11月の奈良巡礼は、祖母が少しでも安らかに逝けるようにと願った巡礼でした。
お気付きの方もいらっしゃるかもしれませんが、関西での癌封じで有名なお寺のひとつが、大安寺さんでございます。
ほぼ4年前、家の中で着替え中に転んだ祖母。左足の大腿部と右肩を骨折致しました。
その後、何度も人工股関節の手術を受け(何度も転んだので、結局両足とも人工股関節になっちゃったんです^^;)ようやくここ1~2年で、家政婦さん(他人さん)のいる状態や週2回のデイサービスを受けるという生活サイクルになじんできた所。
家の中だけでしたが、手押し車に掴まって居間とベットとを一人で往復する事もできてました。
トコロが今年の11月に突然、足が立たなくなったと連絡が入り、そのまま入院となったのです。(二日ほど前まで、元気だったんですよ)
初めは骨折した部分に不具合が生じたのだと思った。
レントゲンを撮っても、股関節部分の骨が欠けたり(年とともに骨がもろくなるので、欠ける人も多いらしいです。)外れたりはないとの事。
痛みの原因は他にある。
そうして行きあたったのが、肺がんだった。
今までに何度か肺のレントゲンも撮っていたのだが、見つかることなくこの日になってしまったのです。
既に腰の骨にも転移をしており、この転移している場所が痛みの元だとの事。
年齢的にも、体力的にも、治療をすることは断念。
とにかく祖母の苦しみを取ることに専念することとなりました。
実際問題、肺がんは昨日今日の新しいものではなく、断言はできないが、ずいぶん前からあり、たまたま見つかることなく来てしまったモノだろうと主治医は判断されたらしい。
両切りのピースを何十年とのみ続けた祖母ですから、まぁ、やっぱりかぁ・・・的な気持ちもありました。(一日に2~3本しか吸わなかったんですけどね。)
むしろ癌の進行よりも、弱っている内臓の方が心配だと。
癌治療はしないものの、痛み止めを処方しなければなりません。その痛み止めの副作用などで、もともと機能が弱っていた腎臓がダメージを受けていたらしい。
痛みのコントロールが出来、症状が安定し、近所に見てもらえる町医者がいれば、家で看ても構わないと主治医はおっしゃいました。
自分の家が一番。お山の大将の祖母です。
病院嫌いの祖母を家でゆっくり看取る計画を立てておりました。
入院から1週間を過ぎ2週目の終わりごろ、ようやく痛みのコントロールが出来てきました。
腎機能の安定を待って、家に帰る・・・その矢先。
11月30日、容体が急変。
昼過ぎに父からメールで危篤の知らせが入る。
早退をし、急ぎ病院へ向かった。
既に瞳孔は開いて、目は動いても見えてる可能性は低いとのこと。ただし、耳は最後まで機能しているので、たくさん話しかけてあげてと看護師さんが言った。
私の声にも反応し、顔を向け、目もギョロっと向けてくれる。手だって、握り返してくれる。
祖母には子供が4人おり、一番末っ子の二男は東京で仕事をしている。頑張っても夜にしか来られない。
なので祖母が頑張りました。
末っ子の到着まで、意識を手放すことをしませんでした。
全員。全員が祖母の意識のあるうちに対面することが出来たのです。
二男の到着後、暫くしてからギョロギョロっと動かしていた目を閉じ、少し荒い息だがゆっくりと休み始めました。
子供のいる姉と、仕事をほっぽり出してきた従弟がいったん家に帰った。
沢山いても仕方ないからと、病室には、長女長男二女そして孫の私が付き添った。
交代しながら、体を休めつつ祖母の傍らに着いている。
夜じゅう、祖母の荒い息を聞きながら過ごした。
かなり安定しており、このまま持ち直すんじゃないかとさえ思えた。
朝になり、8時前に主治医が様子を見に来て下さった。
祖母の鼓動を聞いて、ちょっとびっくりしていた。
「力強い音ですね。心臓がお強いから頑張っています」と。
腎臓が少しでも機能して、尿の排泄があれば希望もあったのだけど・・・
肺にできた癌で気道が圧迫されている為、呼吸が笛のようにヒュ~ヒュ~と鳴る。
従弟も姉も早々に病院に着、祖母の浮腫んだ手や足をさすった。
昨日、握り返してくれていた手は既に力がなかったけれど、温かかった。
左足はすっかり冷たくなってしまっていたけれど、摩ると少し温かくなった。
夜寝ている時より穏やかな寝息。
二男は仕事がどうしても外せない立場でもあったので、「心残りはない。ちゃんと別れは出来た。仕事が終われば、とんぼ返りで戻る。」と帰って行った。
このまま穏やかな眠りが続くかも・・・と思っていたのだけれど。
心電図がピーピーと鳴りだした。
心拍数や呼吸数が危険値である事を知らせる。
母や叔母が「母は延命を望んでいないと思うので、点滴やチューブは外せないか?」と看護師に聞いた。
看護師さんは、「これは延命の為の点滴やチューブではありません。酸素や点滴をすることで痛みや苦しみを和らげているんです。ご家族様には辛い姿かもしれませんが、患者さんは頑張っています。取ったからと言ってほとんど変わらないと思いますよ。」
そうかもしれない。
見ている事が辛いことと、本人が辛い事は一緒じゃない。
野生の動物が、死ぬその瞬間まで生き続けるように、理性を越えた場所に居る祖母は、この時頑張っていたのかもしれない。
みんなが「もう頑張ることないで」「おじいちゃん(50年前に亡くなってます)の所でゆっくりし」と声を掛けると、天邪鬼な性格の為か、また少し安定する。
こんな時までも頑固な祖母に、みんな笑った。
何度かこれを繰り返し、痛み止めの薬を張り替えてもらった後、すぅっと息を吸った。
すぐに主治医と看護師さんが病室に来た。
すぅっと吸い込んだその息が吐かれる事はなかった。
ダメだと言われてから丸1日以上頑張った、天邪鬼な祖母。
お顔を抱きしめると温かかった。
癌と告知はされたけれど、長患いをしなかったからか、とてもつやつやな奇麗な顔だった。
むしろ、2日間付き添っていた私たちの方がエライ形相だったと思う。
家が好きで好きでたまらなかった祖母。
自分で死期をコントロールしたんじゃないかと思う。
3日は友引だったので、お葬式は4日と決まった。
一日でも長く「家に居たかってん」と、べっと舌を出してほくそ笑んでる祖母が見える。
直接の原因は、腎機能障害からくる肺炎(肺に水がたまって起る)だったけれど、私はこれが祖母の天寿だったのだと思う。
母のキョウダイの中には、家に連れて帰らなくても・・・という人もいたけれど、そこは母が頑張り通した。
派手好きで、人に振舞うのが大好きで、見栄っ張りで、家で大将だった祖母だから、と。
祖母は自分の家に帰って来、ゆっくり別れを告げた後、自分の家から旅立った。
お通夜の日に来てくれた子坊んちゃん(立派なお坊様だけど、小さいころから知っているので、祖母はいつも「こぼんちゃん」と呼んでいた)がお勤めの後に、「おばちゃんは耳が遠いから、大きな声で聞こえるようにお経をあげたで」と泣きながら祖母と対面してくれた。
お葬式の日には、大おっさん(和尚さんがなまってるのか、祖母はそう呼んでいた)が二男さん(通夜は長男さん)を連れてお勤めして下さった。
七日、七日の法要にも、お経上げさせてもらいますとおっしゃって下さった。有難いことです。
手前味噌でございますが、祖母の最期は、本当に良かったと思います。
自分もいつか両親を見送る日が来ます。(予定は未定?いやいや、親より先に死なないって孝行しか残されてないし^^;)
その時には、祖母との別れを見本にしたいな。。。と思います。
私自身の家は浄土真宗ですが、私個人はいろんな神仏を信じております。これって決めてません。神様仏様大好きな人ですから^^
私が読んで、そうだなぁと感銘した、とあるお坊様の言葉を紹介致します。
以下、転用。
「浄土真宗では、線香は立てずに、横に寝かせて点けます。
この線香ってものは、不思議なもので置いたとき、下が、空気を通すものや、燃えるものじゃないとすぐ消えてしまうんです。
たとえば、灰皿の上に、直に、線香をおいても消えてしまいます。
要するに、下に“灰”がないと、消えてしまうんです。
今までに燃え尽きた線香たちの“灰”がないと点かない。
線香は自分の体を燃やしながら、周りに、芳しい香りを出し続ける。
自分が燃え尽きても、芳香だけは、残して行く。
その芳香は、いずれ薄れてしまうけど、灰だけは、次の線香が良い香りを出すために活かされつづける。
人の命ってのを考えたとき・・
ご先祖たちは、それぞれ、いろんな人への影響を出し続けて、一生を過ごし
多分、自分の子供や孫の世代まで影響を与え、自分の3世代・4世代あとになったら流石にその影響を、直には与えないかもしれないけれど
ちゃんと、後々後々の人間が同じように芳香を出して生きていけるように、活きているんだろう。
ご先祖様~
おいらは、ご先祖さまの“お蔭”で一応、燃えてはいますよ。
良い香りでてますかねぇ?
なるべく良い香りがええなぁ~」
お坊様のお話は、「おかげさま」のお話です。
人は一人では生きていないという事です。何かの、誰かの「おかげ」がないと、生は成り立たないのです。
私もおばあちゃんの灰の上で、少しでも芳しくありたいと思うのであります。(ばーちゃん家は浄土宗なので、お線香は寝かさず立ててたんですけど、ね^^・笑)
お気付きの方もいらっしゃるかもしれませんが、関西での癌封じで有名なお寺のひとつが、大安寺さんでございます。
ほぼ4年前、家の中で着替え中に転んだ祖母。左足の大腿部と右肩を骨折致しました。
その後、何度も人工股関節の手術を受け(何度も転んだので、結局両足とも人工股関節になっちゃったんです^^;)ようやくここ1~2年で、家政婦さん(他人さん)のいる状態や週2回のデイサービスを受けるという生活サイクルになじんできた所。
家の中だけでしたが、手押し車に掴まって居間とベットとを一人で往復する事もできてました。
トコロが今年の11月に突然、足が立たなくなったと連絡が入り、そのまま入院となったのです。(二日ほど前まで、元気だったんですよ)
初めは骨折した部分に不具合が生じたのだと思った。
レントゲンを撮っても、股関節部分の骨が欠けたり(年とともに骨がもろくなるので、欠ける人も多いらしいです。)外れたりはないとの事。
痛みの原因は他にある。
そうして行きあたったのが、肺がんだった。
今までに何度か肺のレントゲンも撮っていたのだが、見つかることなくこの日になってしまったのです。
既に腰の骨にも転移をしており、この転移している場所が痛みの元だとの事。
年齢的にも、体力的にも、治療をすることは断念。
とにかく祖母の苦しみを取ることに専念することとなりました。
実際問題、肺がんは昨日今日の新しいものではなく、断言はできないが、ずいぶん前からあり、たまたま見つかることなく来てしまったモノだろうと主治医は判断されたらしい。
両切りのピースを何十年とのみ続けた祖母ですから、まぁ、やっぱりかぁ・・・的な気持ちもありました。(一日に2~3本しか吸わなかったんですけどね。)
むしろ癌の進行よりも、弱っている内臓の方が心配だと。
癌治療はしないものの、痛み止めを処方しなければなりません。その痛み止めの副作用などで、もともと機能が弱っていた腎臓がダメージを受けていたらしい。
痛みのコントロールが出来、症状が安定し、近所に見てもらえる町医者がいれば、家で看ても構わないと主治医はおっしゃいました。
自分の家が一番。お山の大将の祖母です。
病院嫌いの祖母を家でゆっくり看取る計画を立てておりました。
入院から1週間を過ぎ2週目の終わりごろ、ようやく痛みのコントロールが出来てきました。
腎機能の安定を待って、家に帰る・・・その矢先。
11月30日、容体が急変。
昼過ぎに父からメールで危篤の知らせが入る。
早退をし、急ぎ病院へ向かった。
既に瞳孔は開いて、目は動いても見えてる可能性は低いとのこと。ただし、耳は最後まで機能しているので、たくさん話しかけてあげてと看護師さんが言った。
私の声にも反応し、顔を向け、目もギョロっと向けてくれる。手だって、握り返してくれる。
祖母には子供が4人おり、一番末っ子の二男は東京で仕事をしている。頑張っても夜にしか来られない。
なので祖母が頑張りました。
末っ子の到着まで、意識を手放すことをしませんでした。
全員。全員が祖母の意識のあるうちに対面することが出来たのです。
二男の到着後、暫くしてからギョロギョロっと動かしていた目を閉じ、少し荒い息だがゆっくりと休み始めました。
子供のいる姉と、仕事をほっぽり出してきた従弟がいったん家に帰った。
沢山いても仕方ないからと、病室には、長女長男二女そして孫の私が付き添った。
交代しながら、体を休めつつ祖母の傍らに着いている。
夜じゅう、祖母の荒い息を聞きながら過ごした。
かなり安定しており、このまま持ち直すんじゃないかとさえ思えた。
朝になり、8時前に主治医が様子を見に来て下さった。
祖母の鼓動を聞いて、ちょっとびっくりしていた。
「力強い音ですね。心臓がお強いから頑張っています」と。
腎臓が少しでも機能して、尿の排泄があれば希望もあったのだけど・・・
肺にできた癌で気道が圧迫されている為、呼吸が笛のようにヒュ~ヒュ~と鳴る。
従弟も姉も早々に病院に着、祖母の浮腫んだ手や足をさすった。
昨日、握り返してくれていた手は既に力がなかったけれど、温かかった。
左足はすっかり冷たくなってしまっていたけれど、摩ると少し温かくなった。
夜寝ている時より穏やかな寝息。
二男は仕事がどうしても外せない立場でもあったので、「心残りはない。ちゃんと別れは出来た。仕事が終われば、とんぼ返りで戻る。」と帰って行った。
このまま穏やかな眠りが続くかも・・・と思っていたのだけれど。
心電図がピーピーと鳴りだした。
心拍数や呼吸数が危険値である事を知らせる。
母や叔母が「母は延命を望んでいないと思うので、点滴やチューブは外せないか?」と看護師に聞いた。
看護師さんは、「これは延命の為の点滴やチューブではありません。酸素や点滴をすることで痛みや苦しみを和らげているんです。ご家族様には辛い姿かもしれませんが、患者さんは頑張っています。取ったからと言ってほとんど変わらないと思いますよ。」
そうかもしれない。
見ている事が辛いことと、本人が辛い事は一緒じゃない。
野生の動物が、死ぬその瞬間まで生き続けるように、理性を越えた場所に居る祖母は、この時頑張っていたのかもしれない。
みんなが「もう頑張ることないで」「おじいちゃん(50年前に亡くなってます)の所でゆっくりし」と声を掛けると、天邪鬼な性格の為か、また少し安定する。
こんな時までも頑固な祖母に、みんな笑った。
何度かこれを繰り返し、痛み止めの薬を張り替えてもらった後、すぅっと息を吸った。
すぐに主治医と看護師さんが病室に来た。
すぅっと吸い込んだその息が吐かれる事はなかった。
ダメだと言われてから丸1日以上頑張った、天邪鬼な祖母。
お顔を抱きしめると温かかった。
癌と告知はされたけれど、長患いをしなかったからか、とてもつやつやな奇麗な顔だった。
むしろ、2日間付き添っていた私たちの方がエライ形相だったと思う。
家が好きで好きでたまらなかった祖母。
自分で死期をコントロールしたんじゃないかと思う。
3日は友引だったので、お葬式は4日と決まった。
一日でも長く「家に居たかってん」と、べっと舌を出してほくそ笑んでる祖母が見える。
直接の原因は、腎機能障害からくる肺炎(肺に水がたまって起る)だったけれど、私はこれが祖母の天寿だったのだと思う。
母のキョウダイの中には、家に連れて帰らなくても・・・という人もいたけれど、そこは母が頑張り通した。
派手好きで、人に振舞うのが大好きで、見栄っ張りで、家で大将だった祖母だから、と。
祖母は自分の家に帰って来、ゆっくり別れを告げた後、自分の家から旅立った。
お通夜の日に来てくれた子坊んちゃん(立派なお坊様だけど、小さいころから知っているので、祖母はいつも「こぼんちゃん」と呼んでいた)がお勤めの後に、「おばちゃんは耳が遠いから、大きな声で聞こえるようにお経をあげたで」と泣きながら祖母と対面してくれた。
お葬式の日には、大おっさん(和尚さんがなまってるのか、祖母はそう呼んでいた)が二男さん(通夜は長男さん)を連れてお勤めして下さった。
七日、七日の法要にも、お経上げさせてもらいますとおっしゃって下さった。有難いことです。
手前味噌でございますが、祖母の最期は、本当に良かったと思います。
自分もいつか両親を見送る日が来ます。(予定は未定?いやいや、親より先に死なないって孝行しか残されてないし^^;)
その時には、祖母との別れを見本にしたいな。。。と思います。
私自身の家は浄土真宗ですが、私個人はいろんな神仏を信じております。これって決めてません。神様仏様大好きな人ですから^^
私が読んで、そうだなぁと感銘した、とあるお坊様の言葉を紹介致します。
以下、転用。
「浄土真宗では、線香は立てずに、横に寝かせて点けます。
この線香ってものは、不思議なもので置いたとき、下が、空気を通すものや、燃えるものじゃないとすぐ消えてしまうんです。
たとえば、灰皿の上に、直に、線香をおいても消えてしまいます。
要するに、下に“灰”がないと、消えてしまうんです。
今までに燃え尽きた線香たちの“灰”がないと点かない。
線香は自分の体を燃やしながら、周りに、芳しい香りを出し続ける。
自分が燃え尽きても、芳香だけは、残して行く。
その芳香は、いずれ薄れてしまうけど、灰だけは、次の線香が良い香りを出すために活かされつづける。
人の命ってのを考えたとき・・
ご先祖たちは、それぞれ、いろんな人への影響を出し続けて、一生を過ごし
多分、自分の子供や孫の世代まで影響を与え、自分の3世代・4世代あとになったら流石にその影響を、直には与えないかもしれないけれど
ちゃんと、後々後々の人間が同じように芳香を出して生きていけるように、活きているんだろう。
ご先祖様~
おいらは、ご先祖さまの“お蔭”で一応、燃えてはいますよ。
良い香りでてますかねぇ?
なるべく良い香りがええなぁ~」
お坊様のお話は、「おかげさま」のお話です。
人は一人では生きていないという事です。何かの、誰かの「おかげ」がないと、生は成り立たないのです。
私もおばあちゃんの灰の上で、少しでも芳しくありたいと思うのであります。(ばーちゃん家は浄土宗なので、お線香は寝かさず立ててたんですけど、ね^^・笑)