たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

歩く道(その4) <中世末期に一際輝いた雑賀孫市の雑賀城付近を歩く>+補筆

2018-12-23 | 心のやすらぎ・豊かさ

181223 歩く道(その4) <中世末期に一際輝いた雑賀孫市の雑賀城付近を歩く>+補筆

 

ふと司馬遼太郎著『尻啖え孫市』を思い出しました。歩く道のコースをどこにしようかと考えたとき、紀の川河口を見たいと思ったのです。でも、現在の河口は幅400m以上あり、しかも全長500mもある波止(白灯大波止)がまさに人工物で、釣りをするにはよいかもしれませんが、私には少し興ざめです。では中世はどうだったか、それは古代を含め歴史景観を研究されている日野雅義氏による「紀ノ川河口付近の古地理変遷図」があり、縄文期からの変遷が図で示されています。

 

中世は和歌山市大浦が河口となっていました。この大浦には中世末期、この付近を拠点に日本各地で活躍した雑賀衆という共和制?の集団統治システムがあり、そのリーダーとして雑賀孫市がいました。その活躍ぶりは司馬さん流に、龍馬の維新での活躍のように、見事な筆致で描かれています。

 

雑賀衆の城がこの雑賀崎にある岬突端にあったそうです。雑賀衆が没落して400年以上経過していますが、周辺のまちなみがどうなっているか興味深く思ったのです。というのは雑賀衆の末裔が横須賀にやってきて、維新後呉服商などの商売で繁盛し、現在は横須賀中央駅横のさいか屋という横須賀で唯一?のデパートとして頑張っています。私はここの中華料理店が気に入りで時折食べに行っていました。横須賀はカレーの町といわれますが、中華料理が結構いい店があってよかったですね。

 

また横道にそれましたが、なにかと横須賀の雑賀衆の末裔と、元の雑賀衆の拠点とがむすびつくような気がして気になっていました。それで今日の歩く道は雑賀崎町周辺でした。

 

実は雑賀崎(さいかざき)の手前に、魚頭姿山(たこずしやま)とか紀州東照宮のある小高い山があり、そこを登って和歌山市街の展望を見て、行こうかと思ったのですが、天皇誕生日ということでしょうか?立入禁止になっていました。それで雑賀崎港までてくてく歩いて、そこから雑賀崎の断崖を見上げました。おそらく中世の紀ノ川は現在の市街地を横断する水軒川に沿って流れ、雑賀崎の海に出っ張った高台と魚頭姿山の高台までつながる壁に当たり、やっと海に出ていたのでしょう。

 

この2つの高台は山城的で海に出るときは出やすく、敵が海から攻めてくるときも眺望がきき、守りやすかったのではないでしょうか。

 

近くの閑静な住宅街を通りましたが、道は普通車がやっと通れる程度でした。それでも分譲地に近いくらい割合整備されていたかと思います。平坦なところはそうでした。中世の時代はきっと人が住んでいなかったのでしょう。

 

ところが雑賀崎の近く、雑賀崎漁港から登っていくと、これはまさに漁港のまちなみ景観でした。道は歩くのが精一杯、家は極めて建て込み、斜面地に軒を寄り添い合っているのです。谷間も尾根筋も一杯でした。そして歩いたのは幅2尺もないほどの狭い通路です。ちょうど上から降りてくる高齢の夫婦がいて、すれ違うのをお互い譲り合って礼をしながらでした。これもこういった漁村ならではの風景でしょうか。

 

そしてこれこそ横須賀の維新後海軍の町として発展し、現在も続く岬にある山のてっぺんまで傾斜が続くところに建てられたまちなみとほぼ似ています。戦後は米軍が広大な敷地に快適な住宅を作る一方で、そこに仕事で通う人たちの住む住宅はそういった傾斜地の安全性の担保されていない住宅であったと思われます。労働環境もアスベスト被害に晒されるものでした。米軍基地だけではないですが、横須賀がアスベスト被害を訴えた労働者が勝訴した先駆例でしたか。

 

また脱線しました。で、雑賀崎漁港を歩いたのですが、漁港自体は結構大きく感じましたが、漁船があまりなかったですね。漁業組合の建物も小規模でした。雑賀城(城が作られたというわけではないようです、拠点という趣旨のようです)の跡は現在、灯台が作られていて、そこからの見晴らしは素晴らしいものでした。現在の紀ノ川河口もよく見えました。その先に新日鉄住金の大きな工場もあります。ちょっと右に転じると、和歌山城を含め市街中心部も展望できます。おそらく現在の河口が整備する前は、この大浦まで湿地が続いていたのではないかと思います。攻めてくるにしても水路もなく、むろん歩くこともできず、当然のようにこの旧河口まで来ないといけなかったのでしょう。

 

今日雑賀崎周辺のまちを歩いていて気づいたのですが、割合、水路があちこちに走っていました。排水路として使われているようですが、幅1m位はありそうでした。蓋がされていない水路が相当あったように思います。水が流れているところもあれば、まったく流れていないところもありました。流れているところではどぶ臭いところもありました。

 

他方で、暗渠という蓋付きも相当ありました。中には一部をグレーチングにしているところもあったり、蓋部分を簡単に開けれるようなものもありました。簡易に鉄板を置いているのもありました。

 

私は都市の美しさは、そこに清らかな水が流れているかで決まると勝手に思っています。そういった水路があると自然心がやすらぎます。そして当然、そこに住む人たちの日常的な努力や配慮が自然と目に浮かべることができます。道で会っても会話が弾むかもしれません。

 

臭いものに蓋ではないですが、大事な水、よくも悪くもするのは、そこに住む人の心持ちでしょうね。そういった町の構成員になることに誇りをもちたいと思うのです。ギリシア・ローマの市民権というのはそういう基礎がなかったのでしょうかね。

 

ギリシア・ローマ法の思想とは脈略はないと思うのですが、北欧の人たちは市民、国民であることを誇りに思っているように思えるのです。高い税金を支払うことは当然のこととも思っていますね。行政サービスが納税を気持ちよくする程度に充実しているのでしょう。自然も自由に享受できるという、誰もがその自然を大事にするという考え方、私たち日本人にもあったはずですが・・・

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。

 

補筆

 

地名をいい加減に書いていましたが、少し気になり調べると、やはり間違っていました。<日本遺産 絶景の宝庫 和歌浦>と<地理院地図>で確認しました。

 

紀ノ川河口の中世の地名「大浦」に影響され、つい港や漁協、町の名前を「大浦」と書いてしまいましたが、「雑賀崎」が正解でした。大浦という名称は水軒川の河口付近で今も名前が一部残っていますが、あまり使われていないようです。

 

日本遺産の解説は参考になりましたが、ちょっと気になります。「若の浦」と呼ばれていたのが、ある時期から和歌の聖地となり、「和歌浦」となったというのはその名勝的価値がだれもが認めるところだったのでしょう。

 

山部赤人がうたった

 

若の浦に潮満ち来れば潟をなみ

葦辺をさして鶴鳴き渡る

(万葉集巻6 九一九)

 

は、葦の繁る潟が自然に浮かんできます。鶴が一斉に飛び立つ姿も豪快です。それとも遠くの空を群れになって飛んでいたのでしょうか。

 

でもその景勝のある景観はどこをいうのでしょう。現在の和歌浦港や片男波には残念ながらそのような心洗われるような景観を見いだすことは容易でないですね。実際、紀ノ川の河口を現在の位置に移し、同時に小河川を市街地から遠ざける、ある意味利根川東遷の小規模モデルとして北遷した江戸初期に大きく景観が変貌したと思うのです。

 

聖武天皇や山部赤人が見たのは、大浦の河口を臨む、雑賀崎の突端(灯台のあるところ)とか、ちょっと下った番所の鼻あたりからではないかと思うのです。

 

上記の日本遺産の「和歌浦」の一番最初に取り上げた写真は、まさに雑賀崎の突端から撮影されたものだと思われます。右から大島、中ノ島、双子島が並んでいます。そして双子島の2つの島がちょうど一直線となって奥の島が隠れる位置が雑賀崎の突端、灯台のある位置付近だと思われます。

 

日没の情緒も天平時代の歌人は好んだのではないかと思うのです。その夕日が落ちるところに、淡路島の島影がシルエットになるのも古事記の世界と連動するような印象でしょうか。

 

 


西行と明恵 <NHK 白洲正子が愛した日本人>を見ながら

2018-12-22 | 心のやすらぎ・豊かさ

181222 西行と明恵 <NHK 白洲正子が愛した日本人>を見ながら

 

今日は終日雨でしたか。やさしい雨模様でしたか。風もあまりなく、音も静かでした。ただ聞こえてくるのは野鳥たちが仲良く騒いでいる声、囀りでした。ヒヨドリの集団がやってきたようで、ずっと近くのヒノキ林で飛び立ったかと思えば、葉っぱの中に隠れたりと忙しく動いています。なんとものどかな風情です。

 

昨夜は、ゴーン日産前会長の特別背任容疑での再逮捕といったビッグニュースなどが報道されていましたが、さほどニュースに関心が向かず、午前中録画していた<プレミアムカフェ 白洲正子が愛した日本人 美の旅人 西行と明恵>を見ました。

 

西行も明恵も和歌山県出身とされています。和歌山出身の偉人というと陸奥宗光があがりますが、もし西行が父親が管理していた田仲荘(紀の川市の一部で紀ノ川北岸)で生まれたというのが正しければ、和歌山出身となりますね。そうなると、世界的にも西行を筆頭にあげてよいのかと思うのです。次に明恵となるかは別にして、おそらく二人ともそんなことには関心ないでしょうけど。

 

私自身、白洲正子氏の著作を1冊か2冊程度しか読んでなく、しかもさらっと眺めた程度ですので、その作家としてのすごさはよく分かっていません。

 

ただ、<【ゲスト】作家…車谷長吉,歌人…水原紫苑,演劇評論家…渡辺保>の皆さんはそのように指摘され、実際、西行本とか、明恵本とかには、必ずといってよいくらい引用されていますね。私はまだ読んでいませんが。あるいは読んでも忘れてしまうほど、適当に読んだのかもしれません。

 

白洲氏は74年に『明恵上人』、88年に『西行』を書いています。番組はこの著作を時折引用しながら、ゲストの思いを語り合っていました。最初に西行、次に明恵で、時折白洲氏自身の人物像も取り上げていました。

 

<2人に共通していたのは“世捨て人”と呼ばれていたこと。彼らの生涯をたどりながら、なぜ正子は2人に魅了されたのかを考える。>というのです。

 

で、番組では、西行と明恵を同時代の人として紹介していますが、たしかに大きな時間軸で言えば、同時代といってもよいでしょうけど、少し違和感を感じます。西行は1118年生で、明恵は1173年生です。まあいえば西行の晩年に生まれたのが明恵ですね。

 

有名な文覚と西行の話がありますね。神護寺にいた文覚は、元は西行と同じ北面武士、色恋沙汰の殺人事件で遁走、出家し、各地で勇猛な伝承が残り、私の関心のある紀ノ川では、桛田荘に水を引くため文覚井を作ったという伝承が残っています。皇太子が世界水会議でこの話を取り上げ、その前にわざわざ見学に来ています。

 

その文覚、神護寺に和歌で有名な西行が訪れると聞き、和歌などで世渡りしていると批判して少し懲らしめてやろうと意気込んで面談したのです。ところが文覚、西行の前で何もせず、話をして終わったのです。それで弟子が不思議がると、西行の身のこなしを見て隙がなくとても自分が倒せるどころか、反対にねじ伏せられるといったとか。

 

このとき、明恵は9歳から神護寺に入山し、文覚の弟子になっていたと思われ、西行との対面場面でもいたような扱いになっていたかと思います。たしかことばを交わしたような描き方をした小説家もいたような記憶です。同じ紀州出身ですから、西行が神護寺を訪れたのが80年代後半ではないかと思うのですが、祖父と孫に近い関係(70歳くらいと15歳未満か)ですから、それは明恵にとっては大変な方と思い、その後も心の支えの一つになったのではないかと思うのです。

 

明恵は法然さんの他力本願・浄土的な考えを心底嫌い、強烈な反論・批判を行っていますが、西行に対しては敬慕の念をずっと抱いていたのではないかと思うのです。番組ではこのようなとらえ方は取り上げていませんですが。

 

さて白洲氏はなぜ西行に惹かれたかが話題になりましたが、やはり出家の理由を問い続け、それは恋、しかも許されない恋にとらわれたためというのです。まあ悲恋の顛末に惹かれたのでしょうか。その人の名は待賢門院珠子です。西行を描く多くの小説家なり、さまざまな方も多数はそのようですね。私はどうかと思っているのですが、まだ有力な根拠を見いだせていません。

 

待賢門院珠子は白河法皇に見初められ、普通では考えられない生き方を余儀なくされています。夫にも子どもにも見捨てられたのではないかと思いますし、他方で法皇存命中は好き勝手をしていたかもしれません。そんな自由奔放な高貴な女性の姿に、田舎での無骨な西行の前身、佐藤義清はすっかり虜になってしまったというのですが、私には西行の生き方、作り続けた和歌からは想定できない筋書きです。

 

それに恋敵というか、夫である鳥羽天皇を奪ってしまった美福門院(藤原得子)は高野山に立派な陵が現在も残っていますが、西行は高野山に30年もいた(あっちこっち行っていますが)わけですし、高野山復興に相当な努力をしています。その当たりも気になっているのです。

 

どんどん番組で紹介された西行と明恵の話から遠ざかってしまいました。

 

で、番組では西行と明恵は美男子というか男前で、女性にもてたというのですが、明恵はありえるとしても、西行像で美男子というのをお目にかかったことがないのですが、ほんとかしらと思うのです。女性にもてたことはたぶんたしかだと思うのです。でも、それは容貌というより、そのりりしい姿、隙のない作法、たぐいまれな教養と自由に生き、頼まれると生死を怖れず強靱な意志で断行する行動力などではないかと勝手に思っています。

 

明恵の方は、仏に自ら奉仕するため耳を切り取ってしまうほど、熱い情念をもっていて、とても近寄りがたい印象です。それにマツの二つに分かれた幹の股のところに座して修行する、それも孤高の島に一人佇むというのは、とても女性にもてるとは思えないのですが。

 

最後に、二人の最期、いずれも死を覚悟して、その死を自然に、淡々と受け止め、この世を去っていたことに、日本人がこよなく愛する一面があるように思うのですが。これが本来、日本人の生き方、死に方ではなかったかとふと思うのです。

 

ちょっと脱線が多すぎて、なにを書こうと思ったのか忘れてしまいました。ともかく西行も明恵も魅力ある人ですね。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


オードリーの魅力 <ザ・プロファイラー▽“永遠の妖精”の知られざる苦悩>を見ながら+追補

2018-12-21 | 心のやすらぎ・豊かさ

181221 オードリーの魅力 <ザ・プロファイラー▽“永遠の妖精”の知られざる苦悩>を見ながら+追補

 

今日も朝からいろいろ人に会ったり、会議があったりで、いまようやく仕事を終えました。残業?ということばはわれわれの仕事にはありませんが、久しぶりに遅くなりました。疲れ気味ですので30分程度で今日のブログは切り上げようかと思います。

 

昨夜放送されたNHKBSザ・プロファイラー▽“永遠の妖精”の知られざる苦悩~オードリー・ヘプバーン>は、オードリーの魅力を改めて体感できました。

 

<【司会】岡田准一,【ゲスト】斉藤由貴,立川志らく,眞鍋かをり>のメンバーでどんな風にその魅力を映し出せるかと思いましたが、結構コンパクトにうまくできていたように思います。

 

なんといっても「ローマの休日」でのオードリーの魅力は初々しく見事に花開き、どの場面も素晴らしいです。

 

そのオードリーがそこにたどり着く前に、経験したさまざまな辛い過去が彼女の魅力を生み出す土壌になっていることがわかります。あの笑顔は悲しく辛い忍耐の連続を踏まえているからこそ生まれるのでしょうね。蓮華の花のようですね。

 

父親が英国人で母親がベルギー人でしたか、違っていたのですね。それも父親がオードリー6歳の時突然、目の前から消え、その事情が分からないままだったようです。それは幼いオードリーにとってとても悲しく辛いことだったと思います。それでもオードリーはそれでくじけることなくバレリーナの道を歩むのですね。きっと厳しい練習があったと思いますが、それを見事にこなしていったのでしょう。

 

そんなオードリーに戦争というとんでもない悲劇が待ち受けていたのですね。しかも母親の考えで英国から中立国オランダに移ったら、ドイツ軍に進駐され、占領下の生活を余儀なくされたのですね。まさに同い年のアンネとほぼ同一の厳しい環境下に置かれたのです。しかもオードリーは敵国英国人ですから、見つかると厳しい処分を受ける過酷な状況に陥ったはずでした。でもアンネと違って隠れることなく、自由に学校に通うことができたのは運がよかったのでしょうか。またオードリーの前向きな考え方がよかったのでしょうか。

 

それも学校などに行くのに、義勇軍などの伝達役を担って、靴の中に伝言文を隠して届けていたようで、これまた凄い勇気のある行動ではなかったでしょうか。単なる明るさ、人を喜ばせること以上に、不正義に対する強靱な抵抗心をもっていた人だと思うのです。

 

また、オードリーは、バレリーナの能力を生かしてコンサートで演技をして一定の報酬を得たようで、それを義勇軍などに寄付していたそうですから、ほんとに強い意志をもった人だったのですね。

 

こういったオードリーの10代までの厳しい体験は、彼女を誠の人として生きる礎を作り上げたのかもしれません。

 

バレリーナへの道は、戦争中の食糧難の影響で栄養失調となり、体力がなくなったのと、身長が168㎝で当時の男性との釣り合い上、あきらめざるを得なくなったようです。

 

それでもめげることなく、オードリーは新たな仕事の道を追求するのですね。モデルに映画俳優にと。そしてついに「ローマの休日」でのオーディションで、そのユーモアと笑顔が監督はじめすべての人をとりこにしたようです。番組でその映像を放送しましたが、無名の俳優であっても、決してひるむことなく堂々としていて、その人間的魅力こそ、それまでの体験がにじみ出ていることを感じさせます。

 

その後の活躍は数々の魅了される映画で周知の事実ですが、彼女の演技力について立川志らく師匠と他のメンバーとで少し見解が異なりました。私も感覚的には前者に賛同しますが、そういった技術的なものを越えたところに俳優としての魅力をだれもが否定できないのではと思うのです。

 

マイフェアレディーでは、歌が吹き替えであることはよくわかりますが、オードリーが自分で歌うつもりで訓練を積んでいたというのは知りませんでした。でも採用されなかったというのは辛い現実だったのでしょうね。でも映画としてはなにか不自然であってもいいものにできあがっていたと思います。

 

オードリーがその映画の最初に言語学者が驚くほどのなまりでしゃべるところは、よくやったなと思うのです。その後の変身はオードリーらしい魅力ですね。

 

今日オードリーの何を書こうとしたのか、どうもはっきりしません。30分となりましたので、これで今日はおしまい。また明日。


追補

昨日、尻切れトンボになっていまいました。いいたかったのはオードリーの晩年に見せた真の美しさ、女性として、人間としての生きる意志の気高さみたいなものでしょうか。さまざまな映画で多くの人を魅了した以上に、家族との生活を大事にして心豊かな日々を送られたことでしょう。でもそれだけで満足せず、後半生の多くをユニセフ親善大使としてアフリカや南米の飢餓や病気に苦しむ幼い子どもたちに接し、その窮状を訴える姿こと、彼女の真の姿ではないかと思うのです。

 

多くの女性(まあ男性もそうかもしれませんね)は、若く見えること、痩せて見えることに日夜、腐心しているようにCMあたりが日々繰り返し訴えています(それで余計民放をみないようにしています)。それこそそういった若さや細身という外見は、虚飾であり虚無そのもののように思えます。こんなことを言うと、あちこちから非難が殺到しそうといった不安は、(このブログを読むような人は希ですし、その中でそういう考えの人はおそらくあまりいないでしょうから、)まさに杞憂でしょうけど。

 

オードリーの魅力は、50代以前から思った以上に老けている印象にみえても、まして60代になったころのやせ細り、シワなども目立つほどになっても、その時代を経た履歴の跡こそ大事にしているように思えるのです。その外見的な若さより年齢を重ねた力強さで、今にも折れそうな弱々しい子どもたちに寄り添い、その子たちのために公の席に立ち強く訴える姿は、やはり永遠の美しさを備えている人ならではと思うのです。

 

私はすでにオードリーの亡くなった年齢を超えて久しいですが、私ができることはせいぜいシワや白髪が増えたことを気にしない程度でしょうか。ただ、魅力ある人をたたえるだけの気持ちは大切にしたいと思っています。


 


農業の担い手 <発言 行政含め新規就農対策を=飯田政明>などを読みながら

2018-12-20 | 農林業のあり方

181220 農業の担い手 <発言 行政含め新規就農対策を=飯田政明>などを読みながら

 

年の瀬はのんびりと過ごそうと思っていたら、ちょっとしたもめ事がめずらしく次々と持ち込まれ、意外と忙しくしています。既存のケースがほぼ落ち着いてきて、読書の冬を堪能しようと思っていたのですが、最近は月20冊は遠くに及ばず、10冊も満たない状況になってきました。実質5冊程度でしょうか。

 

今日も新件があり、といっても法テラス案件が多いので、その手続に時間が結構とられています。ブログの方もなかなかゆっくりと考える(いつものことですが)余裕がなく、今日も毎日記事<検証告白、ゴーン前会長逮捕の糸口(その1) 外国人幹部「耐えられぬ」>と昨年から続く検査不正の問題とを整理したいと思いつつ、また別の機会にすることにしました。ただ、一言触れておこうかと思います。

 

毎日朝刊の上記記事は「検証」と銘打って、<側近告白 アリの一穴>と逮捕の背景・実態に迫るような見出しで、期待したのですが、ちょっと肩すかし気味でした。おそらく取材チームも逮捕後必死に内部情報を得ようと努力し、とりわけ告発者の発言やその経緯などの情報を得ようとこれまで取材を続けてきて、ようやくここまでたどり着いたのでしょう。ただ、情報源らしいものがよくわからず、告発者の告発年月やその契機となった監査役らの日産極秘調査チームによる調査経過も時期・内容が判然としていないため、特捜の捜査経緯との関係も当然ながら闇の中ですね。おおよその感触は得られましたが、一次資料がほとんど明らかにされていないので、まあ今のところはこの程度にとどまるのでしょうね。

 

さて本題の農業問題に移ります。

 

同じ毎日の本日付記事<発言行政含め新規就農対策を=飯田政明・有限会社佐束ファーム社長>は、農業を担う人がいなくなりつつある農村社会を憂い、提言するものですが、自ら非農業の世界から農業の世界に入り農業法人を立ち上げ、耕作農地を拡大してきた実績をもつ方ですので、経験に裏打ちされた話として、貴重かなと思うのです。

 

飯田氏はシステムエンジニアの仕事に40年近く従事し、<約10年前、静岡県掛川市の農業法人が米価下落のため存続の危機に陥った。農地38ヘクタールの全面耕作放棄となる事態を阻止すべく、農業素人の仲間6人で法人を引き継いだ。3人が社員、3人がアルバイトだった。今は10年計画で4集落の農地計90ヘクタールを次の世代に引き継ぐべく、若者2人も新たに仲間に加え、四苦八苦して農地の集積、基盤整備、設備投資に取り組んでいる。>という農業新参者の一人ですね。

 

掛川といえば、以前も少し紹介した画期的な住民参加型のまちづくり条例の先駆けを作ったまちですね。30年くらい前でしょうか。

 

そこの農地の現状を語っています。<これから高齢者が次々と終農していくのに、その分をカバーする若者の就農は見込めない。「生業」とする真の農業、会社員とも比較可能で「食べていける農業」へと改革し、若者を呼び込まなければならない。集積すれば、基盤整備すれば、法人化すれば、それで解決すると思っている人がほとんどだが、法人でさえ高齢者ばかりになりつつある。>しかも<このままでは10年後の掛川市の放棄率は5割程度と予測される。>この割合はちょっと驚きですが、実際、農業の担い手、とくに若い人が増える状況がみられないように私も感じています。

 

これは掛川市だけでなく、全国たいていの市町村で起こっている状況ではないでしょうか。

 

そこで飯田氏は提言するのです。まず、地域で現状に対する共通認識をもとうと。それはこれまでの農業者と行政だけといった狭い当事者だけではダメだというのです。

 

つまり、<「地域ごとの10年後の農地放棄予想」を作り、農業者だけでなく市民、行政が共通認識に立つ。そのためには、地域農業の視点を持つ新しい部門、例えば「地域農業係」を自治体とJAにそれぞれ設け、「10年後」について大規模なヒアリングを行う。>

 

たしかに農業委員会も制度上、市民にも門戸を開くようになりましたが、はたして現実はどの程度市民が委員になれたのでしょうね。農業者以外、農地に関与すべきでないといった農地制度の仕組みがなかなかこういった共通認識を育む土壌をつくりにくくしているように思います。

 

この点、飯田氏は<ここで共通認識に立てなかったら解決策を考えても意味がない。>と断言しますが、私も基本、賛同します。が、ベルリンの壁みたいなものがしっかり仕切りしていて、容易に壊せないでしょう。

 

さて飯田氏は次に、というか目的は<新規就農で耕作放棄地の拡大を防ぐ解決策を探る。>というものです。

 

この目的というか目標を達成するには、<「他産業並みの待遇」「売り上げ2年分相当の設備投資」「地域のリーダー育成」など>の課題を挙げています。この<解決策として、企業の参入や第三セクターの導入もあり得るだろう。県の指導のもと、市とJAの「地域農業係」が中心となって大胆に、現実的に取り組んでほしい。>と、若者個人の新規参入を難しさを、企業や三セクで対応することを提案しているようです。

 

そしてこれまでの国の施策は十分でなく、<若者の新規就農までは全く届いていない。「これからの担い手」だけを「担い手」と再定義し、かつ「地域農業」という視点を入れて新施策を展開してもらいたいものだ。>というのです。

 

むろん、日本各地では相当程度若者の新規参入がみられる地域もあり、そういう地域ではさまざまな情報媒体を通じて、数珠つなぎのように若者がどんどんというと大げさですが、しっかりした足取りで増えてきているようです。今日もNHKの「おはよう日本」で紹介されていた村(名前を確認しませんでした)では、当地では「井手掃除」という水路に堆積した汚泥や葉っぱ、水路沿いの雑草や枝条を刈払いなど、共同作業に多くの新参若者夫婦が参加していました。地域でも工夫があれば、一人の若者が次の若者を呼び寄せることができますね。

 

それこそ地域に住む人たちの意識改革が必要なのでしょう。

 

それはそれとして、では国はどうなのか、ちょっと農水省の予算要求当たりを見てみました。

 

平成31年度農林水産予算概算要求の概要について>でおおよそがわかります。が、項目だけ見ても多すぎて、実のところ、よく分かりませんというのが正解でしょうか。

 

次に<平成31年度農林水産関係予算概算要求の重点事項>を見ると、国が何に重点を置いているか、予算額の多寡でおおよそ想定できます。

 

担い手の部分をあえて取り上げると

<1 担い手への農地集積・集約化等による構造改革の推進

農地中間管理機構による農地集積・集約化と農業委員会による農地利用の最適化

  農地中間管理機構等による担い手への農地集積・集約化の加速化

  農地の大区画化等の推進<公共>

  農地耕作条件改善事業

  樹園地の集積・集約化の促進

  農業委員会の活動による農地利用最適化の推進

  機構集積支援事業

 

多様な担い手の育成・確保と農業の「働き方改革」の推進

  農業経営法人化支援総合事業

  農業人材力強化総合支援事業

  農業支援外国人適正受入サポート事業

  女性が変える未来の農業推進事業

  農業協同組合の監査コストの合理化の促進

 

とそれでも、盛りだくさんで、頑張っている印象です。でも、予算額を見ると、<1 担い手への農地集積・集約化等による構造改革の推進>では、1500億円の②が中心で、次に一桁少ない①、③と続きます。では、もう一つの<⑵ 多様な担い手の育成・確保と農業の「働き方改革」の推進>はというと、②が200億円台で、残りは比較にならない小規模となっています。

 

でも、<2 水田フル活用と経営所得安定対策の着実な実施>や<3 強い農業のための基盤づくりと「スマート農業」の実現>となると桁違いの規模で、こちらが中心というのが明らかです。直接支払交付金など既存農業者に支給・提供する仕組みが中心かなと思ってしまいます。そこに若者の育成、他方で崩れつつある農村社会の立て直しに対応する措置がどの程度含まれているのか、ぴんときません。

 

ある相談事例で、補助事業など行政が支給するものの、内容が市民・国民レベルで透明化されておらず(法制度上そのようにはなっていない)、不明朗な支出がある疑いを抱かざるを得ない事案がありました。予算執行の透明化をさらに進めて、市民に開かれた農政になることを願うのです。それは飯田氏が指摘したように、市民も参加した形で、地域の農業のあり方を考え、農業の将来を託す若い人たちに新規参入を促す仕組み作りを地域で考えていくことが必要ではないかと思うのです。

 

思いつきの議論におつきあいいただきありがとうございました。今日はこれにておしまい。また明日。


ゴルフ場と里山 <NHKBS 「ニッポンの里山」で紹介されたゴルフ場の豊かな生態系>

2018-12-19 | 心のやすらぎ・豊かさ

181219 ゴルフ場と里山 <NHKBS 「ニッポンの里山」で紹介されたゴルフ場の豊かな生態系>

 

最近はゴルフ場に通う人も少なくなったのではないかと思います。私の年代だと、たいていの人(というと誇張でしょうか)がゴルフ場通いをしていたように思います。私もその一人でした。といっても知り合いの誰かのように、毎週一回は通うことを標榜していた30年前でも、2ヶ月に一回未満くらいでしたか。練習場は週に一回以上だったように思いますが。

 

一泊付きで行くこともありましたが、それは首都圏だとなかなか自然豊かなゴルフ場が少ないこともあったように思います。80年代から90年代初頭にかけてバブル景気の先頭をきってゴルフ会員権がうなぎ登りに上昇したこともあって、乱造されましたね。千葉県なども飛行機から下を覗くと見苦しいほどの状況でした。古くて格式のあるゴルフ場は別にして、コースを仕切る木々も薄っぺらなものがほとんどでした。とても自然に親しむといった場所ではなかったと思います。

 

仕事から離れて自然豊かな空気を味わうといった場所は滅多になかったですね。90年代に入り当時の環境庁が森林地での皆伐を抑制し、一定の森林を残す規則だったかと思いますが、策定し、少し元の森が残される余地がでてきたかと思います。そしてバブルがはじけたこともあって、ゴルフ場開発はぐっと下火になったように思います。

 

そんな過去を少し思い出しながら、NHKBSプレミアムで毎日放送している「ニッポンの里山」で、ゴルフ場が登場したのには一瞬驚きつつも、興味がそそられました。この朝の番組は日本各地で鋭意努力して維持されてきた豊かな里山を紹介していて、心安まる朝のひとときを迎えることができます。それでもゴルフ場が登場したのは私が見だしてからは初めてです。

 

ゴルフ場は維持管理が大変で、農薬散布が当たり前、そのことにより土壌汚染や河川汚染など、下流の人たちにとっては悩みの種となって、私も90年代ころよく相談を受けました。それで私の短いゴルフ人生もストップしてしまったのです。まあ下手の横付きで一時は夢中でゴルフクラブを振り回していましたね。

 

今日も何を書こうか浮かばなかったので、ついついこの話題を取り上げたので、すぐ脱線してしまいます。

 

本題のゴルフ場に里山環境をという点ですが、それはゴルフ場管理者が大変な努力をされていて、しかも会員のゴルファーも支援しているからではないかと思い、その内容と背景を紹介できればと思ったのです。

 

ゴルフをする人は、あまり自然を堪能しないというと、偏見かもしれません。が、わが国のゴルフ場がそのような作りになっているように思いますし、やはりプレー料金も高いこともあり、ゴルフのスコアとか仕事の付き合いなどのため仕事の話とか、周囲の生態系を愛づる人はあまりいないように思うのです。

 

ところが番組で紹介された茅ヶ崎のゴルフ場では、フェアウェイのそばに、ウサギが顔を出したり、いろんな野鳥が飛んできたり、たしかトビの巣がありましたか、野生生物がいろいろ登場します。植物はどうだったかあまり覚えていませんが、水辺環境も生態系に配慮したものだったようでしたから、豊かだったのではと思います。

 

管理者が農薬使用を極力控えたりして、野生生物が棲みやすくしています。その分草刈りが大変ですが、その草刈りも工夫しています。周囲の野草も、本来は茎の根元から刈払するのですが、わざと10㎝くらい残して刈り取っています。するとバッタなど昆虫が生息しやすいわけですね。カエルなんかも卵を産み付けたりできるようにしています。

 

私自身、毎日のように草刈りをしていましたが、かわいらしい野草があると残したりしていました。でもだいたいがバサッと根元から刈り取っていました。それで昆虫などが減るかどうかわかりませんが、すぐに草が生えてきて、草刈りの方が追いつかないので、そういう場合はそういった配慮がいらないようです。昆虫は一杯でしたね。

 

ともかく大変な努力と工夫があれば、ゴルフ場もすてきな里山生態系を生み出すことができるんですね。

 

それに夜間のツアーが紹介されていましたが、会員の皆さん(私のように高齢者ばかりだったようでした)、夜のゴルフ場の生態を観察に出かけていました。里山そのものだと、夜間に入るのは少し危険かもしれませんが、ゴルフ場の中だと、そういったリスクも少なく、安全に昼間とはまったく異なる野生生物の姿を見ることができますね。眠っているトンボとかなかなか見る機会がありませんが、登場していました。当然ながら枝などにぶら下がってじっとして眠っているのですね。眠っているから、近づいても逃げません。そういう昆虫の生態を身近に感じることができるのもすばらしいことですね。

 

今日はこれにておしまい。また明日。