボートの配置具合、言葉で説明すると長くなりそうなので辞めますが、背景の自然や漁村のたたずまい、それと対比するようなシカゴ大都会、とてもいいです。
しかし、ボトルに入ったメッセージが恋の始まりの契機となるほど、その言葉から私には深い感動や魅力を、映画の中の聴衆ほどには感じないのは、私に問題があるのかもしれません。
おそらく主人公役のケビンコスナーが亡くなった妻のことを深く偲ぶ気持ちが私には理解できないのかもしれません。その亡くなった妻の作品や道具などにこだわる姿勢も今ひとつ共感というか、ついていきにくいのかもしれません。
恋人役のロビンライトの豊かな表情や愛らしい表現も、なぜケビンコスナーの朴訥な姿勢とそのメッセージの内容から生まれるのか、今ひとつぴんとこないのです。
ケビンの父親役のポールニューマンがとてもすてきな触媒というとおかしな表現ですが、少なくともいい仲人的役割を演じたように思うのです。
無理矢理押し込んだ内容のブログになりましたが、たまにはこういうのもありかと思っています。
ちょうど一時間となりました。顛末も内容もないしまりのないおわりかたとなりました。また明日。
補足
ここでなにを書こうと思っていたのか、ちょっと思いだし、少し補充することにしました。
米映画をそれほど見ているわけではありませんが、恋愛物語は結構多いように思いますが、それがコミカルに描かれる場合と、割合真剣なものとして描かれる場合と、ま、他の類型もあるでしょうけど、とりあえずこの2つのパターンが結構多いように思うのです。その中で、後者はまさに生死というか、死がほとんど関係しているのではと思うのです。恋愛当事者のどちらかが死ぬ、そのことによってより恋愛の深さを表そうとしているように思えるのです。
しかし、ですね、その恋愛の心の通い合い、言葉の触れ合い、そのものは逆に、深みを欠いているというか、どうして恋愛に至るのか、わたしのような無骨者にはよく分からないというのが感覚です。とはいえそのストーリー展開や背景描写の見事な点などさすがハリウッド映画(これに限らないのでしょうけど)と思うのです。そういえば昔LAのハリウッドまで出かけたのですから、結構、映画が好きだったんですね。