たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

大畑才蔵考その19 <作図の技術と歴史を少し考えてみる>

2018-07-09 | 大畑才蔵

180709 大畑才蔵考その19 <作図の技術と歴史を少し考えてみる>

 

今日調停成立を見込んでいたのが、内容が執行力の点で不十分と言うことで、次回に延びました。当事者代理人は了解していたのですが、裁判所が調停の執行力にこだわり、成立ができませんでした。裁判所からすると、調停の内容がもつ執行力に重点がおかれるのは分かりますが、本件は行政許可手続との関係が問題となっているので、その早期退所が必要なため、不十分な内容と知りつつ、当事者双方了解したのですが、裁判官の理解を得られませんでした。

 

もう少し事前に協議しておけば良かったのですが、いろいろ事情があり、裁判官対策を怠った結果なのでやむを得ません。今度は行政への説明が必要となりました。そんな疲れた一日で、急な土砂降りもあり、あまりブログを書く気分になれない状況です。こういうときは才蔵さんにでてもらい?勝手な議論を展開することにしました。

 

大畑才蔵という江戸中期の農業土木技術者として偉大な業績をあげたことはこれまでも触れてきました。とりわけ当時、紀ノ川という大河川から取水して長大な灌漑水路を建設した功績は高く評価されて良いと思います。

 

彼が当該灌漑事業について言及している古文書では、その事業に必要な水量を田んぼ一枚でどの程度必要か、その田んぼの土質や広さを考慮に入れて計算するなど、受益面積と受益水量を算定しています。他方で、灌漑用水を通すことにより、つぶれる田んぼ、他方で不要となるため池などの収支も当然、計算に入れています。

 

とりわけ彼の有能さを示すのは、作業する農民の繁忙期を避け、集中的に事業を行うため、事業区間を区分しつつ、その区間に必要な土量を計算し、一人当たりどのくらい運べるかを考慮して、区間ごとにどのくらいの作業人数を投ずれば良いかを割り出していくのですね。いまでは当たり前ですが、極めて合理的な算術を使って、集中的、効率的に事業を実施しています。

 

ところで、今日の話題である作図ですが、ポンチ絵にもならないような作図しかのこっていないようです。紀ノ川という大河を堰き止める取水する、堰・圦口は相当精巧な作図があっても良いと思うのですが、見当たらないようです。いや、世界灌漑遺産登録された「龍之渡井」もそうです。子供でも書けそうな絵はあっても、構造を示すような作図はないようです。

 

では、江戸時代までにそのような作図はあったのだろうかとふと考えてしまいました。あの前方後円墳、前方後方墳など、世界的にも奇妙な形状で、しかも世界最大クラスの規模のまで建設したというのに、作図は残っていないようです。

 

しかも前方後円墳も多様な形態がありますが、大規模な大仙古墳や誉田山古墳などでは、そのスケールがほぼ類似していて、高度な計算や測量、そして構造図の作図(少なくとも頭の中で)能力ながないとできないようなもののようです。

 

話は違いますが、日本庭園は当初は中国のものを模倣したり、鎌倉期では多くの中国の禅僧が庭園を普及していますが、室町期くらいからはまさにわが国特有の庭園が広がっていったのではないかと思うのです。その場合も庭園の作図は残っていないのではないでしょうか。現在では公園や庭園はデッサンから作図、それも詳細な図面が用意されますね。でも当時はそのようなものがない中で、現在まで評価されて残っている多くの庭園が造られてきたのでしょうね。

 

また話がずれますが、戦国末期は、多くの城が作られるとともに、水攻めが有効な戦略としてとられていますね。備中松山城、若山太田城、埼玉の忍城とか、でしょうか。これらはまさに大河川を堰き止め、堤防を築き、一気に城の周りを冠水させるわけですね。

 

すごい土木技術だと思うのですが、その技術は戦時秘密として残っていないようです。作図もないのではと思います。それで現代人はいろいろその構造を解明しようと苦悩しているようですね。

 

と長々と書いてきましたが、戦国時代の軍事機密はわかるのですが、作図というものがのこっていないのか、作図の能力がなかったのかふと考えたのです。いや頭の中で考えていたのかもしれません。

 

作図の経験がなかったのかもしれません。城に関しては、たとえば安土城とか、一部残っているとか聞いたことがありますが、真偽は不明です。まったく作図の能力がなかったとは思えないのですが、作図の技術の伝達がなかったのかもしれません。空海ですら、唐から多くの土木技術を学んできて、満濃池の修復を指揮したというのですが、その技術を示すような作図は残っていないように思います。

 

おそらく明治維新になりようやく欧米の設計図といった手法が導入され、次第に作図もだれもが習得できるようになったのではないかと思うのです。

 

18世紀後半、解体新書を描いたのも、たしか絵師が作画したと思いますが、まだ医学知見がない時代ですから、模写しても十分とは言えなかったと思います(むろん画期的なものであることに異論はありませんが)。

 

才蔵には絵師もおらず、またそういった土木技術書の原書もないわけですから、いくら頭脳明晰でも作図するには無理があったのでしょう。それよりも作図というか、地形図・地質図はもちろんのこと、設計図・施工図もない中で、巨大プロジェクトを実現したのですから、やはりすごいことだと思うのです。

 

ちょうど一時間となりました。これにておしまい。また明日。