日々雑感

読んだ本やネット記事の感想、頭に浮かんでは消える物事をつらつら綴りました(本棚7)。

三木清の「人生論ノート」

2017-12-25 07:45:11 | エッセイ
 NHK・(2017年4月)は三木清の「人生論ノート」でした。

 “人生論”というと、お堅い学者の説教、というイメージがなきにしもあらずで、敬遠しがちです。
 しかし三木清のそれは、私の心に響いてきました。
 時代背景から、言葉は回りくどく難解に見えますが、それをこの番組が紐解いてくれました。

 彼の思想をひと言で表現するとすれば「己を極めよ」ということでしょうか。

 中でも「孤独を否定しない」考えには大いに頷き、私自身が一匹狼的で“孤独”な理由が理解できたような気がしました。

 孤独は他人との間に生まれる。
 孤独は集団の中で生まれる。
 孤独でいることは、大衆に迎合しない強さを条件とする。他人と違う意見を持ち、それを表現する勇気が必要である。
 孤独は感情ではない、知性である。知性は扇動されないが、感情は扇動される。


 時代は第二次世界大戦前、国民が感情を扇動されて戦争に突入していく様子を暗に非難しているわけです。

 でもこの考え方は現在でも通じます。

 2017年12月現在、日本相撲界では日馬富士の傷害事件で蜂の巣をつついたような騒ぎが続いています。
 ふつう、スポーツ界で暴行事件が発生すれば、そのトップが責任を取って辞任するのが当たり前ですが、なぜか八角理事長は数ヶ月の減給のみで地位にとどまり、なぜか被害者側である貴乃花親方が「報告した・しない」「相撲協会に協力した・しない」で降格処分という重い処分を受けることになりました。

 え?だって傷害事件でしょう。刑事事件になる可能性もあり、警察に任せるべきでは?

 これは私には「現行相撲協会は指導に伴う暴力を是認し、それを改革しようとうるさく動き回る貴乃花親方を消し去りたい」としか思えません。
 
 貴乃花親方は真面目すぎる・堅すぎる嫌いはありますが、集団の中でも流されずに自分を主張する強さに共感しています。

 皆さんはどう感じているのでしょう。

■ 三木清の「人生論ノート」
100分de名著64
 「人生論ノート」という一風変わったタイトルの本があります。1937年に冒頭の一章が発表されて以来、80年近くもロングセラーを続ける名著です。「怒」「孤独」「嫉妬」「成功」など私たち誰もがつきあたる問題に、哲学的な視点から光を当てて書かれたエッセイですが、その表題に比べて内容は難解です。書いたのは、西田幾多郎、和辻哲郎らとも並び称される日本を代表する哲学者、三木 清(1897- 1945)。今年生誕120年を迎える三木は、治安維持法で検挙され、獄死した抵抗の思想家でもあります。
 三木はこの本で一つの「幸福論」を提示しようとしていました。同時代の哲学や倫理学が、人間にとって最も重要な「幸福」をテーマに全く掲げないことを鋭く批判。「幸福」と「成功」とを比較して、量的に計量できるのが「成功」であるのに対して、決して量には還元できない、質的なものとして「幸福」をとらえます。いわく「幸福の問題は主知主義にとって最大の支柱である」「幸福を武器として闘うもののみが斃れてもなお幸福である」。幸福の本質をつこうとした表現ですが、どこか晦渋でわかりにくい表現です。
 こうした晦渋な表現をとったのには理由があります。戦争の影が日に日に色濃くなっていく1930年代。国家総動員法が制定され、個人が幸福を追求するといった行為について大っぴらには語れない重苦しい雰囲気が満ちていました。普通に表現しても検閲されて世に出すことができなくなると考えた三木は、哲学用語を駆使して表現を工夫し、伝わる人にはきちんと伝わるように言葉を磨き上げていったのです。
 哲学者の岸見一郎さんは、「人生論ノート」を、経済的な豊かさや社会的な成功のみが幸福とみなされがちな今だからこそ、読み返されるべき本だといいます。一見難解でとっつきにくいが、さまざまな補助線を引きながら読み解いていくと、現代を生きる私たちに意外なほど近づいてくる本だともいいます。
 厳しい競争社会、経済至上主義の風潮の中で、気がつけば、身も心も何かに追われ、自分自身を見失いがちな現代。「人生論ノート」を通して、「幸福とは何か」「孤独とは何か」「死とは何か」といった普遍的なテーマをもう一度見つめ直し、人生をより豊かに生きる方法を学んでいきます。




第1回:真の幸福とは何か
三木清は「幸福」という概念を考え抜いた。幸福を量的なものではなく、質的で人格的なものであるととらえなおす三木の洞察からは、経済的な豊かさや社会的な成功のみが幸福なのではないというメッセージが伝わってくる。そして、真の幸福をつかんだときに、人間は全くぶれることがなくなるということもわかってくる。第一回は、三木清がとらえなおそうとした「幸福」の深い意味に迫っていく。

第2回:自分を苦しめるもの
「怒」「虚栄心」「嫉妬心」。誰もがふとした瞬間に陥ってしまうマイナスの感情は、暴走を始めると、自分自身を滅ぼしてしまうほどに大きくなってしまう。これらの感情をうまくコントロールするにはどうしたらよいのか? 三木が提示する方法は「それぞれが何かを創造し自信をもつこと」。たとえば「虚栄心」には「自分をより以上に高めたい」といった肯定的な面も潜んでいる。「何事かを成し遂げよう」という創造性が、こうした肯定面を育てていくのだ。第二回は、自分自身を傷つけてしまうマイナスの感情と上手につきあい、コントロールしていく方法を学んでいく。

第3回:「孤独」や「虚無」と向き合う
三木清は、哲学者ならではの視点から人間が置かれた条件を厳しく見定める。そして人間の条件の一つを「虚無」だと喝破する。だがこれは厭世主義ではない。人間の条件が「虚無」だからこそ我々は様々な形で人生を形成できるというのだ。また、一人だから孤独なのではなく、周囲に大勢の人がいるからこそ「孤独」が生まれると説く。そして、その「孤独」こそが「内面の独立」を守る術だという。第三回は、人間の条件である「虚無」や「孤独」との本当のつきあい方に迫る。

第4回:「死」を見つめて生きる
「人生論ノート」の冒頭で、三木は「近頃死が恐ろしくなくなった」と語る。人間誰もが恐れる「死」がなぜ恐ろしくないのか? 死は経験することができないものである以上、我々は死について何も知らない。つまり、死への恐怖とは、知らないことについての恐怖であり、死が恐れるべきものなのか、そうではないのかすら我々は知ることができないのだ。そうとらえなおしたとき、「死」のもつ全く新しい意味が立ち現れてくる。第四回は、さまざまな視点から「死」という概念に光を当てることで、「死とは何か」を深く問い直していく。

<プロデューサーAの“こぼれ話”>
三木清が遺したもの
三木清「人生論」、実はこの番組のプロデューサーに就任してからずっと取り上げてみたかった本でした。大学時代に、全体はよく理解できないながらも、「幸福」について洞察するいくつかの文章が心に突き刺さった経験があり、いつか深く読み解いてみたいと思っていました。しかし、長らく、「これは!」という論者がみつかりませんでした。もちろん専門家による三木清についての優れた研究書はいろいろあるのですが、意外にも「人生論ノート」にスポットが当たったものは少なかったのです。

心の中で温め続けていたある日のこと。意外なところから道が開けました。アドラー「人生の意味の心理学」の解説を岸見一郎さんにお願いしたとき、書棚に三木清の全集があるのを見つけて、小さく「あっ!」と声を出して驚いたのを今でもよく覚えています。「アドラーの研究者である岸見さんが三木清を?」と一瞬意外な印象をもちましたが、一方でギリシャ哲学の研究者でもある岸見さんならば、もちろん読み込んでいてもおかしくないだろうと思いなおし、番組終了後にお話をお聞きしてみました。すると、なんと「人生論ノート」は、若き日に哲学を学び始める原点の一つにとなった名著だというのです。

三木清の難解な文章に見事な補助線を入れつつ、現代の私たちに近づけて解釈してくれる岸見さんの解説を聞き、これは講師をお願いするしかないと考えて、折に触れ打ち合せを続けてきました。ときあたかも、アメリカにトランプ政権が誕生し、フランスでは大統領候補としてマリーヌ・ルペン氏が大いに注目を集め始めていた時期。世界各国で排外主義的な思潮が猛威をふるいはじめていました。また、国内でも、少しでも政府に対して批判的な態度を示すと、「非国民」「反日」といったレッテルをはられて攻撃されてしまうような風潮が、ネット上を中心にたちこめていました。

岸見さんと三木清について話すたびに、「今の時代は、三木が生きた時代にとても似てきているかもしれない」という感慨が深まっていきました。とともに、「三木が、戦前の厳しい時代に、言葉を通してどう現実と闘っていたのか」を見極めていく作業は、今、この時代だからこそ、とても意義深いことではないかという思いも強くなっていきました。そして実際、番組をご覧いただいてもおわかりの通り、三木の言葉は、まるでこうなることを予言していたかのように、今の世の中の状況を鋭く抉り出してします。

晩年の三木清は、言論の自由も奪われ、特高警察にマークされていた昔の友人を一晩泊め外套を貸し与えたというだけで検挙され、最終的には、戦争が終結した後にもかかわらず、釈放されることなく獄死します。GHQが「人権指令」によって治安維持法を廃止したのは、一説によれば、この三木の獄死に衝撃を受けたからだともいわれています。

犯罪とは無関係の一市民が、法律の拡大解釈で投獄され、殺される。こうしたことは二度とあってはなりません。三木の死を単なる過去の出来事としてかたづけてしまうことなく、貴重な教訓として、現代の制度設計の議論に徹底して生かしぬいてほしいと思います。

「感情を煽ることは容易だが、知性を煽ることはできない」。岸見さんは三木の知性に対する考えを一言に凝縮してこう表現してくれました。私たちは、ともすると、周囲の空気に流されてしまい、自分で考えることをやめてしまいがちです。三木は、こうした状況を「精神のオートマティズム」と名づけて鋭く批判しました。三木が訴え続けた、「知性」、そして「考え続けること」の大切さを胸に刻みながら、「偽善者」たちに煽られることなく、「孤の独立」を守り抜いていくこと。それこそが、三木の遺してくれたものを生かす道だと思います。


バートランド・ラッセルの「幸福論」

2017-12-25 07:28:24 | エッセイ
 NHK・100分de名著70(2017年11月)は、バートランド・ラッセルの「幸福論」。

 興味があり視聴したところ・・・あまり得るところがありませんでした。
 何となく「ストレスを回避するために発想転換で自分をだますスキル」に尽きてしまうような印象を受けました。
 現在、精神疾患の補助治療として普及している「認知行動療法」の流れですね。

 その発想とは、「目の前のことにとらわれるな、宇宙という視点から見れば、ごくごく些細なこと」。

■ バートランド・ラッセルの「幸福論」
100分de名著70
 バートランド・ラッセルの「幸福論」。アランやヒルティの「幸福論」と並んで、三大幸福論と称され、世界的に有名な名著です。この名著を記したラッセルは、イギリスの哲学者でノーベル文学賞受賞者。核廃絶を訴えた「ラッセル=アインシュタイン宣言」で知られる平和活動家でもあります。そんな彼が58歳のときに書いたのがこの「幸福論」です。
 なぜラッセルはこの本を書いたのでしょうか? 平和活動に邁進したため、ケンブリッジ大学を追われ6ヶ月も投獄された経験をもつラッセルですが、それでも決してゆるがない幸福があるというのが彼の信念でした。思春期には、自殺すら考えたこともあるラッセル。しかし、そんな彼を思いとどまらせたのは、「知へのあくなき情熱」と「自分にとらわれないこと」でした。それは、その後の人生を生きる上での原点であり、どんな苦境にも負けない支えとなりました。
 専門領域で、数理哲学を大成した書といわれる「プリンキピア・マセマティカ」を書き上げ、一つの仕事を成し遂げたと考えた彼は、今後は、後世の人々のために「人生いかにいくべきか」「幸福になるにはどうしたらよいか」といった誰もがぶつかる問題を、自らの原点を踏まえて考究し書き残そうとしたのです。
 ラッセルの「幸福論」のキーワードは「外界への興味」と「バランス感覚」。人はどんなときにでも、この二つを忘れず実践すれば、悠々と人生を歩んでいけるといいます。そして、それらを実践するために必要な思考法や物事の見方などを、具体例を通して細やかに指南してくれるのです。まさに、この本は、人生の達人たるラッセルの智慧の宝庫といえるでしょう。
 番組では、指南役に、市井の中で哲学することを薦める哲学者・小川仁志さんを招き、ラッセル「幸福論」に秘められたさまざまな智慧を読み解いていきます。

第1回:自分を不幸にする原因
ラッセルは、「幸福論」を説き起こすにあたり、「人々を不幸にする原因」の分析から始める。その最たるものはネガティブな「自己没頭」。それには、罪の意識にとりつかれ自分を責め続ける「罪びと」、自分のことを愛しすぎて他者から相手にされなくなる「ナルシスト」、野望が巨大すぎるが故に決して満足を得ることができない「誇大妄想狂」の3つのタイプがある。いずれも自分自身にとらわれすぎることが不幸の原因であり、ラッセルは、自分自身への関心を薄め、外界への興味を増進していくことを薦める。第一回は、ラッセル自身の人生の歩みを紹介しながら、人々を不幸にしてしまう原因を明らかにしていく。

第2回:思考をコントロールせよ
不幸を避け幸福を招き寄せるには「思考のコントロール」が最適であると考えるラッセルは、その訓練法を具体的に伝授する。「悩みを宇宙規模で考える」「無意識へ働きかける」「退屈に耐える」「比較をやめる」……誰もが一歩ずつ踏み出せるちょっとした実践の積み重ねが深刻な悩みの解消へとつながっていくというのだ。第二回は、不幸に傾きがちなベクトルをプラスに転換する「思考のコントロール方法」を学ぶ。

第3回:バランスこそ幸福の条件
人は何かにつけ一方向に偏りがち。それが幸福になることを妨げているというラッセルは、絶妙なバランスのとり方を提案する。たとえば「努力とあきらめ」。避けられない不幸に時間と感情をつぎこんでも意味はない。潔くあきらめ、その力を可能なことに振り向けることで人生はよりよく進むという。また、趣味などの「二次的な興味」を豊かにしておくと、もっと真剣な関心事がもたらす緊張をときほぐす絶好のバランサーになるという。第三回は、極端に走りがちな人間の傾向性にブレーキをかける、ラッセル流のバランス感覚を学んでいく。

第4回:他者と関わり、世界とつながれ!
「幸福な人とは、客観的な生き方をし、自由な愛情と広い興味をもっている人」と結論づけるラッセル。客観的な生き方とは、自我と社会が客観的な関心や愛情によって結合されている生き方であり、「自由な愛情と広い興味をもつ」とは、自分の殻に閉じこもるのではなく、外に向けて人や物に興味を広げている状態のことだという。真の幸福は他者や社会とつながることによってもたらされるのだ。第四回は、ラッセルのその後の平和活動にもつながる、自我と社会との統合を理想とした、独自の幸福観を明らかにしていく。

<プロデューサーAの“こぼれ話”>
哲学を机上から解き放つ

 哲学者・小川仁志さんとの出会いは、同じく哲学者の萱野稔人さんとの対談本「闘うための哲学書」を読んだことでした。カント「永遠平和のために」を番組で取り上げるための参考にしようと思って読んだのですが、カントの解釈については、萱野さんの考え方に共感し、講師に抜擢したのでした。
 ただ、立場は異なるとはいえ、小川さんがエネルギッシュに議論を続ける姿にとても興味を持ちました。小川さんの議論は、哲学を単なる訓詁注釈の対象にするのではなく、現実の問題を分析し、解決するヒントにしようという姿勢に貫かれていました。
 興味につられ、最初に手にとった小川さんの著作が「市役所の小川さん、哲学者になる 転身力」。読んでみて驚きました。「エリート街道まっしぐら」からの挫折。ひきこもり体験。どん底から立ち上がるために手にした「杖」が哲学だったこと。「絶えず外に向けて関心を持ち続け幸福を目指していく姿勢」。どこかで読んだことがあるなと考え続け、はたと思い当たったのがラッセル「幸福論」でした。
 果たして、直観は当たっていました。ちょうど一年前、取材で山口大学を訪ねたときのこと。解説してもらう候補の一冊としてラッセル「幸福論」の内容をまとめたレジュメをお見せして説明をしていると、「今、思うと、ぼくは、ラッセルの『幸福論』をそのまま実践していたのかもしれませんね」と、ぽろりとおっしゃったのです。
 この言葉に心を強くしました。小川さんに解説してもらえたら、単に机上の学問ではなく、「生きた知恵」としての哲学を伝えることができるのでは、と確信したのです。まさに、番組の中でも、小川さんは自らが生きてきた足跡を随所の交えながら、ラッセルの考え方をわかりやすく伝えてくださいました。実際の人生体験に裏打ちされているがゆえに、とても説得力のある内容になったのではないかと思っています。
 「行動する哲学者」を標榜する小川さんですが、その姿はラッセルと重なります。小川さんは、哲学研究をするだけではなく、その知識を生かして、山口の街づくりに取り組んだり、市民とともに哲学について語らう「哲学カフェ」を主宰するなど、八面六臂の活躍をされています。番組の打ち合わせ中に、ふと「哲学カフェってどんな雰囲気ですか?」とお尋ねすると、「ちょうど今やっているように、縦横無尽に素朴な質問が飛び交う…こんな感じが哲学カフェなんですよ」と笑っている姿が印象的でした。みなさんも、番組を通じて「哲学カフェ」の雰囲気を感じていただけるとうれしいです。


 こんな考え方はいかがでしょう?

 現代社会では、人類(男女)平等、人間に優劣を付けることは隠蔽され、小学校の運動会の徒競走では順位がつかないところもあると聞きます。
 しかし、私もあなたも、この世に生を受けた時点で既に競争社会の勝者なのです。
 一回の射精では約1億の精子が放出されます。
 そのうち卵子に侵入できるのは1つだけ。
 つまり、1億の仲間の死の上に、あなたの生は成り立っているのです。
 
 「死んだら消えていなくなりたいから、私は臓器提供をしない」という意見。
 いえいえ、死んでもなくなることは不可能です。
 なぜって、体が焼かれて灰になっても、物質が形を変えるだけで、この地球上から元素はなくならないからです。
 逆に言うと、現在生きているこの体も、先祖からの遺伝子は特異的ですが、自然界の動植物からエネルギーを取り込んで生きていますから、自然界と有機的に結びついています。
 「では宇宙に散骨すれば地球上から消えることができる」という意見もあるでしょう。
 でも、宇宙から消えることはできませんね。

ソラリス

2017-12-17 13:16:02 | 小説
 「ソラリスの陽のもとに」(スタニスワフ・レム著、1961年)を読んだのは、高校生の頃だっただろうか。

 当時SF少年と自称し、海外のSF小説を読みあさっていた私も、その内容に面食らった。
 なんだこのSFは?
 宇宙に向かって広がるストーリーではなく、人間の心の奥底に切り込んでいく展開なのだ。
 混乱させられた。
 でも、言葉にできない不思議な余韻とともに、私の記憶の中に沈殿していった。
 「深層心理小説」とでも名づけたい、ファンタジー。


(私の持っている文庫の表紙はこれ)

 そしてタルコフスキー監督の映画(1972年)も見た。
 暗い海が穏やかに波立ち、何かを語りかけるよう・・・それが永遠に続く映像が目に焼き付いている。



 その後、ジョージ・クルーニーを主演に迎え、ソダーバーグ監督によりもう一度映画化された(2002年)。



<内容>(amazonより
惑星ソラリス――この静謐なる星は意思を持った海に表面を覆われていた。惑星の謎の解明のため、ステーションに派遣された心理学者ケルヴィンは変わり果てた研究員たちを目にする。彼らにいったい何が? ケルヴィンもまたソラリスの海がもたらす現象に囚われていく……。人間以外の理性との接触は可能か?――知の巨人が世界に問いかけたSF史上に残る名作。レム研究の第一人者によるポーランド語原典からの完全翻訳版。


 SF映画「禁断の惑星」(1956年、アメリカ)という作品も忘れられない。「潜在意識が実体化する」同系統のストーリーだ。

 人間のダークサイドを扱ったこれらの映画作品は、この後「スターウォーズ」シリーズに形を変えて受け継がれていった。

 NHK・100分de名著シリーズの2017年12月は「ソラリス」。

■ ソラリス100分de名著71
 遺伝子操作、iPS細胞による再生医療……生命科学の進歩はとどまるところを知りません。AIや脳科学の飛躍的な進歩は「人間の意識」の解明に新たな光を当てようとしています。しかし、そもそも「生命とは何か」「意識とは何か」というより根源的な問いの解明については、人類はまだその入り口に立ったばかりです。そんな現代的な問いを予見するように問うた小説が今から半世紀も前に書かれていました。スタニスワフ・レム「ソラリス」。SF作品の歴代ランキング一位に常時ランクインし、世界30数ヶ国語にも翻訳されている作品です。また、二度にわたって映画化も果たし、ポーランド文学の最高傑作のひとつに数えられています。「100分de名著」では、科学の限界、人間存在の意味、異質な文明との接触の問題を鋭く問うこの作品を取り上げます。
 惑星ソラリスの探査に赴いた科学者クリス・ケルヴィンは、科学者たちが自殺や鬱病に追い込まれている事実に直面。何が起こっているのか調査に乗り出します。その過程で、死んだはずの人間が次々に出現する現象に遭遇し、自らの狂気を疑うクリス。やがて惑星ソラリスの海が一つの知的生命体であり、死者の実体化という現象は、海が人類の深層意識をさぐり、コミュニケーションをとろうする試みではないかという可能性に行き当たります。果たして「ソラリスの海」の目的は?
 この作品は、人類とは全く異なる文明の接触を描いているだけではありません。ソラリスの海が引き起こす不可解な現象は、人間の深層に潜んでいるおぞましい欲望や人間の理性が実は何も知りえないのではないかという「知の限界」をあぶりだしていきます。ロシア・東欧文学研究者の沼野充義さんは、レムは、この作品を通して「人間存在の意味」を問うているのだといいます。
 さまざまな意味を凝縮した「ソラリス」の物語を【科学や知の限界】【異文明との接触の可能性】【人間の深層に潜む欲望とは?】【人間存在の意味とは?】など多角的なテーマから読み解き、混迷する現代社会を問い直す普遍的なメッセージを引き出します。




第1回(12月4日放送)未知なるものとのコンタクト
 人間とは全く異なる「未知なるもの」と遭遇したとき人間はどうなるのか? 「惑星ソラリス上で不可解な自己運動を繰り返す海は果たして知的生命体なのか?」 理解不能な事態に直面し、人類は「ソラリス学」という膨大な知の集積を続けてきた。そして、登場人物たちも、海がもたらす想像を絶する事態に巻き込まれ、あるいは現実逃避、あるいは自殺へと追い込まれていく。主人公クリス・ケルヴィンは、自らの狂気を疑うが、ぎりぎりの理性の中でそれが現実にほかならないことをつきとめる。第一回は、人間の理性の可能性と限界を見極めようとする認識論的寓話として「ソラリス」を読み解く。

第2回(12月11日放送)心の奥底にうごめくもの
 既に死亡した人物が、実体をともなって再び出現するという恐るべき状況。しかも、彼らは、忘れがたいが悲痛さのため心の奥にしまいこんだはずの記憶の中の人物だった。自分自身が自殺に追いやってしまったかつての恋人ハリーと遭遇するクリスは、その現実を受け入れられず、ロケットで大気圏外に射出することで葬り去ろうとする。しかし、ハリーは再び忽然と出現する。やがて過去の探検隊の記録から、彼らは、ソラリスの海が人間の潜在的な記憶を探り、不可解な力で実体化したものということがわかっていく。ソラリスの海は、いったい何のために、このようなことを行うのか? 第二回は、抑圧された記憶や欲望を抉り出す精神分析的な物語として「ソラリス」を読み解く。

第3回(12月18日放送)人間とは何か? 自己とは何か?
 ソラリスの海が実体化したはずのハリーは、クリスとの交流の中で、より人間らしい自意識を育んでいく。クリスもそんなハリーを、元の恋人とは別の新たな人格として愛し始める。彼らの交流を見つめていると、「自己とは何か?」「他者とは何か?」という鋭い問いをつきつけられる。記憶をもとに造形されたハリーは単なるコピーではない。他者との関わりの中でオリジナルな自己を育んでいく存在なのだ。そして、クリス自身もそんな彼女に影響を受けていく。そして、ハリーは、これ以上クリスを苦しめたくないと、自ら「自殺」を選択するのだ。第三回は、「ソラリス」を通して、「人間存在とは何か」という根源的なテーマを考えていく。

第4回(12月25日放送)不完全な神々のたわむれ
 ソラリスの海が引き起こす謎の現象は、自分たちに向けての何らかのコンタクトではないのか? クリスたちは、潜在意識ではなく、はっきりとした自己意識を記録しX線に載せてソラリスの海に照射する実験を行う。しかし、海からの応答はなく、不可解な自己運動を繰り返すだけだった。最後の最後まで人間の理解を絶したままの絶対的他者「ソラリスの海」が暗示するのは、それが私たちにとっての「世界」や「神」のメタファーではないかということだ。クリスたちの体験は何も特別なものではない。私たちも、時として「なぜ?」「どうして?」としかいいようのない不条理な出来事に遭遇するものなのだ。第四回は、SF作家・瀬名秀明さんをゲストに招き、「ソラリス」にこめられた巨大なメッセージを、解き明かしていく。


コーヒーは有益か?有害か?

2017-12-04 06:15:49 | コーヒー
 この手の記事は忘れた頃にまた目にとまります。
 最近は「カフェイン中毒」も話題になりますね。
 今回紹介する論文では「コーヒーの飲用は、一般的な量であれば全般に安全で、1日3~4杯の飲用でさまざまな健康転帰のリスクが大幅に低減され、有害性よりも利益が勝る可能性が高い」とのことです。
 ただ、「高飲用量の妊婦は低飲用量または非飲用の妊婦に比べ低出生体重児の頻度が高く、妊娠第1期の早産、第2期の早産、妊娠損失が多かった」は気になりますね。

■ コーヒーは有益か?有害か?/BMJ
ケアネット:2017/12/04
 コーヒーの飲用は、一般的な量であれば全般に安全で、1日3~4杯の飲用でさまざまな健康転帰のリスクが大幅に低減され、有害性よりも利益が勝る可能性が高いことが、英国・サウサンプトン大学のRobin Poole氏らの検討で明らかとなった。研究の成果は、BMJ誌2017年11月22日号に掲載された。コーヒーは世界的に消費量が多く、とくに慢性肝疾患における利益の可能性が高いとされるが、コーヒー飲用の利益や有害性との関係は多岐にわたる。コーヒーと健康との関連を理解することは、介入研究に先立つ、有害性との関連の探索において重要であるとされている。

飲用の健康転帰との関連をアンブレラレビューで検証
 研究グループは、コーヒーの飲用とさまざまな健康上の転帰との関連の既存のエビデンスを検証するために、観察研究および介入研究のメタ解析の包括的レビュー(umbrella review)を行った(研究助成は受けていない)。
 医学データベースを用いて、成人におけるコーヒー飲用と健康転帰の関連を評価した観察研究および介入研究のメタ解析の論文を選出した。コーヒー代謝の遺伝学的多形性の研究は除外した。
 67の健康転帰に関する観察研究のメタ解析201件、および9つの健康転帰に関する介入研究のメタ解析17件が同定された。

妊婦および女性の骨折を除き、高い安全性
 コーヒーの飲用は、摂取量の多寡、飲用の有無、1日の飲用杯数の1杯の差などのすべてで、健康転帰に関して有害性よりも利益との関連を示すエビデンスが多かった。
 コーヒーをまったく飲まない集団に比べ1日3~4杯飲用する集団は、全死因死亡(相対リスク:0.83、95%信頼区間[CI]:0.83~0.88)、心血管死(0.81、0.72~0.90)、心血管疾患(0.85、0.80~0.90)などの相対リスクが有意に低いことを示す要約推定値が得られ、飲用と健康転帰の間には非線形関係のエビデンスが認められた。
 飲用量の多い集団は少ない集団に比べ、がんの発症リスクが18%低かった(相対リスク:0.82、95%CI:0.74~0.89)。また、飲用はいくつかのがん種や神経疾患、代謝性疾患、肝疾患のリスク低下と関連した。
 高飲用量の妊婦は低飲用量または非飲用の妊婦に比べ低出生体重児(オッズ比[OR]:1.31、95%CI:1.03~1.67)の頻度が高く、妊娠第1期の早産(1.22、1.00~1.49)、第2期の早産(1.12、1.02~1.22)、妊娠損失(1.46、1.06~1.99)が多かったが、これらを除くと、喫煙で適切に補正することで、コーヒー飲用による有害な関連はほとんど消失した。
 また、女性ではコーヒー飲用と骨折リスクに関連がみられたが、男性には認めなかった。
 著者は、「これらの関連の因果関係の有無を理解するには、頑健な無作為化対照比較試験を行う必要がある」とし、「重要なのは、妊婦を除き、既存のエビデンスによって、コーヒーは害を引き起こす重大なリスクなしに、介入法として検証の対象となる可能性があることが示唆される点である。なお、骨折リスクが高い女性は除外すべきだろう」と指摘している。



<原著論文>
・Poole R, et al. BMJ. 2017;359:j5024.

ECCOのゴアテックスシューズ「TRACK25」(831714-52600)

2017-10-26 14:45:28 | 時計・鞄・靴
 先日、久しぶりに靴を買いました。
 場所は「佐野プレミアムアウトレット」のECCO店。

 型番は「ECCO TRACK25 831714-52600」で、ゴアテックス仕様の革のシューズです。



 実はこれ、隠れたロングセラー。
 私がこの靴を手にとって眺めていると、店員さんが近寄ってきました。
 「お客さんが履いている靴と同じモデルです」
 と宣う。

 そうなんです。
 私はこのシリーズを履き続けて10年以上経過し、今の靴が二足目。
 最初に購入したのは、おそらく現行モデルの数世代前のバージョンと思われます。
 それをめざとく見つけた店員さんにこの靴のファンだと云うことがばれてしまいました。

 この靴のよいところは・・・

・「足入れ」がよい。紐靴ですが、ひもを解いたり結んだりしなくてもスリッポンのように履けてしまいます。しかしスリッポンのように脱げないという絶妙なバランス。この感覚は他の靴で味わったことがありません。

・ゴアテックスシューズなので足が蒸れません。汗っかきの私は、この靴に慣れてしまうと、他の靴が履けなくなります。

 「41」のサイズはありますか?
 と聞くと、
 「はい、あります、あります」
 と2つ持ってきました。
 理由を聞くと、
 「この靴を買う人は、大抵二足まとめ買いしていくのです。」
 らしい。
 
 そうなんです。
 買い損なうと、次はいつ出会えるのかわからない・・・結局私も二足買いしてしまいました。
 アウトレット店なので、正規の値段の1万円引き+二足買いで二足目はさらに10%引き!
 この靴が掲載されているカタログももらってきました。

 「いや〜いい買い物をした」
 と、とても満足して帰路につきました。
 一足が10年間持つので、少し前に2代目に履き替えたところですから、この先30年は靴を買う必要がありません。
 え・・・私の年齢を考えると、もう他の靴は要らない?

寂聴文学塾第10回「宇野千代」

2017-10-26 07:53:43 | 趣味
 寂聴文学塾第10回は宇野千代さんです。
 寂聴さんは生前の宇野千代さんと交流がありました。

 話を聞いていると、お姉さん的存在だった様子。
 その性格は「ハチャメチャ」(特に男関係)で、寂聴さんは「彼女の小説より彼女自身の方が面白い」。

 寂聴さんが作家になる決意をさせてくれた恩人でもあります。
 寂聴さんが夫について北京に住んでいたとき、書店で手にした宇野千代さんの小説「人形師天狗屋久吉」を読んで感動し、「こんなところでグズグズしているわけにはいかない、私も書かなきゃ」と思ったとか。

 宇野千代さんは純粋な小説家ではありませんでした。
 若い頃は実業家の片手間として小説をポツポツ書いていました。

 代表作は徳島の古道具屋の主人に聞いた話から発想して書いた「おはん」、
 画家の東郷青児から聞いた男女話を小説にした「色ざんげ」など。

 70歳になり、夫が亡くなり独りになってから、本格的に作家業に専念しました。
 寂聴さんはこの頃の小説が一番面白いと云います。

 95歳で書いた小説「或る小石の話」には、年齢を超越したエロスが描かれており、これを読んだとき寂聴さんは「ああ、宇野さんにはかなわない」と感じたそうです。

寂聴文学塾第9回「芥川龍之介」

2017-10-23 06:20:26 | 趣味
 寂聴文学塾第九回は芥川龍之介です。

 龍之介の母親は、彼が生後7ヶ月の時に発狂したそうです。
 龍之介は親戚の家に預けられて育てられました。
 その家の名字が芥川であり、元々の名前は違います。

 彼は超秀才だったらしい。
 鴎外もそうですが、明治の文豪はみな学業の成績優秀でした。

 20歳代で小説を書き始め、漱石に褒められてたいそう喜んだとか。

 「鼻」を取り上げて解説していました。
 彼は現実にはありそうにないことを書き、しかし現実世界に生きる読者の心を見事に描き出しているそうです。
 それが真実だから、100年立っても読み継がれていると。

 当時、作家の菊池寛が文藝春秋を創刊しました。
 龍之介は菊池寛に認められかわいがられました。
 その縁もあって「芥川賞」が創設されたそうです。

 菊池寛に逆らうと作家として生きていく道を閉ざされました。
 寂聴さんの師匠の今東光氏がその代表例。
 彼は作家の道をたたれ、京都で出家しました。
 後年、菊池寛がなくなったので作家活動を再開し、直木賞作家になりました。
 
 順風満帆に見えた龍之介の人生でしたが、33歳の時に精神衰弱を煩い、幻覚症状などが出現し不眠症に悩まされるようになりました。
 そして睡眠薬を多量服薬して自宅でなくなりました。享年35歳。

 昭和後半に活躍した指揮者の芥川也寸志さんは三男坊です。

寂聴文学塾第8回「森鴎外」

2017-10-23 06:19:43 | 趣味
 寂聴文学塾第八回は漱石と並ぶ明治の文豪、森鴎外です。
 
 イギリス文学者であった文系の漱石と異なり、鴎外は医師で軍医の最高位まで上り詰めたガチガチの理系です。
 幼い頃から秀才ぶりを発揮し、13歳の時に古今集の和歌を漢訳したそうです。

 しかし寂聴さんは別の面を見ていて「鴎外は女性と別れると冷たい、そっけない」と言います。
 ドイツ留学の時に知り合った女性(後に小説「舞姫」となります)も、結婚した妻と離縁するときも・・・。
 後年、40歳の鴎外は22歳の志げ(18歳年下!)と再婚します。その際に友人に自慢した言葉は、「少々美術品のような妻をもらった」などとつぶやいています。

 寂聴さんは鴎外の娘の森茉莉さんと親交があり、その話で盛り上がっていました。
 茉莉さんは厳格なイメージの鴎外と違って天真爛漫・破天荒で「こどもがそのまま大きくなったような人」と言われたそうです。

 鴎外の「雁」を取り上げて解説していました。
 高利貸しに囲われて東大近くに住んでいた妾と学生との恋(一歩手前)の物語。
 寂聴さんが語るとあまり面白そうな小説に聞こえてきません(^^;)。
 たぶん、ストーリーよりもその表現や心理描写が優れているのでしょう。

寂聴文学塾第7回「夏目漱石」

2017-10-23 06:19:08 | 趣味
 寂聴文学塾第七回は明治の文豪、夏目漱石です。

 漱石は「吾輩は猫である」で文壇デビューしました。
 そして「坊ちゃん」を発表してその地位を揺るぎないものとしました。

 寂聴さんはこの2作品はあまり好きではないそうです。

 次の作品「草枕」を高く評価しています。
 その有名な冒頭部分、誰でも耳にしたことがありますよね;

 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟さとった時、詩が生れて、画えが出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。


 なんだが人生の「生きづらさ」をコンパクトな文章ですべて表現しているようです。
 彼がこの文章を書いたのは39歳の時。
 若くして悟ってしまったのですね。

 寂聴さんは「草枕」の舞台になった熊本県の温泉へ取材で行ったことがあるそうです。
 漱石が泊まった宿、小説の中で主人公が湯に浸っているときに、ナミが突然裸で入ってきたお風呂などのエピソードも紹介しています。

 「草枕」の特徴の一つとして「読者を選ぶ」ことを指摘しています。
 文中にいきなりフランス語の詩が出てきたりして、客(読者)に媚びることをしていない。
 むしろ「このレベルについて来られなかったら読んでもらわなくてもいいですよ」とでも云わんばかり。

 寂聴さんは、夏目漱石を含めた小説家・芸術家を「非日常に生きる人達」と定義づけます。
 みんなと同じ日常生活を送っている人は、人に感動を与え後世まで伝わる作品を残すことはできません。
 しかし「非日常を生き続ける」ことには大変なエネルギーが必要です。
 それに耐えられる人が小説家であり芸術家になれると。

<参考>
夏目漱石の「神経衰弱」とは?(ブログ)

寂聴文学塾第6回「与謝野晶子」

2017-10-23 06:18:26 | 趣味
 寂聴文学塾第六回は与謝野晶子です。
 明治の文壇に嵐を巻き起こした晶子。
 寂聴さん曰く「究極のナルシスト」だそうです。

 性の解放を官能的な短歌で表現しました。
 「みだれ髪」に収められたこの歌は有名ですね;

 やわ肌の 熱き血潮に触れもみで 寂しからずや 道を説く君

 これは与謝野鉄幹に向けた歌だと思われていましたが、寂聴さんの話では違うようです。
 彼女は東京に出てくる前に、堺でも同人誌に参加していました。
 そこに参加していた僧侶に対しての誘惑だったとか。

 今年の夏休みに群馬県水上町猿ヶ京の「三国路与謝野晶子紀行文学館」に行きました。
 そこにこの歌が展示されていました。
 長女に「この女性は明治時代にこんな歌を詠んで世間を騒がせたんだよ」
 と紹介すると、彼女は目を丸くして驚いていました。

 彼女は歌人であり、小説家ではありません。
 ただ、源氏物語を現代語訳しましたので、それも実績の一つ。

 それから生涯夫である与謝野鉄幹(いい男だったらしい)を愛し、子どもを12人産みました。
 うち一組の双子がいて、名付け親は森鷗外(1862-1922)だそうです。

 晶子が世間を騒がせたのは「みだれ髪」の短歌だけではありません。
 戦争に招集された弟に向けてと云う形を取りつつ戦争反対を投げかけた「君死にたまふことなかれ」も大変だったと思われます。
 なにせ「天王は戦地に行かないくせに・・・」なんて言葉があるのです。

  君死にたまふことなかれ   
     旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて
          
   與 謝 野 晶 子

あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

堺(さかひ)の街のあきびとの
舊家(きうか)をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獸(けもの)の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されむ。

あゝをとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守(も)り、
安(やす)しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にひづま)を、
君わするるや、思へるや、
十月(とつき)も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。