ドラクロワEugenie Delacroixとサンドに関する覚え書き
*フランス絵画史におけるドラクロワの位置
18世紀 : 宮廷画家ワットーに代表されるロココ調絵画
19世紀 :
古典主義 - ダヴィッド(ナポレオン時代 : 古典派を代表する宮廷首席画家)
アングル(ナポレオン失脚後 : 古典主義を継承)
グロ (古典主義とロマン主義の狭間で葛藤した画家。ロマン派に脱皮しようとするも、師のダヴィッドに古典
主義を死守するよう命じられる。苦悩のうちに死を迎えた。)
ロマン主義の台頭 - ジェリコ
ロマン主義の進展 - ドラクロワ
*「キオス島の虐殺」1824. ドラクロワ24才の作品。Salonに初めて入選。ルーブル美術館 Muse'e du Louvre 所蔵
「キオス島の虐殺」は、トルコ軍のギリシャ侵攻の残虐性を描いている。15世紀以来、トルコの圧制下にあったギリシャ人は、19世紀にトルコから独立するための解放運動を起こす。1821年の暴動を制圧しようとしたトルコ政府は、一万人近いギリシャ人を虐殺したり、奴隷にした。詩人バイロンはこの大虐殺に憤慨し、ギリシャ救援を訴え、詩編『ミネルヴァの呪い』を書いている。この作品は、「静」ではなく「動」、「直線」ではなく「動線」でもって「人間の感情や激情」を表現している。
「擬音的」であり、伝統を超えた独自の「色彩」を特色とする「革新的」なこの作品は、古典派とは一線を画した「フランス絵画におけるロマン主義」を標榜している。個性と自由な表現に重きを置いたドラクロワの芸術精神は、ボードレールによれば「文学的な」精神をも象徴していた。それゆえに、古典主義派からは「絵画の虐殺だ」と激しく非難されたが、古典主義からロマン主義への移行を示唆するフランス絵画史における歴史的な作品と高く評価されている。
*現代の絵画専門家の間では、ドラクロワが宰相タレイランの隠し子であったとするかの著名な逸話は、ほぼ確実な事実とされているようである。
*サンドの書簡集には、ドラクロワとの往復書簡が残されている。ゴーチエやボードレールまたショパンと同様に、サンドは一貫してドラクロワを称賛し、その友情を暖めた。ドラクロワがサロンの権威筋に無視されるという一種の苛めにあった時には、花束や心の籠もった慰めの手紙を送っている。またサンドは、初期の作品『マテア』の中で、ギリシャ人と結婚し、トルコ衣装を身につけ男装し、職業を手にして自立する女性マテアを描く一方、ギリシャ人とトルコ人の国民性の相違やキオス島についても言及している。トルコ人の残虐性や美的感覚は批判しつつ、トルコ人の長所も挙げている。そこには、対立する両者の和解により、暴力のない理想郷を志向するサンドの思念が垣間見られる。他方、時代の境界線を超えた現代的ともいえる生き方をするヒロイン『マテア』には、ある意味では、ドラクロワの革新的な創作精神が具現化されているといえるのではないだろうか。
*参考までに、『マテア』については次の拙稿で取り上げております。
-「越境する小説空間『マテア』― 母性神話批判から自己超越へ」 (特集 ボーダレス時代を生きる)in『女性空間 』 no.24, 日仏女性研究学会・日仏女性資料センター 編, 2007, pp. 33~43.
-「ジョルジュ・サンドの『マテア』における変装と現代性」in『慶應義塾大学日吉紀要, フランス語フランス文学』
No.45、 慶應義塾大学出版会、2007、pp. 1~20.
http://ci.nii.ac.jp/naid/40015652746/ http://ci.nii.ac.jp/
-「La Modernite' dans "Mattea" de George Sand 』in "La Modernite' de George Sand" : Les Actes du colloque de George Sand, Cahiers du C.E.R.S., sous la direction d'Amina Ben Damir, Tunis, 2007、pp.189-201.
-『ジョルジュ・サンドにおける変装の主題 ー1830年代の作品群をめぐって ー』in『慶應義塾大学日吉紀要, フランス語
フランス文学』No.46、退官記念特集号、慶應義塾大学出版会、2008、 pp. 13~40.
*フランス絵画史におけるドラクロワの位置
18世紀 : 宮廷画家ワットーに代表されるロココ調絵画
19世紀 :
古典主義 - ダヴィッド(ナポレオン時代 : 古典派を代表する宮廷首席画家)
アングル(ナポレオン失脚後 : 古典主義を継承)
グロ (古典主義とロマン主義の狭間で葛藤した画家。ロマン派に脱皮しようとするも、師のダヴィッドに古典
主義を死守するよう命じられる。苦悩のうちに死を迎えた。)
ロマン主義の台頭 - ジェリコ
ロマン主義の進展 - ドラクロワ
*「キオス島の虐殺」1824. ドラクロワ24才の作品。Salonに初めて入選。ルーブル美術館 Muse'e du Louvre 所蔵
「キオス島の虐殺」は、トルコ軍のギリシャ侵攻の残虐性を描いている。15世紀以来、トルコの圧制下にあったギリシャ人は、19世紀にトルコから独立するための解放運動を起こす。1821年の暴動を制圧しようとしたトルコ政府は、一万人近いギリシャ人を虐殺したり、奴隷にした。詩人バイロンはこの大虐殺に憤慨し、ギリシャ救援を訴え、詩編『ミネルヴァの呪い』を書いている。この作品は、「静」ではなく「動」、「直線」ではなく「動線」でもって「人間の感情や激情」を表現している。
「擬音的」であり、伝統を超えた独自の「色彩」を特色とする「革新的」なこの作品は、古典派とは一線を画した「フランス絵画におけるロマン主義」を標榜している。個性と自由な表現に重きを置いたドラクロワの芸術精神は、ボードレールによれば「文学的な」精神をも象徴していた。それゆえに、古典主義派からは「絵画の虐殺だ」と激しく非難されたが、古典主義からロマン主義への移行を示唆するフランス絵画史における歴史的な作品と高く評価されている。
*現代の絵画専門家の間では、ドラクロワが宰相タレイランの隠し子であったとするかの著名な逸話は、ほぼ確実な事実とされているようである。
*サンドの書簡集には、ドラクロワとの往復書簡が残されている。ゴーチエやボードレールまたショパンと同様に、サンドは一貫してドラクロワを称賛し、その友情を暖めた。ドラクロワがサロンの権威筋に無視されるという一種の苛めにあった時には、花束や心の籠もった慰めの手紙を送っている。またサンドは、初期の作品『マテア』の中で、ギリシャ人と結婚し、トルコ衣装を身につけ男装し、職業を手にして自立する女性マテアを描く一方、ギリシャ人とトルコ人の国民性の相違やキオス島についても言及している。トルコ人の残虐性や美的感覚は批判しつつ、トルコ人の長所も挙げている。そこには、対立する両者の和解により、暴力のない理想郷を志向するサンドの思念が垣間見られる。他方、時代の境界線を超えた現代的ともいえる生き方をするヒロイン『マテア』には、ある意味では、ドラクロワの革新的な創作精神が具現化されているといえるのではないだろうか。
*参考までに、『マテア』については次の拙稿で取り上げております。
-「越境する小説空間『マテア』― 母性神話批判から自己超越へ」 (特集 ボーダレス時代を生きる)in『女性空間 』 no.24, 日仏女性研究学会・日仏女性資料センター 編, 2007, pp. 33~43.
-「ジョルジュ・サンドの『マテア』における変装と現代性」in『慶應義塾大学日吉紀要, フランス語フランス文学』
No.45、 慶應義塾大学出版会、2007、pp. 1~20.
http://ci.nii.ac.jp/naid/40015652746/ http://ci.nii.ac.jp/
-「La Modernite' dans "Mattea" de George Sand 』in "La Modernite' de George Sand" : Les Actes du colloque de George Sand, Cahiers du C.E.R.S., sous la direction d'Amina Ben Damir, Tunis, 2007、pp.189-201.
-『ジョルジュ・サンドにおける変装の主題 ー1830年代の作品群をめぐって ー』in『慶應義塾大学日吉紀要, フランス語
フランス文学』No.46、退官記念特集号、慶應義塾大学出版会、2008、 pp. 13~40.