廣島パイレーツ・チャンネル

広島の名も無き”田舎侍”が地元プロスポーツを中心に色々と書いて行く過激なスポーツコラムや、広島の市政や街づくりについても

“怪物”の夢(蔵出し)

2022-07-16 23:23:23 | Weblog
 2004年6月4日、ジャイアンツの清原選手は通産2000本安打を達成して名球会入りを果たした。 翌日の新聞はどこも大きく扱っていたのだが、私が気になったのはプロ入り19年目にしての2000本安打達成は史上3番目に遅い記録だと言う記事だった。 言われてみればそうだ... 他の選手ならいざ知らず、清原選手は何十年に一人の天才打者と言われ、高校からプロ入りして一年目にいきなり30本塁打の“衝撃デビュー”を飾り、その後も常勝チームとなったライオンズの四番打者としてプロ野球界の頂点を極めた選手なのだ。 それが何で大学や社会人から入った選手や、同じ高卒でも何年かの下積みの上でレギュラーになった選手に追い抜かれたのだろうか...


 私はカープのファンではあるが、今まで見て来たプロ野球の中で最も印象に残った場面は何かと聞かれれば私は即座に「ライオンズ時代の清原選手がドラゴンズとの日本シリーズで打った場外ホームランです。」と答えるでしょう。 ナゴヤ球場での第一戦、清原選手がドラゴンズのエース・小野投手から打ったホームランはレフトスタンドを軽々と飛び越え、球場の東を走る新幹線の高架下まで飛んだと言われる“伝説”を作った。 私はこの場面をテレビのスポーツニュースで見たのだが、そのホームランの映像を見た瞬間に何故かライオンズが勝つ予感がしてしまった。 何か圧倒的と言うか、“次元が違う”強さを見せ付けられた気がしたからです...


 最強時代のライオンズにはもう一人、秋山選手(ライオンズ⇒ホークス)と言うホームラン打者がいた。 彼も四番打者を任せられる強打者で、更に守備・走塁にも優れていてメジャーリーグに行っても通用すると言われた程の“スーパー選手”だったのだが、清原選手はそんな秋山選手を三番に従えていて何の違和感も感じさせない不思議な“何か”を持っていたと思います。 言葉で説明しにくいのですが、他の選手には無い“何か”を持っていたと言うか、どこか次元の違う“天才性”を見せ、強烈な輝きを放っていたと記憶しています。 だからこそ石毛・辻・平野・秋山・デストラーデ・伊東ら多士済済だった最強時代のライオンズの中にあって、そのライオンズの四番打者としてプロ野球の頂点を極める事が出来た。 そんな清原選手を人は“怪物”と呼んだ...


 突然ですが、カープの前田選手がアキレス腱断裂の大怪我に見舞われなかったら今頃はどうなっていたか? もしかしたらアメリカに渡り、メジャーリーグ球団の中心打者として活躍していたかも知れない。 物事に“IF”は禁物ですが、野球にも色々な“IF”があると思います。 特に清原選手の場合はその“IF”が色々と出て来ます。 例えば清原選手があと10年遅く生まれていたら? また清原選手が最初からジャイアンツに入団していれば...? また野球界にサッカー界みたいに高校在学時代からプロで活躍出来るシステムがあって、高校時代からプロ野球に入れていれば...等、つい色々な事を考えさせられてしまいます。


 何故かスポーツニュース等ではあまり詳しく紹介してくれなかったが、清原選手のこれまでのキャリア(戦歴?)を振り帰ってみると気になるのは24歳~30過ぎ位までの期間が“空白”になっている...いや、全く印象に残っていないのだ。 清原選手は前田選手みたいに大怪我で何年も試合に出られなかった訳では無い。 ちゃんと試合に出て普通にプレーしてはいるのだけど、以前の様に印象に残る活躍もしていなければ打撃タイトルも獲っていない。 衝撃的なプロデビューから5年位の“絶頂期”の後、試合には出ているものの印象に残らない時期が続いて、何時の間にかFA権を取得してジャイアンツに移籍し、何時の間にか怪我をして、引退の危機とまで騒がれてそれを何とか必死のトレーニングで乗り切って今に至る。 そう言えば何時の間にか清原選手を“怪物”と呼ぶ事は無くなっていた...


7月12日の巡回備忘録
 徒歩で自宅を出発⇒セブンイレブン五日市駅前店でカフェオレとスポーツ新聞の休刊日特別版を購入⇒五日市駅から広電の路面電車で広島市内中心部へ⇒原爆ドーム前電停で下車⇒市民球場跡......


 前から疑問に思っていたが、清原選手は何故“番長”と呼ばれているのだろう? 聞いた話ではどこかの週刊誌が『番長日記』と言う企画で清原選手を取り上げたのがこのニックネームの由来なのだそうです。 それを聞いて確かに納得したのだがまだ何かスッキリしないものが頭に残っていた。 それで今、この文章を書きながら気が付いたのだが、“番長”と言うニックネームの本当の意味は、スケールダウンしてしまい“怪物”と言うニックネームが似合わなくなってしまった清原選手に与えられた新しいニックネームなのだと。 現在、メジャーリーグで活躍中の松井選手(ヤンキース)は高校時代から“ゴジラ”と言うニックネームで親しまれている。 本人にしてみれば決して好きな呼ばれ方では無かったと思いますが、そんな“人が勝手に付けた呼び名”でもそれはみんなが自分に対して抱いているイメージであり、一種のトレードマークとしてずっと付き合って行く事が多い。 それが途中で変わってしまう事は決してありがたい話では無いと思うのですが...


 松井選手のこれまでのキャリア(戦歴?)を振り帰ってみると、ちょっとだけ下積み機関はありましたが一年目から一軍デビューを果たし、三年目くらいからホームラン打者としてクリーンアップに定着し、やがて四番打者となり、チームを何度も優勝に導いているが、打撃成績は三年目以降ほぼ安定して良く、しかも“絶頂期”を迎えた後もそのレベルを維持して打撃タイトルの常連となり、それでも更にキャリアアップに励んで日本時代の最終年である2002年シーズンでは三冠王に手を掛けるところまで行った。 同じ高校時代に甲子園を沸かして騒がれ、プロに入っても一年目から一軍に定着し、何度も優勝・日本一を経験して来た清原選手と松井選手だが、二人のこの違いはどこにあるのか考えたのですが、私はプロ野球の頂点を極めた後に次の目標を見定める事が出来たかどうかだと思います。 それはもちろんメジャーリーグへの挑戦です...


 カープの野村選手もまた2000本安打まで残り100本程に到達し、順調なら来年のシーズン初めにも達成出来そうだ。 彼はプロ入り後に急成長した選手で、入団時には典型的な1・2番タイプの走り屋だったのが徐々にパワーを付け、三割・30本・30盗塁の記録を達成する三拍子揃った“スーパー選手”に成長、そしてFA権取得時に球団にメジャーリーグ挑戦を表明したが、球団側の必死の説得に折れて日本球界に残った。 カープファンとしては野村選手がカープに残ってくれた事は嬉しいが、一方で野村選手の“成長”はそこで止まってしまい、それ以後は以前ほど印象の残る活躍が減り、何よりも成長を続けていた当時の“輝き”を失ってしまった感じがある。 結果論になるが、野村選手はあの時、メジャーリーグ挑戦をするべきだったのだと思わされました。 今の日本球界には頂点を極めた選手に更なる成長や進化を求めるだけの“刺激”が存在しないのでは? 現在、日本プロ野球のトップ選手のメジャーリーグ流出を懸念する声は多いが、今のプロ野球の有様では日本に残る事が本当に良い事なのか分からなくなって来る...


 頂点を極めた超一流の選手が日本に残っていても常に新しい刺激を受け続け、成長と進化をし続けられるにはどうすれば良いのだろうか...? ここ数日間考えていたが答えは見つからなかった。 一番手っ取り早い方法は支配化選手70人枠と外国人選手枠の完全撤廃でしょう。 更にプロ野球二軍と社会人野球との合流による本格的なマイナーリーグの創設し、そこから多くの有力選手を育成して送り込む。 それによって日本のプロ野球にも厳しい生存競争を実現して例え頂点を極めた選手でも常時進化し続けないといけない状況を作る。 または国の代表チーム同士による国際試合をもっと盛んにしたり、韓国や台湾、中国のプロ野球リーグと組んでのアジアリーグを創設するなど、そう言う“外からの刺激”を与える方法もある。 とにかく今のプロ野球の“マンネリ状況”を打破しないと、日本プロ野球のトップ選手のメジャーリーグ流出ばかり言っていては何の解決にもならないと思います...


 長々と書いて来ましたが、清原選手自身は幼き日からの憧れだったジャイアンツ入団を実現させ、マスコミにもチヤホヤされていて引退後の心配もまず無さそうだし、本人が幸せならそれはそれで良いのでしょう、きっと。 私も短い間だったけど“怪物・清原”のものすごいプレーをリアルタイムで見られてそれなりに幸せでした。 ありがとう。


 ...以上です。(20004年6月10日)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 流れの変わった日 | トップ | カープBOM2004年6月(3) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事