西尾治子 のブログ Blog Haruko Nishio:ジョルジュ・サンド George Sand

日本G・サンド研究会・仏文学/女性文学/ジェンダー研究
本ブログ記事の無断転載および無断引用をお断りします。
 

1840年代のオペラ座 

2014年11月19日 | 手帳・覚え書き
1838年頃から、ポリーヌ・ヴィアルドのオペラ座との契約が話題になり始め、40年初めにはほとんど
確実視されていた。
La Gazette Musicale の編集長ブランシャールも、その理由をいくつも挙げ、強調。    LI34

マリー・ダグ-夫人のリストに宛てた手紙(1839.11.18):「彼女は流行の最高頂にいる} LI15

サンド:「マドモワゼル・ガルシアの出現は、女性によって扱われる芸術史において輝かしい歴史的事実である。
完璧であるとともにインスピレーションのひらめきに恵まれたこの女性音楽家の才能は、反論の余地のない決定的な
知性の進歩を証明している。それは女性が未だかつてこのような方法で表現されたことのないようなものである。」  L41
                
こうした様々な肯定的な表明にもかかわらず、ポリーヌはなぜかフランスの劇場では無視され続けた。

ルイ・ヴィアルドがその潔癖な性癖から辞任した後、1840年6月1日からオペラ座の新座長に就任したのは、
音楽上の知識が皆無の、どうしようもなく権威主義的なLeon Pillet だった。彼は美人だが才能に欠ける
マダム・ストルツの言いなりになった。就任後三ヶ月で,オペラ座はひどい状態に転落してしまった。
しかもこの状態は、その後、7年間も続いた。

ポリーヌ・ヴィアルドのフランスでの活躍を阻止した人たちは、この座長のほかにもいた:

マダム・ストルツ
1839年には引退していた歌い手のマダム・ストルツは、王立音楽アカデミーに復帰し、オペラ座の座長を
愛人とし、その運営にも口出しをしていた。

ポリーヌはオペラ座と契約したかった(ルイ・ヴィアルドのメイヤービア-宛ての手紙 1840年3月8日)。
しかし、要求が多すぎるとという一方的な口実により、彼女が新婚旅行でイタリアに旅立っていた間に
契約は履行されないことになってしまった。

メイヤービア-が介入し、彼女のために弁護したが無駄であった。

「メイヤービアーは、オペラ作品が二つ用意でき上がっているが、ポリーヌと契約しなければ渡さないと言った。
マダム・ストルツは、自分より実力が上の歌い手を座長に選ばせないよう画策したんだ。」(ショパンの家族に宛てた手紙)

ベルリオーズはこのようにライバル意識や策略が渦巻くオペラ座の状態を嘆き、次のように書いている。
「何という世界だ、このオペラ座という世界は。なんという策略、これほどのライバル意識、これほどの憎悪
(・・・)」   1839.1.22  AR p389 LIGP 35


ラ・グリズィ  
10年来、パリとロンドンでスターだった。
白い肌と大きな青い目をしていた。
当時、人気絶好調のオペラ歌手。しかし29歳のラ・グリズィは、10歳年下の新しいライバルの出現を恐れた。
彼女は愛人Léon Pilletを使って、すべてのライバルを排除した。彼女が大嫌いだったポリーヌ・ヴィアルドも
例外ではなく、フランスの舞台に立たせないようにした。 NB69
サンドもこのことに気づいていた。

他にも、ポリーヌへの思いを遂げられなかったミュッセの恨みや、その兄ポール・ミュッセの「本当にまあ、
彼女の醜さといったら。以前より少しは増しだがね・・・」といった辛辣な一言があった。
さらに、サンドが自分の出版社から『独立評論』誌に移ったことを不満に思っていた『両世界評論』誌の編集長
ビュロ-ズなどもいた。NB99

こうして、1841年から42年の冬の間、ポリーヌは、オペラ座からは遠ざけられたが、レカミエ夫人邸や
エラール邸など、芸術家や当時の知識人の集う私的なコンサートで大成功を博した。

サンドは、「その調子で!」とポリーヌを励ます一方、海外で演奏公演をおこなうよう勧めた。
その後、ポリーヌは、イギリス、ドイツ、オーストリア、スペイン、ロシアなどの欧州諸国で大成功を
博し、その名が語られる著名な大オペラ歌手となってゆく。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 記事のタイトルを入力してく... | トップ | フランソワ・ヌーデルマン氏... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

手帳・覚え書き」カテゴリの最新記事