明治22(1889)年10月4日に設立された「日本法律学校」が日本大学の前身です。
そのため日本大学の創立記念日は10月4日となっています。
現在の日本大学法学部法律学科の起源はこの日本法律学校にあります。
設立の趣旨は、「外来の先進ヨーロッパ諸国の法学思想とわが国固有の思想との融合調和を目指し、日本独自の法律文化を確立するため」です。
日本の法律を専門的に学ぶ学校の必要性を認識したのが、初代司法大臣であった「山田顕義」でした。
当時は欧米の法律を学ぶことが主流であったのに対して、日本法律学校は日本の法律の研究を主眼としていました。
設立の要旨は次のようにまとめられています。
一、国法は日本固有の国体・民情・慣習・ 文化を根底として作られるべきであり,この際日本古来の慣習制度をみ直す
二、憲法はじめ法律が多数制定されつつある現在,これを国民に熟知徹底させるために日本法律を講義する
三、日本法律として成立した法律を検討し,古来の精神・慣習・制度の面から必要な改正の議をたてる
四、同時に海外の法理もまた大いに研究し,わが国法学に資し,もって日本法学を振起して国運の増進をはかる
これをまとめると、日本法律学校では「日本学」を教授していたわけです。
このことから現在の「日本大学の目的及び使命」の冒頭に「日本大学は日本精神に基づき」という言葉が入っているわけです。
山田顕義の考え方に賛同し、日本法律学校の初代校長として就任したのが「金子堅太郎」です。
金子堅太郎は日本大学の歴代学長として最初に記載されており、市ヶ谷の本部にも胸像が飾られています。
金子はアメリカのハーバード大学で法律を学び、内閣総理大臣の秘書官として伊藤博文のもとで井上毅、伊藤巳代治らとともに大日本国憲法(明治憲法)や皇室典範の起草にあたった人物です。
明治憲法は日本の国体に基づいて、日本古来の精神が込められた憲法として誕生しました。
しかし後年、戦時下に入るにつれて明治憲法が制定された由来が忘れられ、本来の憲法の解釈を大きく捻じ曲げるような風潮が現れました。
金子が晩年、このような世の中の風潮を嘆いて著したのが『憲法制定と欧米人の評論』です。
「然るに此の名誉と誇りを損なうような憲法の解釈を弄するもののあることは、甚だ遺憾に堪えない」
「此の光輝ある憲法、此の世界無比の憲法が、少しも其の尊厳を毀損することなく、益々その光彩を現今は勿論、千万年の後に至るまで後世に発揮せんことを、われわれ日本臣民の義務として相共に粉骨砕身して力を尽くしたいと思う」
しかしそのような金子の思いもむなしく、明治憲法に対する誤った解釈が改められることはありませんでした。
戦争に敗北し、明治憲法が日本国憲法に改正されてからその風潮はますます強まったようです。
現在でも公民科の「政治・経済」の授業では日本国憲法と比較されて明治憲法が戦争の原因であるかのように教科書や資料集に記載されており、まるで悪者扱いです。
戦前日本の悪はすべて明治憲法にあるかのように扱われており、本来の解釈が大きく捻じ曲げられています。
幸いにも私はそれに気づくことができましたので、少しでも金子の思いを授業で伝えていきたいと考えています。
その後日本法律学校は総合大学への昇格を目指し、明治36(1903)年に日本大学に改称しました。
奇しくもこの年は旧制豊山中学が設立されたのと同年です。
竹村知洋