西尾治子 のブログ Blog Haruko Nishio:ジョルジュ・サンド George Sand

日本G・サンド研究会・仏文学/女性文学/ジェンダー研究
本ブログ記事の無断転載および無断引用をお断りします。
 

Les paroles

2010年01月09日 | サンドの言葉より


"Malgré vos grands yeux de sphinx, vous avez vu le monde à travers une couleur d'or. Elle venait du soleil de votre cœur."
Gustave Flaubert à George Sand


""Aimer réellement c'est entrer dans l'infini."                      
George Sand Paris, mai 1869



画像はトクヴィルです。
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Balzac et Delacroix

2010年01月08日 | 十九世紀の文学
Conférence Balzac et Delacroix par Anne-Marie Baron, Présidente de la Société des Amis de Balzac et de la Maison de Balzac, et de Bernard Villoux, professeur à l'Université de Bordeaux III, le 16 janvier 2010 à 17 heures à la Maison de Balzac, 47 rue Raynouard, à Paris 16ème. Entrée libre dans la mesure des places disponibles.
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ボードレールとサンド

2010年01月07日 | 十九世紀の文学
ボードレールは、サンドより長く生きたように思っていたが、実際はサンドより15歳も年下であり、サンドより9年も早くこの世を去っている。ボードレールがサンドを嫌悪していたことは有名だが、その個人的理由として、彼の愛人の女優が予定されていた主演の役を降ろされた原因がサンドにあると誤解し、彼女に恨みを抱いていたことが指摘されている。しかし、もちろん恨みの原因はこれだけではなく、1848年の二月革命前と以後のボードレールの政治的思想の転換も関係していたのではなかと推測される。

ダンディとして知られ、ゴーチエと親交を結んだ詩人。
7歳で父を亡くし、養父を嫌った少年。サンドも4歳で父を亡くしている。若くして父親の遺産を食い潰し、禁治産者の扱いを受け、40代前半からは、若い頃の放蕩が原因の病に苦しんだ。
愛した女性への不信感とすべてに対する底なしの絶望とアンニュイ。
実生活では、借金に苦しみ、母親に生活費を無心する極貧の日々。社会の底辺に生きる貧者の詩人としてのプライドと懊悩。これらすべてが混淆したボードレールのペシミズムは、生半可のものではなかったと思われる。

詩人は、民衆を信じ、裏切られ、深く傷ついた。作品は検閲の憂き目を見て出版されず、私生活では貧困に苦しんだ。他方、人類の進歩と民衆を信じ、彼らの立場を無条件で擁護し、48年以降も売れる流行作家として邁進を続けるサンド。ボードレールは、サンドが女であるがゆえに一層、豊かな創作活動から生まれたサンドのいわば健全な理想主義を許すことができなかったのではないだろうか。

----読書メモ----
『フランスロマン主義と人間像』篠田浩一郎  未来社 1965

ボードレール(1821-1867)は、1846年には25歳、二月革命の2年前は、人間苦悩という思想を抱いていた。
5月発表の美術評論『1846年のサロン』のなかに『ロマン主義とはなにか」の章を設けている。
ロマン主義に、内面性、近代性、色彩性を要求。
近代芸術:「内密性」「神秘性」「色彩」「無限への憧憬」
ドラクロワに人間苦悩の表現をみた。これを機に、詩人は個人的立場から出て、歴史と向き合う。

ドラクロワの政治的立場が変化するのは、1846年のサロン後、一年半の間であろう。(p178)
「二月革命は詩人の生涯に刻印を押した。」(ジャン・カスー、p232)
ボードレールは二月革命までは「民衆を愛そう!」をスローガンに、プルードンやブランキの思想に共鳴していた。ところが、民衆の自重を望んでいたにもかかわらず、民衆はブルジョワの挑戦に乗ってしまい、二月革命は達成されなかった。民衆の狂気とブルジョワの狂気。これ以後、絶望したボードレールは、二月の理想を放棄。徹底したペシミストとなり、進歩の思想を否定。『悪の華』は「人間絶望の歌」といわれている。

1848年以降、ボードレールは「民衆」という言葉を使わなくなり、「貧しい人々」と呼ぶようになる。
「民衆を愛そう」ではなく「貧しい人たちを殴ろう」。物乞いを殴って殴って殴り倒す。すると乞食もついに猛然と殴り返してくる、そのとき、詩人は叫ぶ:「君と僕は平等だ。どうか僕の財布を君と分かつ名誉を許してくれたまえ、」と。

人間は愛し合う前に、おのおのが愛し合うに値しなければならないのではないか。そうでなければ、人類はいつまでたっても、進歩と反動のシーソーゲームを繰り返すだけだ。「他人と平等であることを自ら証明する者だけが他人と平等であり、みずから自由を征服しうる者のみが、自由に値する。」人類はこのとき初めて進歩の道に入り、人間苦悩は、そのとき初めて
救われるだろう。

1852年  新憲法 出版法  検閲  
     『ラ・プレス』紙のような商業的、自由主義的な新聞まで廃止に。
1852-53 サバチエ夫人へのプラトニックな愛。
1853年  信仰の危機 「私には神や天はもう関係ありません」
      母への手紙
      三月 21才で関係を持った黒人混血女性のジャンヌ・ヂュヴァルと離別  ジャンヌ病で死去
         「私をアドミレ(尊敬)しない」「何事も学ぼうとしない」人間とこれ以上生活を続けるのは耐え難かった。
        ボードレールの女性蔑視や幻滅は、妻ジャンヌを起因としている。
  
 ボードレールの悲劇  1 政治的な理想の消滅  2 ジャンヌとの別離
            3 財政上の物質的欠乏  借金  貧困
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Mere et fille / sand sevigne colette

2010年01月06日 | 女性文学・女性
Mère et fille
Correspondances
de Mme de Sévigné, George Sand et Colette
[Correspondance]


Editeur : Folio
Publication : 15/9/2007

Résumé du livre
Cette anthologie propose une plongée saisissante dans l'écriture intime de trois femmes : Madame de Sévigné, George Sand et Colette ; ainsi qu'un dossier qui propose l'analyse de 'Sainte Anne, la Vierge et l'Enfant Jésus' de Léonard de Vinci et des groupements de textes thématiques et stylistiques.
Informations [pratiques]
Edition de Poche - Commentaire de Frédéric Maget
Prix éditeur : 5 euros - Prix alapage.com : 4.75 euros
Nombre de pages : 300 pages ISBN : 9782070346790
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avec 5% de remise sur alapage.com [Livraison gratuite]
L' avis [des lecteurs]
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Gateau des rois ガトー・デ・ロワ

2010年01月05日 | 料理 cuisine お菓子 ケーキ gateau

1851年、サンドはLes fetes des Rois を、一月五日の日曜日にお祝いしたようです。
Les fetes des Roisとは、公現節(1月6日)に家族あるいは友人でガレット・デ・ロワ galette des roisというケーキを食べてお祝いをするお祭りのことです。ガレット・デ・ロワは、一般的にはパイ生地にアーモンドクリームを入れて焼いたケーキで(南仏ではパイ生地ではなくブリオッシュケーキ)、このケーキの中には、陶製の王様や女王の形をしたフェーヴ(feve、ソラマメの意)が入っていて、切り分けられたパーツにフェーヴが入っていた人は、その日の王様や女王様になれるという宗教的行事です。子供を喜ばせるためのお遊びのようなものですが、フランス人はこれを食べないと一年が始まらないようです。

フランスではガレット・デ・ロワは1月1日の14時に売り出され、この行事は1月の間におこなうという慣習になっているようです。南仏でサンド研究をしつつドクターを目指して学生時代を送っていた頃、友人達の Les fetes des Rois のパーティに招待され、何と筆者のケーキのなかに女王のフェーヴが入っていたことがありました。みんなに紙製の金の王冠を頭に載せられて拍手を浴び、それが何のことかよくわからなかったことを思い出しました。映画「シェルブールの雨傘」にも、Les fetes des Roisのパーティのシーンがありますが、こうした文化を知らないと、カトリーヌ・ドゥ・ヌーヴがなぜ王冠を被るのか理解できないかもしれません。

WIKIによれば、ガレット・デ・ロワの起源は、古代ローマのサートゥルヌスの祭典サートゥルナーリアに遡るそうです。サートゥルナーリアの饗宴では豆を一つ入れたケーキが供され、豆が当たった出席者を宴の王とする習慣があったとのこと。

プロヴァンスでは、パイ生地ではなくブリオッシュ生地で作るガトー・デ・ロワ(gâteau des rois)があり、アカディアやケイジャンの人々の間にもこの行事は伝統として伝わっているようです。カナダにフランス系の先祖をもつアカディアの人々の一部は、北米のルイジアナ州にも定住しており、ケイジャンと呼ばれ、独特の音楽や文化を継承しています。彼らは祖先と同様、カトリックを宗教としていることから、ガレット・デ・ロワ の風習もしっかりと受け継いでいるのでしょう。

アカディアのガレット・デ・ロワ
アカディアの伝統的なガレット・デ・ロワはケーキ生地で作られ、王と女王を象徴するエンドウマメとインゲンマメまたは黒と白のボタンが一つずつ入っていた。地域によっては指輪、1セント硬貨、ぼろきれを一つずつ入れて焼いたガレット・デ・ロワを切り分け、公現節の会食の出席者に配り、指輪が当たった人は年内に結婚し、硬貨が当たった人は金持ちになり、ぼろきれが当たった人は貧乏が続くというように、一年間の運勢を占う習慣もあった。
Cf: http://ja.wikipedia.org/wiki/ガレット・デ・ロワ

日本でも、2009年末からセブンイレブンがガレット・デ・ロワを限定販売している(フェーヴはアーモンドで代用されている)そうです。価格は777円であり、本家ガレット・デ・ロワとは直接関係ない「ラッキーセブン」とかいう名前を付けられているとのことのようです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ガレット・デ・ロワ

ガレット・デ・ロワの作り方は次のサイトで  :

http://www.cakechef.info/patisserie/patisserie_ancienne/cake/017/index.html
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Piccino

2010年01月04日 | 海外のG.サンド研究
サンドの作品Piccinoが、グーテンベルグ・プロジェクトのEbokに リリースされ、インターネット上で読むことができるようになりました。次のサイトにアップされています。

http://www.gutenberg.org/files/30831/30831-h/30831-h.htm

The Project Gutenberg EBook of Le Piccinino, by George Sand

This eBook is for the use of anyone anywhere at no cost and with almost no restrictions whatsoever. You may copy it, give it away or re-use it under the terms of the Project Gutenberg License included with this eBook or online at www.gutenberg.org

Title: Le Piccinino
Author: George Sand

Release Date: January 2, 2010 [EBook #30831]

Language: French

Character set encoding: ISO-8859-1

*** START OF THIS PROJECT GUTENBERG EBOOK LE PICCININO ***

Produced by Carlo Traverso, Chuck Greif and the Online
Distributed Proofreading Team at http://www.pgdp.net (This
file was produced from images generously made available
by the Bibliothèque nationale de France (BnF/Gallica) at
http://gallica.bnf.fr)
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1851年のサンド

2010年01月03日 | 芸術・音楽・演劇、オペラ、舞踏など


この年は、サンドの劇作品 "Claudie" がパリの La Porte Saint Martin で上演されたため、体調がすぐれないにもかかわらず、サンドは1月半ばにパリとノアンを往復しています。2月には、"Claudie"の25回目の上演。大成功だったことがわかります。
パレ・ロワイヤル劇場での最初の公演は、2月22日。全部で43回上演された"Claudie"の最終公演は、3月3日。以降の上演は、
Nohant に近い町、La Chatreの劇場に移っています。

"Claudie"以外に、この年はサンドの劇作 "Moliere" が5月に La Gaiete 座にて上演されており、 Le National, La Republique, L'Asemblee national, La Patrie, Le Constitutionnel, La Presse などの各紙面が挙って "Moliere" の批評文を掲載。ゴーチエ Gautier も、批評文を寄せたうちの一人でした。

サンドはこの年、1月、3月、5月、11月の4回、パリに赴いています。旅行が簡単ではなかった時代に何度もパリと中部フランスを往復していたのでした。

2月15日からは、Revue des deux Mondes誌に、"Le Chateau des Desertes "『デゼルトの城』の連載が開始され、11月には『デゼルトの城』は単行本となって書店に並べられました。12月には、"Le mariage de Victorine" 『ヴィクトリーヌの結婚』の出版、このほか、サンド全集に搭載される作品のためにNotice やPrefaceを次々と執筆し、手紙も連日書き送るなど、この年に限らず、四十年に及ぶ作家生活を通し、サンドのエネルギッシュな創作活動は衰えをみせることなく、延々と続いたのでした。

3月に初めてNohantを訪れた出版社社長エッツエル Hetzel は、10月にも再度サンドの館を訪問しています。エッツエルは、サンドに要求することが多い面倒な編集長だったらしく、これに抗議して書いた手紙のなかの、Je vous embrasse tout de meme mais en faisant grimace.という言葉 は、サンドの編集者に対する不満な気持ちをよく顕しているように思われます。

-------
Claudie :
http://books.google.com/books?id=bSFbAAAAQAAJ&dq=Claudie++sand&hl=ja&source=gbs_navlinks_s

Moliere :
http://books.google.com/books?id=WMYDAAAAQAAJ&pg=PA142&dq=Moliere++sand&as_brr=3&hl=ja&cd=5#v=onepage&q=&f=false
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サンドと新年

2010年01月02日 | その他 autres
サンドはお正月をどのように過ごしていたのでしょうか。

1851年の元旦には、サンドはノアンで少なくとも三通の手紙を書いています。その中の息子モーリスに宛てた手紙には、大晦日の夜を皆でお互いに embrasser して終え、それからお年玉を交換し合った楽しそうな様子が描かれています。モーリスからのプレゼントは美しいベルトの飾り物のようなものだったらしく、サンドはこの贈り物をとても喜び、手紙の最後は、 Mille et mille embrassades encore et toujours. と結び、沢山の接吻を最愛の息子に送っています。

私生活では、マンソー(Alexandre Manceau ) との充足した愛の暮らしがある一方で、有名な女性作家の財産を狙う計算高い娘夫婦、特に娘ソランジュの夫クレザンジェのせいで、両者の関係はますます悪化してゆきます。サンドは、クレザンジェに誘われ、パリの妹夫婦の家を訪問し御馳走になった息子モーリスに、彼らとは親しくしないようにと書簡の中で助言しています。

1851年はフランスで7月に皆既日食が見られた年で、その年の暮れ12月2日には、ルイ・ナポレオンがクーデターを起こし、普通選挙制度が制定された年でもありました。

画像は、フランスのジョルジュ・サンド学会・前会長Anne Chevreau氏の著書、"Alexandre Manceau Le dernier amour de George Sand" です。

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本年もよろしくお願いいたします。

2010年01月01日 | サンドの言葉より
天気良好、晴れやかな新春が訪れました。
「真、信、心、芯、清、深、審、慎、伸、進」の文字にふさわしい新たな年となりますように。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。


自然は、永遠に若く、美しく、寛大だ。
自然は幸福の鍵を握っており、いかなる者もそれを奪うことはできなかったのである。

                 (ジョルジュ・サンド)

"La nature est eternellement jeune, belle et genereuse.
Elle possede le secret du bonheur et nul n'a su le ravir"   George Sand
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