生き甲斐の心理学

自分は何の為に生きているのか? 生き甲斐とは何か、自分の魂と成育史と身体を大事にしているか、を思索していきます。

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年07月17日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
心を傷つける人は後を絶ちません。沢山の人々が楽しんでいたチューリップを無残に切り取り、捨て去る人、このニュースに沢山の人々が哀しみました。幼児時代から大人時代になるまで、人は心は傷つけられながら生きてきました。しかし、心の傷が生まれても、神経症、精神病になるまで悩むのは馬鹿馬鹿しい事です。優しい心は必要ですが逞しく生き抜いていかないと、人は心を病む傾向があります。心の傷は解釈を変えると癒されます。解釈を変えると世界が変わります。愛と平和と許しと逞しい世界へ自分を追い込むように解釈して生き抜きたいものです。
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2019年07月16日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
兄弟喧嘩は人間の成長に必要な神様からのプレゼントです。大人になり冠婚葬祭に、しばしば参列する年齢になると子供の頃の大喧嘩が温かく懐かしい思い出話として会話され、晩年の兄弟の絆を深めてくれます。人によっては子供時代の喧嘩が尾を引いていて、大人になった今でも犬猿の仲、と言う話を聞くと、解釈を変えれば世界が変わるのに、残念な事だ、と思います。子供時代の心の傷は必ず<体験の解釈>を明るくし直す必要があります。アルツハイマー、まだらぼけ、記憶喪失等の老化現象が出る前に、この子供時代の心の傷をきちんと治療しておくと心が益々健康になります。

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2019年07月15日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
小学生低学年の頃、初めて人の冷たさを理解したようです。その頃は<冷たい>と言う言葉は知りませんでした。何か変だなあ、と慌てた記憶があります。大人になった今、あれを人間の冷たさ、と言うんだ、とわかりますが、あの頃は<何故、先生は自分にお母さんのようにしてくれないのか、変だなあ>と思っていたようです。<先生の気持ちを聞きに行く>知恵はありません。さて、人間の冷たさをこのようにして学習していく子供たち、自分を虐めることなく、自分をひがんだ人間にすることなく成長するのは難しいので、今、思い出す幼い頃の<冷たい思い出>を良い方向(自分を大人にしてくれた刺激材)に解釈していく努力をしたいものです。
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2019年07月14日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
大人になり幸せを手に入れると何故か、その幸せな日々から逃げ出す人がいます。無意識の問題です。幸せの後にくる恐怖が怖くて逃げだすのですが、意識しないで逃げ出す心の病気です。無意識のうちに、この幸せの後に意味不明の突然の不幸がある、と本能的に感じる為に、今の幸せから逃げ出す病気なのです。案外この種の大人は沢山います。幼児時代、両親から可愛がられていたのに突然の両親の交通事故で、そのあと、あちこちをタライ回しされた幼児の場合に、この種の心の病気が生まれます。親密さは人を幸福にする条件の一つなので本来、親密から逃げてはいけませんん。この問題をしばらく思索します。

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2019年07月13日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
60代、70代まで生き抜いてきても、いまだ解決していない幼児時代の心の傷を解決して、豊かで楽し晩年を迎えたいものです。この傷は晩年の思わぬ瞬間に発露してきて意味不明の鬱などの不幸な心の病気を生みます。この幼児時代の心の傷は既に意識の上にはなく、深層心理の奥深い部分に残っているものなので、処理が難しい領域の問題です。数年前、奈良東大寺のお水とりの松明(燃え盛る松明でした)を見て、私も或傷が癒され、心が晴れ晴れとした経験がありました。幼児時代の心の傷は良い意味でも悪い意味でもとても大切なものなので、楽しくこの分析を進めていきます。
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2019年07月12日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
長い歴史を持つ宗教は沢山がありますが、或る伝統ある宗教は<神様の愛を信じない事>が一番神様を哀しませることだ、と述べています。愛する恋人同士で、小さな諍いがあつた時に、自分の愛を相手が信じてくれなければ、どんなにか哀しいことでしょう。人は好んで自分から親を選んで生まれてきたわけではありません。いくら自由意思が与えられているからといっても誕生の環境から抜く出す事は殆ど不可能です。厳しい人生、突然の事故と病気、次から次へと難問が襲ってきます。それを切り抜けるとき、その宗教は神様の愛を信じて逞しく安心して生き抜いていきなさい、と激励しているわけです。この世でもあの世でも、いつも愛の中で生きられるように誘導してくれるものが自分が持つ自分の魂からの暗示であることを信じて安心して生き抜きたいものです。
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2019年07月11日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
仕事の関係もありましたが海外はよく出かけました。それだけに危険は多く、モスクワでの飛行機事故、アルゼンチンでの政治暴動、文化大革命の折の暴徒からの逃避行等で私は九死に一生を得ています。飛行機事故は胴体着陸でした。6名が死亡、しかも私の右側の方は頚椎損傷で即死でした。このような自分の死に遭遇すると人は相当乱れます。私はこの時、見苦しい人々を沢山見てしまいました。あのような見苦しい死に方だけはしたくありません。私も混乱しましたがロザリオをにぎりしめ静かに祈りながら突入していきました。我が命を神様に委ねきったあの安心感は不思議な喜びでした。あの不思議な喜びを私は生涯忘れる事が出来ません!.
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2019年07月10日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
大切な人の愛を無くす事は、何とも切ない惨めな日々を送る羽目になります。愛は一方通行では成立せず相互愛が条件ですが、男女の愛の場合でも、同性の友情の場合でも、無償の愛などと美辞麗句を並べている内は本物の愛は得られません。相手の愛が欲しい、友情が欲しい、と言う願いが本当の愛を創造していきます。相手の愛が欲しいけれど、何故かギクシャクした場合の回復方法はただ一つしかありません。相手の良いところ、美しいところを必死で探し出し心の底から感謝と賛美を照れずに言葉と態度に出す、厭味を言われても、ハリの筵に追い込まれても、毎日会う人の場合は1ケ月は我慢しつつ感謝と賛美を伝達する、これでだめならどう見切りをつけるか、考え直した方がよさそうです。愛の世界では図に乗る事は許されません。甘えは大切ですが.
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2019年07月09日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
海外で暴漢に遭遇し成功する人もいますが、逃げないで戦い、挙句の果てに殺される武道の有段者はほぼ2-3段の腕前だ、と言われています。日本国内では戦いの方法は予測がつきますが、海外の暴漢は手法が違います。そのあたりの現実吟味力の欠落が原因で殺されていきますが、もっと上の有段者は宮本武蔵のように上手に逃げて身を隠す術も心得ているようです。<俺は腕が立つ>というセルフイメージが現実的でないと命を失います。

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2019年07月08日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
ここ一番、と言う時に、大切なものを置いて逃げ出すのも生き残る知恵の一つです。しかし昔、電車の中で酔っ払いに絡まれて恐ろしくなり恋人を残して逃げ出した思い出のある男性が、やはり同じような事件でノイローゼになり入院してきました。その挫折感と劣等感は物凄く深く、自信喪失の原因になっています。時々襲う危機に対してどう自分を管理していくかを考えていきます。健全な危機管理と病的な危機管理意識の違いについて思索していきます。自分らしい危機管理を意識していないと大切な愛を失います。

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2019年07月07日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
日本全国どこに行きましても必ず神社仏閣があります。興味のある話を知人の警察関係者から聞いた事があります、近所に神社・お寺がある場所では犯罪は少ないし住民の精神衛生が良い、との話。欧米でも近所に心静まる教会や修道院があると人々の感情が何となく落ち着いている話は心理療法の研究室でも時々話題にあがりました。人々は日常生活ではほとんどイメージで行動しています。いちいち深刻に深く考えずに、軽やかに習慣的に行動しています。聖なるものを崇敬して生活したいものです。

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2019年07月06日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
日常生活での軽やかな会話でも、どちらかというと迷信的な発言よりも、何となく科学的な発言の方を現代人は好みます。しかし心を病む人はこの軽やかな会話のレベルで発病していくケースが多いのです。人間の感情も、この軽やかな会話からストレス曲線(不安、怒り、身体症状、鬱、錯乱)に陥り、神経症的に発症していくものです。科学的と思われている領域に意識を向けると、そこに大きな迷信、落とし穴があります。人は魂と心と身体で構成されています。愛である魂の存在を無視すると自分の死への恐れ、自分の死の意味などの大切な回答は科学からでは説明出来ません。古代からの宗教には深い意味、回答が潜んでいます。
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2019年07月05日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
劣等感は人を謙遜にする重要な感情ですが、その意味を知らずにひたすら、嫉妬とねたみに走る人が多いのは哀しい事です。その逆に、傲慢でつまらないことを威張りまわし、裸の王様のように一人芝居をしている人を見るのも哀しくなります。劣等感は大切な感情ですが、どこまでが正常で、どこまでが異常な劣等感なのかを識別する基準は<自信喪失感>です。この自信喪失感を感じたら、その感情を消そうとしないで、自分の大切な人生の夢をめらめらと燃やす努力をして、その貴重な願望を本能に近い強烈なものに転換していきましょう。

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2019年07月04日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
病院でも、介護の現場でも、世間でも、あの人は迷信を信じているなあ、この人は科学以外は信じない、と色々批判しあいます。これが問題で、果たして本当に迷信なのか、科学なのか、その選択は自由ですが、その選択の後で、大切な友を失わないかを考えないと、人生を棒に振る危険があります。科学的に考える人も精神病棟に入院してきますし、迷信だらけの人も入院してきます。選択肢を選ぶ基準を迷信的にするか、科学的にするかの問題ですが、その選択の決定の前に自分を愛する人々の気持ちを考えましょう。


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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年07月03日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
人生で発生してくる色々の問題、その問題をどの程度意識したらいいのか、問題意識が高い低いで幸福が左右されるのでしょうか、そんな日々の現代生活にも怨霊とたたりを恐れて霊感商売がはばをきかせたりしています。<迷信と科学>の問題は生き甲斐の心理学でも難しい領域です。科学的と思う領域に落とし穴あり、迷信と馬鹿にする領域に真実あり、この迷信と科学の領域を考えてみましょう。現代日本社会を明るくたくましく生き抜く方法を模索します.
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